に
世界史を学びましょう。
アフリカ諸国の独立、その主要因は、植民地経営に必要な経済力・財政力・軍事力を、宗主国各国が維持できなくなったからですよ(「アフリカの年」は、スエズ動乱での英仏敗北から説明する方が手っ取り早いでしょう)。
あなたが、雑魚の戯言を鵜呑みしてしまう残念な脳の持ち主であることは、分かりました。
スエズ動乱での英仏敗北
は高校世界史の解説サイト、
「中東戦争(第2次)/スエズ戦争
1956年10月、ナセル大統領のスエズ運河国有化に反発したイギリス・フランス・イスラエルがエジプトを攻撃した戦争。」
が明快(ちなみに、国際法界隈では、スエズ動乱という表現を使いがちです)。
1956年10月、まずイギリスはイスラエルのベングリオン内閣を動かしてエジプトに侵攻させた。ダヤン将軍の率いるイスラエル軍は1週間でシナイ半島を制圧、さらに両軍がスエズ地区に出兵してスエズ戦争が開始された。国際世論は英仏とイスラエルの侵略行為を非難し、エジプトを支持する声が強く、ソ連(当時ハンガリー事件の最中であったが、フルシチョフは平和共存路線を模索していた)も英仏に対してミサイルで報復すると警告、アメリカはアイゼンハウアー大統領が大統領選挙に直面していたため英仏への援軍を派遣せず、英仏とイスラエルは国際的に孤立して撤退を表明した。エジプトは戦争では敗れたが政治的には勝利し、ナセルは「アラブの英雄」として人気が高まった。
スエズ動乱での英仏敗北
とは軍事的敗北ではなく、国際政治に於ける敗北。
1957年のスエズ動乱は、
イスラエルが順当に国土を広げた戦いであり、
米ソとナショナリズムの台頭を示した転機であり、
英仏の国力衰退(「植民地経営に必要な経済力・財政力・軍事力を、宗主国各国が維持できなくなった」)を招いた惨劇。
この三年後に、「アフリカの年」が来ます。
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