ツイッター連動ですが、ブログではネタバレは一切気にしません。もっとも、これは私の趣味の文章で、麒麟がくるは「こうはなりません」。
つまり以下の文章はいくつかの情報に基づく想像で、実際の「麒麟がくる」とはほぼ関係ありません。もちろん史実とも「少ししか」関係ありません。
さて桶狭間の翌年1561年、蹴鞠をする「ユースケ、アリ義景」を信用できない十兵衛はまだ牢人のままです。蹴鞠もビジネスと分かっていても、ユースケ義景はあまりに楽しそうでした。そこに左馬助が「斎藤高政が病死した」という情報を持ってきます。結局は道三の呪縛から逃げられず、ストレスで体を壊した果ての若死にでした。しかし尾張の侵攻にはよく耐え美濃を守った。34歳。あとはまだ13歳の龍興が継いだと言います。十兵衛は合掌します。左馬助によれば、美濃は重臣たちの共同統治制になっており、13歳の龍興でもそう簡単に崩れることはないそうです。
ところが1564年、岐阜城が落ちているという驚くべき情報を左馬助が運んできます。竹中半兵衛(重治)とその妻の父親である安藤守就が岐阜城から龍興を追い出したというのです。竹中半兵衛といえば長良川の戦いで初陣し、道三側について戦ったものの、その後高政に仕えた美濃の小領主です。「城を奪っても、美濃衆の信望がなければ国は保てない」と十兵衛は考えます。予想通り、半年後には半兵衛は城を放棄し、美濃を脱出します。
その間、十兵衛にとっては大きな事件が続きます。義輝さんが殺されて、義昭さんが登場し。というわけで十兵衛は美濃にあまり興味を持っていませんでした。
ところが1567年、十兵衛にとって転身の年となる年ですが、竹中半兵衛が十兵衛を訪ねてきます。面識はありません。一度十兵衛に会ってみたかったと半兵衛は言います。道三様の真似をして城を奪ってみたものの、自分には信望のかけらもなかった。大将の器ではない。いまさらながら道三の凄さが分かったと言います。十兵衛は「おぬしは子供だったから知らぬであろうが、道三様だって色々欠点はあったのだ。しかし強い人であった」と語ります。そして半兵衛は意外なことを言います。明智公安が生きているかもしれないと言うのです。明智の里で匿われていると。そんな馬鹿なことはない。あの高政がそんな手抜かりをするわけない。しかしと半兵衛は言います。どうやら義龍様は知っていて見逃していたらしい、龍興が知っているかは分からないが、知っていたとしても、もはや力を持たない光安に興味はないだろう。「美濃のため、十兵衛殿とは協力したい。龍興では国人同士が争うばかり」そういって半兵衛は去っていきました。
その頃、越前には足利義昭が朝倉を頼っておちてきていました。十兵衛は義昭から信頼され「幕臣並み」の扱いを受けています。しかしユースケ義景はどうにも煮え切りません。十兵衛は尾張を頼ろうと思います。その為には信長に美濃を攻略させる必要がありました。信長が美濃と戦っている限り、上洛は不可能です。今までは美濃人として信長に美濃を売る真似はできないと考えていた十兵衛でしたが、義昭のこと、そして叔父の光安のことを思い、考えを変えます。「西美濃三人衆を調略すればよい」、そのことは誰の目にも明らかでしたが、方法がありませんでした。しかし半兵衛を通して安藤守就を説得すればいい。氏家卜全は安藤が説得できる。そう帰蝶に知らせます。しかしあの稲葉は十兵衛も苦手です。そこに帰蝶から使いがきます。使いは「木下藤吉郎」と名乗ります。十兵衛に紹介状さえ書いてもらえば、稲葉一鉄は自分が調略すると楽天的に話します。自分が稲葉と敵対的であることを告げ、紹介状なら竹中半兵衛がよかろうと、半兵衛に手紙を書きます。半兵衛の協力を得た藤吉郎は瞬く間に稲葉を調略します。
斎藤龍興はうわさのように暗愚ではなく、かなり抵抗しますが、それでも最後は美濃衆に背かれ、美濃はおちます。龍興は美濃を脱出し、今後信長と光秀の前に立ちはだかる存在となります。信長は岐阜城に入ります。帰蝶からの手紙で、十兵衛は本当に明智公安が生きていることを知ります。足腰が相当弱くなったがそれでも生きていると。十兵衛はお牧と煕子、左馬助を連れ、美濃に急行します。十兵衛たちは十年ぶりに光安と対面をします。人のいい村の長老。それが今の光安の姿です。お牧は、公安とともに村に残ると言います。伝五たちも駆けつけてきました。
岐阜城に上がった光秀は城内で稲葉一鉄とも再会します。「やあやあ、十兵衛なつかしや」、まるで百年の友のように振る舞う稲葉に十兵衛は憮然とします。
信長に対面した十兵衛は義昭を奉じての上洛を要請します。しかし信長は浮かぬ顔です。
「そんなことをして織田に何の得がある」と言うのです。十兵衛は亡き道三を思い出します。
「得はある。将軍上洛を名目にすれば、朝倉は動かない。徳川、浅井も協力するだろう。南近江の六角領地と、伊勢がまたたくまに織田家のものになる。」
しかしと信長は言います。
「道三殿の言ったという大きな国か。しかし国が大きくなれば争いも増えよう。その争いを止めさせるだけの力が幕府にあるか。義昭様がどんな優れた人物でもそれは難しかろう」と。
十兵衛は「大きな国」構想を超える論理を考えるようになります。「天下の統一」、そんな言葉が浮かびますが、当時としてはありえないことであり、馬鹿げた夢想と言えるものでした。
