現代版徒然草素描

勝手気ままに感じたままを綴ってみましょう。

学びの原点に

2009-01-19 12:49:02 | 学問

好奇心を学びの原点にすえて

 タルムードに限らず多くの教育書で触れているが、実際のところ、好奇心を教室や全ての学びの現場で上手に使いこなせているとは思えないのだ。確かに好奇心は制御しやすい性格のものではないのかもしれない。先生方も好奇心を利用すればよいのか理解していないのかもしれない。制御するのが難しいので避けて通っているのやら・・・・・。

しかし、これに基づかない学びは単に学習するという行為と、図書館を作ってしまいかねない。頭でっかちのいびつな人間になってしまうといえる。原体験が不足している為に、好奇心が沸いてこないのかもしれない。

はるか昔、農業を手伝うことで自然の摂理と収穫の喜びと何よりも社会に参加しているという誇りと、親や祖母たちとの豊かな会話の中にこそ真の創造的な教育の根幹が隠されていたような気がする。

近年、山村留学なるものが取りざたされているが、最近の農業は変化してしまっているのでどのくらい効果があるのかわからないところがある。多くの疑似体験を通して学習ということが行われているなど、マスメデァ等の影響によって感動及び感性に基づかない学習になってしまっているような気がしてならないのだ。

かといって、社会の全部を実体験できるようなことはどだい無理な話である。【質問するということは学びの第一歩である。学問は習うことだけではない。習うということは受身のことであり、質問するということは、積極的に自分から学ぼうとすることである。好奇心のない人間は成功しない。】といっているように学びの姿が積極的な状態をさしている。

昔、その道の奥儀を極めようとした求道学の精神が本当の意味の学びの精神なのかもしれない。現代的に表現すれば、ライフワークを持つということなのかもしれない。かなり年齢のすすんだ人でも生涯を通じて目標を持っている人は若くも感じるし生き生きしている。

私のところに来るメーカーの人たちも、以前の人たちに比べて何か魅力に欠けているのではないかと感じてしまうのは、ただ、商品を売りお金を集金していくだけの寂しい存在になってしまってはいないか。何らかの提案や問題解決のアイデアや個人としてライフワークは持っていないのではないかと考えさせられる。「そんなことをしているなら一軒でも多く回れ。」と発破をかけられているのかもしれない。

場合によっては、日本の企業風土の中に作業だけしていれば良いという考えかたが有るやも知れない。そのほうがその人にとって楽であるということかもしれないが、いつまでたってもスキルはアップして来ないだろう。

名南製作所のようなクリェィテブな環境にはなっていないのである。一通りのプレゼンテーションは出来るのだが、アイドマの原理さえ知らない。会社の看板を背負っているので営業できているとしか考えられないのである。そのほうが効率という面から判断すれば合理的であるのかもしれないのだが、何か物足りなさを感じるのは私ばかりではないらしい。

   注 アイドマの原理 プレゼンテーションやセールス・トークの際に説明する手順。論理学の起承転結や三段論法などのテクニック。

    【参考文献、ユダヤ人の発想 M・トケイヤー加瀬英明訳 徳間書店刊】【鍵括弧の部分はそのまま引用させていただいている。】

     この文章の前に、タルムードの書式について書いたものと、その書式にのっとってテレビの番組を図式化したものがある。図式化したものをブログに乗っけたいと試みたがスペース的に無理だったので削除してある。写真にとって拡大して見ていただくしかなさそうだ。

    【参考文献、不思議な会社 鎌田勝著 日本経営出版会】