戦後教育を 考えてみるに これほど混乱の極に達したことはなかったろう.
学び舎も無惨に破壊され,廃墟と化した わが国土は 日々の暮らしの建て直しに
懸命で教育まで 手が回らない.そんな状態の中で 四散した在籍していた生徒たちを探し
父兄を 説得し ふたたび教育の灯を消してはならじと奔走していた.
そんな中で国は 生徒の受け入れに苦渋して私立学校に援助を求めてきた.
私立学校も 全校舎倒壊の中で バラック教室を急増して 詰め込み教育で 国の要請を
果たして来た.
当時 理事長は 職員を前にこう はなした. 「戦後 教育の建て直しのため 後十年間は
皆さんに 苦しい生活を耐えてもらわねばならない.つらいだろうが将来の教育界の再建のため
に理解して欲しい.」そうして再出発した学校は職員数 200名生徒数4500名というマンモス
学園となっていた.
凡そ現在では考えられない 学校経営である.受け持ちの学級などは82名の
詰め込み教室だった.一糸乱れずとは行かなかった.13名採用された同輩は最終的には5名
担っていた.
そんな時子供の出生率が始めて200万人を切った.少子化の到来である.わたしは
教頭にそのことを告げた.
一学級の生徒数を45名まで下げていく.現在一周30時間程度の持ち時間を13時間
魔で短縮されせる.職員構成年齢を現在の38歳から50歳まで引き上げる.当分
進路状況の変化に伴って 学級数を讒言する.
など少子化案が内定したのは 昭和40年初頭のことである.現在の同じ学校は
様変わりして昔日の面影はない.
私立学校はそれぞれ建学の趣旨と言うものがあった.これが私学のバックボーンとなり
公立ではできない教育を実施していた.たとえば占領下にあって 毎日国旗日の丸の掲揚をしていたのは多分わが高校だけではなかったろうか.
雨後のたけのこのごとく私立学校が出現した.有名大学のための高校,甲子園のための
高校,など特殊性を求めてである.わが校長はそれを邪道と一蹴した.
本来なら公立高校より私立高校が中心になるべはだろうし,寄付行為も認められるべきだと思
う.カルトみたいな宗教法人を無税にするより私立学校こそむ無税とすべきである.