今年の目標は、これまでになく大事だ

2012-01-09 | Weblog
2012年は、
昨年の震災をきっかけに、さまざまな資本主義の危機を、
より冷静に、よりリアルに受け止める必要のある年だと思える。

2012年12月に人類になにか重大なことが起こるようなSF風評もある。
科学的には、それは今年だけでなく、いつなんどきでも生じうると思った方が正しい。
但し、だからといって、パニックになるほど普段から緊張するのは間違っている。

というわけで、自分の個人的な、今年の目標を考えたい。

振り返れば、これまで大変ちっぽけな人生であった。

大阪市に生まれたころの大阪では、父は、町工場を営んでいた。
ダイカストの加工製品を企業に納品していたが、
仕様通りにねじを切ったり、仕上げのバリ取りをしたりという仕事。
それは、僕が小学5年生までだ。
小6からは河内長野に夜逃げするように転居し、いきなり転校。

ということは、難波のエレキ街で電子キットを買ってもらったり、
自宅にある抵抗やOpAmpのバラックを使って80Wのコテではんだ付けして遊んで、
上手く行かなかったりした記憶があるが、それは小学5年生の頃のことになる。
”ラ研”という添削講座を受けさせてくれて、すでにオームの法則を駆使できたし、
長岡半太郎とラザフォード、そしてスーパーヘテロダイン方式と言う固有名詞は、
僕の憧れだった。理科だけは得意で、難問集を買ってきて、灘中の問題なども
すべて電気・磁気のところは満点取れるようになっていたのが、嬉しかった記憶がある。。。

その感覚は、転向と生活環境の悪化で、無意識のストレスと共に、
消えていった。

河内長野では、良く母は近くの食材屋さんにつけで必需品を買っていた。
買い物も、付けでお願いしてこいと、遣わされた記憶がある。
そこでの工場も上手く行かなかったらしく、父の弟が住む、
石川県小松市に転居することになったのは、
僕がテニス部に入って、ドカベンのマンガをコピーしたり、
マンガ家を目指して、マンガの通信添削を勝手に申し込んで叱られたころだ。。。
ある程度上手くて、期待したのか、それは許してくれていたが、
使い物になるストーリーが考えられない自分の幼稚さがいやで、マンガは当分諦めた。
中学一年生の夏休みに転居。

冬になるとびっくりだが、
そこは、雪国だった。にもかかわらず、

入居した借家は、

その後自宅の元祖フリーター引きこもり2年目まで、
僕が住み、妹達は、その後、会社に入ったり結婚するまで住むことになったのだったが・・・、

なんと、かなり老朽化して傾きかけた木造で、

かつ、二回の窓に至っては、なぜか襖戸であった。(紙一枚で外気を遮断するだけ)

(僕が福井大学に居るうちに、小松基地の騒音対策でサッシのガラス戸になったが、
時遅し。冬はコタツから手を出して勉強するのが難しいし、夏は
そもそも、自然の風と、扇風機だけだ。外で遊ぶ方がまし。)

芦城中学に入るまえに、芦城小学校で鉄棒で暇つぶししているときに、
近所のスポーツ店のお兄さんが声をかけてきて、
「なで肩だから、野球に向いている、野球やらないか?」
と小柄な僕に勧誘してきた・・・

それでなんでか、ドカベンみてあこがれた野球をやってみたくなり、
3年間ずっと補欠を通す、野球部に入部することにした。。。

ってなわけで、電子回路や回路設計という、お金がかかる、
部品購入が必要な遊びから、かろうじてグローブやユニフォームを
つけで買ってもらい、遊べるとともに、小柄でやや病弱だった体を鍛えることになる、
野球で頭がいっぱいになっていった。
(とはいえ、ゲームとしての野球の知識には、殆ど興味が無く、
運動としての野球ばかりしか、考える余裕はない、少年時代であった。
よって、当然、一流選手のように、物事を抽象化して考え、自分を目標をもって
成長させるとこはできなかった。体やボールの単純な成長や動きばかりが
面白かっただけである。でもまあ、初めは、まずはその楽しさからだ!)

高校では甲子園に行きたくて、かつ、レギュラーになりたくて、
小松明峰を受験することに決めたときは、
3年の夏休みから以後、殆ど勉強はせず硬式のボールで遊んでいた。

しかし、入学してみて知ったのは、野球部の人材不足と、
より困窮する家庭生活であった。
体力も精神力も技術も続かず、野球部での夢の実現を投げてしまったのは、
高校二年生の夏先だったか。。。。


英語だけはまともな点数がとれたので、
高校卒業まではなんとなく就職は嫌で、英語の教師を目指したのだったが、
文系科目の勉強の仕方をしらず、昔得意だった理科のノリですべてやろうとして、
大学にはいつも、1000点満点の共通一次というもので、
本番までの準備が足りず、失敗を繰り返した。

後輩に数学とコンピューターの得意な、一緒にキャッチボールをして
暇つぶしをしてくれる子がいて、彼の影響で、数学Ⅲ(微積分)を
教科書でやってから、数学は苦手ではあるが、それは、
訓練していないからと考え、理系に戻ることに決めた。

そして、彼に先を越され、金沢大電子工学科と東京理科大電気工学科に
合格されて、彼は東京に行ったこともあり、自分も、自立したく、
日本経済新聞の新聞奨学生として上京した。
芦城中学の同級生のK君(クラス会長・生徒会長)が一浪して
東大理科一類に入ったと知り、彼と同じ、駿台午前部理一の選抜受験を、
新聞やの仮の泊まり部屋から受けにいって、331番で合格し、
奨学生として駿台の学生証を手に、一年間配達・集金をしながら
とりあえず、甘い希望を持って東京での住み込み生活を始めたものであった。
夏は小さな扇風機だけで暑苦しい環境。
雨が多く、配達が終わるとシャワーは先輩の洗面器が列をなして、
予備校に一時間目には間に合わず。。。


結局、新聞奨学生としての成果は、
日経新聞店対抗の草野球大会で投手をして一試合完封したことだけとなった・・・・
いや、弟、まさはるが、真夏のあの恐ろしい箱に泊まりに来て、
二人で飯島真理の”Midori”の野外ライブに行った思い出があったか。
(きっかけは、坂本龍一プロデュースのアルバムを彼が気に入ったためらしい・・・)

そんな私が、この10年近く回路設計で食べさせて頂いてきた。

しかし、近年、
単価は安くなるし、扱っているのは既にコモディティー化しているジャンルだし、
単なる回路設計だけではなく、商品企画レベルの仕事でもできないと、
仕事の頻度も少なくなってきそうである。。。。

さて、何が自分らしい目標だろうか。


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