歴史とドラマをめぐる冒険

大河ドラマ・歴史小説・歴史の本などを中心に、色々書きます。
ただの歴史ファンです。

麒麟がくる・「信玄西上・三方ヶ原の戦い」・勝手なあらすじ

2020-06-15 | 麒麟がくる
以下は「デタラメな趣味の文章」です。勝手に題名つけて、勝手に書いています。麒麟がくる、のネタバレはないはずです。ただし史実を全く知らない方にとっては、一部史実がネタバレします。文章そのものは史実と関係ありません。史実をちょっと基にしたフィクションです。軽いノリのふざけた文章でもあります。家康のセリフは大河「国盗り物語」のパクリです。


さて目出度く足利義昭さんが将軍になれたのは、1568年の年末のこと。織田信長は1569年の正月には、殿中掟16条というルールを作ります。が、義昭さんはニコニコです。「信長殿は本当に足利家のことを心配してくれているんだ」と喜んでいます。善良な人なんです。

十兵衛は基本は幕臣として、そして織田家にも属すると言う「両属状態」で働いていました。義昭さんのことは信頼しています。奈良で托鉢増の姿になって、貧しい人々を救おうとしていた人間です。善良でいい人なんです。

しかし幕臣の多くは腐敗していました。十兵衛はそれを改革しようとします。信長は「オレは幕臣ではない。十兵衛がやれ」と言っています。それで段々、義昭さんとも口論になることも多くなっていきます。仲が良くても口答えはする。十兵衛と道三の関係と同じです。

光秀「も~辞めます。もー幕臣はやめますよ。いつまでたっても腐敗が改まらない。」
義昭「辞めるなら辞めろ。辞めてしまえ。実はわしが辞めたいわ!」
光秀「まさか私が土地を横領したとか、信じてないでしょうね」
義昭「信じてないわ!わしだって何とかしたいわけよ。でもどーにもこーにも。そりゃ老獪な奴が多い。三淵は諦め顔だし、細川は十兵衛より怒っている始末だ」
光秀「横領はするわ。公家と組んで土地はかすめとるわ、ひどいことになってますよ」
義昭「わかってるよ。でもここまでひどいと改革は無理じゃ。わかるか、この足利直系の将軍の辛さが。重さが。土岐源氏のはしくれには、分からぬ!」
光秀「えー分かりませんとも。罷免しましょう。罷免」
義昭「罷免はいいけど、だれが幕府を動かす?そういう官僚仕事、十兵衛できるのか。美濃の坊ちゃん育ちだろ。構造改革は難しいわけよ。科挙でもやるのか。」
光秀「しかし信長様ももう我慢ならないって感じですよ」
義昭「わしにどうしろというのだ。大名への仲介手紙なら書いてるよ。しかし内部の腐敗は奥が深い。公家ともつながっている。この前まで僧だったわしには荷が重い。むしろ三淵、細川、十兵衛の責任じゃないのか」
光秀「あ、そういうことを言うんだ。はい、責任転嫁、武家の棟梁失格」
義昭「失格なんてことはなった時から気が付いていたわ。お前たちが支えるからどうしても将軍になれなれとうるさかったんじゃないか。まあ、ホントの話、十兵衛は信長についた方がいいと思うよ。わしについていても先はない」
光秀「・・・・」
光秀「ところで、信玄が上洛するうわさがありますが、知ってますか」
義昭「またわしが包囲網を作ったとかいうんだろ。私じゃないって。冤罪だよ。顕如だよ、本願寺、あと顕如に乗せられたあのユースケ義景」
光秀「安心しました」
義昭「しかし十兵衛、信長は本当に麒麟をよべるのか。わしは怪しいと思っておる。それから、藤吉郎、あの者には気をつけよと信長に伝えよ」

1572年の末、武田信玄が西上の軍をあげます。同盟を結んでいると思っていた信長は怒り狂います。さらに藤吉郎が「全部、将軍義昭の策謀」と報告を入れてきます。幕府を大切にしてきた信長の心が揺らぎます。信玄の目標は美濃であると読んだ信長は、家康に「戦わないくてもいい。美濃で決戦する」と書状を送り、防衛兵として「わずか三千」の兵を送ります。

一方奈良では信玄西上を受け、松永久秀が信長に反旗を翻します。光秀は驚き、久秀のもとに急行します。
久秀「おお、十兵衛、よく来た」
光秀「よく来たじゃないでしょ。何考えてるんですか。」
久秀「わしの主君は三好義継様じゃ、いくら言っても叛意を変えない。立つという。わしは三好家の家臣じゃ。仕方なかろう。将軍家の御内書もあるという」
光秀「その御教書は偽造ではありませんか」
久秀「偽造かも知れぬ。見たわけではない。しかし、そのような偽造がなされるなら、室町殿ももう終わりということであろう。」
光秀「そう思うなら何故」
久秀「三好家家臣だからじゃ。信玄は勝てないぞ。朝倉の腰は引けておる。信玄が長躯遠征しても、美濃で織田に勝てるわけもあるまい。せいぜい徳川を潰すのがやっとであろう」
光秀「だからそう思うなら何故」
久秀「わしは義輝公と幕府を改革しようとしたができなかった。もはや足利や三好の世は終わった。終わったものは滅んでいくしかない。わしも足利も、古いものは滅んだほうが良いのじゃ。しかしどうせ滅びるならわしは信長と一度戦ってみたいのだ」
光秀「滅べば美しいと思ったら、大間違いですぞ」
久秀「わかっておる。よく分かっておる。しかし言っておく。信長はいずれ滅びるぞ。10年のうちに。もう帰れ、十兵衛」
十兵衛は泣く泣く多聞山城を後にします。なお、この戦いの後、三好義継は戦死。松永久秀は信長によって許されます。

