「永遠の贖罪」(A heartfelt apology)
という
に登場する像への
当方の第一印象。
像についての詳報は、
『「少女像の前で贖罪する安倍像」をどう思いますか?』
に詳しい。
題名の
"heartfelt" は、
深く[切に]心に感じた;心からの,真情あふれた(sincere)
和訳とは、ズレた意。
彫像「永遠の贖罪」(A heartfelt apology)
は対比の積み重ね。
そのポイントをいくつか挙げると、
・緑地の中に設置。
もし、採石場に置いたならば、全く異なる解釈に至るでしょう。
(ちなみに、司法系の人が映像媒体にて、友好的雰囲気の下で一般向けに講釈する際、背景に緑(草木)が入り込みがち)。
緑(草木)の効果を、最大限引き出している。
・男女の対比
・大人・若もんの対比
理詰めで作られている、というメッセージ。
・両者、視線は交わしていない。
未だ端緒に過ぎない、という緊張関係の名残が、
背景の緑(草木)と対比的。
・地べたと木の根っことの対比。
共に、人工物の上に座っていない。
(ルソー流に言えば)自然状態への回帰を示唆。
・手の形の対比
大人は、手を開いた状態、
若もんの手は、握った状態。
内心の葛藤が、握った状態の手に現われている。
もし、若もんの手が開かないうちに、大人が頭を上げれば、
元の木阿弥となる(日韓関係史はその繰り返し)。
で、先程紹介した通り、
視線や手の形から伺える通り、
両者の内心には明らかなズレがある。
にも拘らず、両者の距離は、
知り合いとのソーシャルディスタンス(社会的距離)
と大差ない。
つまり、
各彫像の姿・内心から生じる心理的距離
と
彫像間の物理的距離
との間に、
乖離がある。
なので、
この記事の題名にて
「像と像との距離が近い。」
とケチをつけた。
穏やかな線を「ややクセを残しつつ」紡ぎ、
(この記事で指摘した)様々な対比と細かな工夫を駆使して、
事の構造化して提示する、
彫刻家ワン・グァンヒョン
を、
当方は高く評価します。
ただ、
彫像「永遠の贖罪」(A heartfelt apology)
を見る前に、
予めルソーの著作を一通り読み込む事をお勧めします。
(もはや、文章の書き方・読み解き方ではなく、彫像の批評です。)
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