風に吹かれて ころんの日記

自然を愛しそよ風のような日記 

マリンパ-ク  その2

2006-08-07 | 旅と自然

マリンパ-クワシントンヤシの魅力 横向きそのままの画像で


幹アップ 植物のしゅうせいとは言えこの力強さ魅力を感じます。



薄ピンクの花が咲いています。葉っぱに負けず大きな枝です。



天然記念物 アツケシ草




    アツケシ草について
人工海浜マリンパ-クの1画で保存されています。立ち入り禁止になっていて
綺麗に撮れていませんが 市民で保存されている貴重なものです。


① 江戸幕府は鎖国令をしき、500石以上の船の建造を禁止していたが、
禁令3年後に商用に限って大船建造を認めていた。千石船の建造である。
大島の千石船に多喜浜塩田の塩を北海道に送り、帰りには北海道の昆布、
塩鮭等の物産を積んだが、空船の安定のために現地の砂を船底に積んだ。
最終港の久貢山の天野家海岸に積荷の砂を放り出した。北海道のアツケシソウが
砂とともに多喜浜に運ばれてきた。そして自然発芽して定着した。

② 「多喜浜塩田史」には寛政2年7月に大阪町奉行所に浜師が呼び出され、
尋ねられた記録によると、地元の船でなく他所より来航の船で塩を積み出して
名古屋50%、江戸30%、北国20%の比率で出荷していた。

③ 文化4年に、大島の孫一右衛門所有の船が9月に青森県下北半島の尻屋崎で破船した。
この船は十九反帆で、乗組員17人で、ほぼ千石船に相当する。
(文化7年に大阪で建造された十反船が480石船、乗組員7人乗り。)

④ 江戸時代は松前藩が北海道の物産を独占していた。先住民のアイヌ人は、
塩分補給を海魚、海獣に求めていたので塩の需要はなかったが、内地に送る魚の
保存用に塩の需要があった。江戸幕府は、幕末に八王子千人同心子弟を蝦夷(北海道)に
屯田指すことを考え、明治政府になってからも職を失った士族対策として移住させた。  (広報抜粋)



8月から11月頃に赤く染まったアツケシ草が見られます

新居浜市では塩田資料館建設推進委員会が建設に向けて講演会を開いています。