つまり以下の文章はいくつかの情報に基づく想像で、実際の「麒麟がくる」とはほぼ関係ありません。もちろん史実とも「少ししか」関係ありません。
さて桶狭間の翌年1561年、蹴鞠をする「ユースケ、アリ義景」を信用できない十兵衛はまだ牢人のままです。蹴鞠もビジネスと分かっていても、ユースケ義景はあまりに楽しそうでした。そこに左馬助が「斎藤高政が病死した」という情報を持ってきます。結局は道三の呪縛から逃げられず、ストレスで体を壊した果ての若死にでした。しかし尾張の侵攻にはよく耐え美濃を守った。34歳。あとはまだ13歳の龍興が継いだと言います。十兵衛は合掌します。左馬助によれば、美濃は重臣たちの共同統治制になっており、13歳の龍興でもそう簡単に崩れることはないそうです。
ところが1564年、岐阜城が落ちているという驚くべき情報を左馬助が運んできます。竹中半兵衛(重治)とその妻の父親である安藤守就が岐阜城から龍興を追い出したというのです。竹中半兵衛といえば長良川の戦いで初陣し、道三側について戦ったものの、その後高政に仕えた美濃の小領主です。「城を奪っても、美濃衆の信望がなければ国は保てない」と十兵衛は考えます。予想通り、半年後には半兵衛は城を放棄し、美濃を脱出します。
その間、十兵衛にとっては大きな事件が続きます。義輝さんが殺されて、義昭さんが登場し。というわけで十兵衛は美濃にあまり興味を持っていませんでした。
ところが1567年、十兵衛にとって転身の年となる年ですが、竹中半兵衛が十兵衛を訪ねてきます。面識はありません。一度十兵衛に会ってみたかったと半兵衛は言います。道三様の真似をして城を奪ってみたものの、自分には信望のかけらもなかった。大将の器ではない。いまさらながら道三の凄さが分かったと言います。十兵衛は「おぬしは子供だったから知らぬであろうが、道三様だって色々欠点はあったのだ。しかし強い人であった」と語ります。そして半兵衛は意外なことを言います。明智公安が生きているかもしれないと言うのです。明智の里で匿われていると。そんな馬鹿なことはない。あの高政がそんな手抜かりをするわけない。しかしと半兵衛は言います。どうやら義龍様は知っていて見逃していたらしい、龍興が知っているかは分からないが、知っていたとしても、もはや力を持たない光安に興味はないだろう。「美濃のため、十兵衛殿とは協力したい。龍興では国人同士が争うばかり」そういって半兵衛は去っていきました。
その頃、越前には足利義昭が朝倉を頼っておちてきていました。十兵衛は義昭から信頼され「幕臣並み」の扱いを受けています。しかしユースケ義景はどうにも煮え切りません。十兵衛は尾張を頼ろうと思います。その為には信長に美濃を攻略させる必要がありました。信長が美濃と戦っている限り、上洛は不可能です。今までは美濃人として信長に美濃を売る真似はできないと考えていた十兵衛でしたが、義昭のこと、そして叔父の光安のことを思い、考えを変えます。「西美濃三人衆を調略すればよい」、そのことは誰の目にも明らかでしたが、方法がありませんでした。しかし半兵衛を通して安藤守就を説得すればいい。氏家卜全は安藤が説得できる。そう帰蝶に知らせます。しかしあの稲葉は十兵衛も苦手です。そこに帰蝶から使いがきます。使いは「木下藤吉郎」と名乗ります。十兵衛に紹介状さえ書いてもらえば、稲葉一鉄は自分が調略すると楽天的に話します。自分が稲葉と敵対的であることを告げ、紹介状なら竹中半兵衛がよかろうと、半兵衛に手紙を書きます。半兵衛の協力を得た藤吉郎は瞬く間に稲葉を調略します。
斎藤龍興はうわさのように暗愚ではなく、かなり抵抗しますが、それでも最後は美濃衆に背かれ、美濃はおちます。龍興は美濃を脱出し、今後信長と光秀の前に立ちはだかる存在となります。信長は岐阜城に入ります。帰蝶からの手紙で、十兵衛は本当に明智公安が生きていることを知ります。足腰が相当弱くなったがそれでも生きていると。十兵衛はお牧と煕子、左馬助を連れ、美濃に急行します。十兵衛たちは十年ぶりに光安と対面をします。人のいい村の長老。それが今の光安の姿です。お牧は、公安とともに村に残ると言います。伝五たちも駆けつけてきました。
岐阜城に上がった光秀は城内で稲葉一鉄とも再会します。「やあやあ、十兵衛なつかしや」、まるで百年の友のように振る舞う稲葉に十兵衛は憮然とします。
信長に対面した十兵衛は義昭を奉じての上洛を要請します。しかし信長は浮かぬ顔です。
「そんなことをして織田に何の得がある」と言うのです。十兵衛は亡き道三を思い出します。
「得はある。将軍上洛を名目にすれば、朝倉は動かない。徳川、浅井も協力するだろう。南近江の六角領地と、伊勢がまたたくまに織田家のものになる。」
しかしと信長は言います。
「道三殿の言ったという大きな国か。しかし国が大きくなれば争いも増えよう。その争いを止めさせるだけの力が幕府にあるか。義昭様がどんな優れた人物でもそれは難しかろう」と。
十兵衛は「大きな国」構想を超える論理を考えるようになります。「天下の統一」、そんな言葉が浮かびますが、当時としてはありえないことであり、馬鹿げた夢想と言えるものでした。