さて、信長から「戦わなくていい」と言われた、浜松城の家康。浜松城に籠っていると、武田軍は家康を無視して進軍していきます。やはり狙いは美濃でした。

家康「織田殿は戦わなくてよいという」
菊丸「それはようございました。家中には武田に寝返るべきという方もおられるようです」
忠勝「殿、ここは我慢のしどころですな」
家康「忠勝、よく申した。そう、我慢じゃ。やせ我慢じゃ。ここは打って出る。」

籠城と思っていた織田の援軍は驚きます。家康は三方ヶ原に打って出ますが、鎧袖一触、武田にやられ、城に逃げ込みます。

忠勝「鎧袖一触とはこのことですな。武田は強い」
家康「しかしわしが打って出なければ、わしから離れた国人は、もはや戻ってこないであろう」
忠勝「そのために出陣でしたか、しかしよう負けましたな」
家康「いや、戦では負けたが、わしは生きておる。徳川家康を臆病者とは、もはや世間は見ぬ。忠勝わかるか。いかに知略があろうとも、臆病と言われれば、人は軽蔑し、知略をほどこすこともできぬ。三方ヶ原で今日、わしがこの手に握ったのは、天下という場所で仕事をするには、命より大切な信頼よ。」
菊丸「殿!」

この話を菊丸から聞いた光秀は思います。「徳川家康か、不思議な男だ。裏切ったところで機敏さを誉められこそすれ、誰ひとり後ろ指さす者もあるまいに、、、いや、この戦国に稀有の律儀さ。存外生き延びれば、諸大名の信頼を買うかも知れぬ。」

やがて信玄は西上の途上で死没します。武田軍は甲斐に去っていきました。その前に、信玄が同盟していたユースケ義景は雪を理由に越前に引き上げてしまい、信玄は茫然としたということです。朝倉が引き上げた以上、信玄が死ななくても、武田にはこれ以上の西上は無理だったのです。

織田信長と武田信玄が直接対決していたら。三方ヶ原の戦いのことなど。

2020-06-15 | 織田信長
昨日、織田信長の大家である谷口克広さんの「信長と家康の軍事同盟」という本を読んでいたのです。当然、三方ヶ原の戦いが出てきます。良質な資料というのは皆無らしいですね。

「武田信玄が生きていたら、織田信長などつぶされていた」と言われることがあります。谷口さんの見解だと「そんなことはない」そうです。

三方ヶ原の戦いは新暦だと1573年の1月です。この時信長の敵というと

・浅井朝倉、しかし信長軍は小谷城を囲む勢いで優勢
・本願寺、一向一揆、長島など
・松永久秀など

そこに武田信玄が2万以上の兵力で西上してくるわけです。西上って日本語、あるのでしょうか。とにかく西上です。

で、まず三方ヶ原の戦いで徳川軍+少しの織田軍がぶつかります。ここで徳川織田軍がコテンパンにやられるので、その後、信玄が生きていたら、ずっとコテンパンだったという推測が成立することになります。

「そんなことはない」と谷口さんは書いています。正直、そんなに詳しく分析はしていないのですが「当時織田には5万の動員力」があった。とした上で。

・上洛しようとすれば武田の兵站は伸び切って破綻してしまう。上洛は翌年という史料もあり、ここでは美濃岐阜において信長と対決しようとしたのだろうと推論します。

・しかし、頼りにしていた朝倉軍が冬を口実にというか、まあ冬になったので帰ってしまった。信玄は怒りの書状を朝倉義景に送ります。

さっき私が書いた「5万」という数字が、他の敵への備えを「差し引いた数字」なのかは、谷口さんの著書では分かりません。でも当然「差し引いた数字」なのでしょう。

その後、槙島城の戦いで織田は7万を動員しています。朝倉が引いた以上、浅井には抑えの軍勢だけでいい。本願寺に1万、松永等に1万。そう考えると、4万ほどを武田信玄との決戦に回せることになります。ちなみに三方ヶ原の戦いの戦いにおける織田軍の「あまりに少ない3千」については「監視」のための人数だろうと、谷口さんは書いています。

私が谷口さんの考えをちゃんとまとめているかは分かりません。私の能力の限界があるからです。だから「引用」の形で、そのままを書きます。

「織田軍は当時五万余の動員が可能である。数か月の遠征を経てきた二万余の武田軍では勝負になるまい。信玄もそれを承知していたから、朝倉・浅井軍に近江で牽制させようとした。また美濃の国衆安藤・遠藤にも働きかけた」123頁

とのことです。

なるほどな、信玄は「とても勝てない」という考えも成立するのだな、となんというか「面白いな」と思いました。過去の大河ドラマ等においても「信玄がそのまま西上したら織田はつぶれる」は常識になっていました。私自身は恥ずかしながらあまり深く考えたこともなく、「そうなんだろうな」と思っていました。「信玄はとても勝てない」と思ったことは一度もありませんでした。

織田信長は大きなデフォルメを持って描かれてきました。それは「神君家康」も同じです。また「神君家康がコテンパンにされたのだから武田信玄はものすごい武将だ」というデフォルメは、江戸時代から始まっています。それをよく知っている私でも三方ヶ原の戦いの様子を知れば「その後信長も苦戦しただろう」と考えるわけです。でも専門家である谷口さんの意見は「信玄は勝負にならない形で負け」ということです。生きていたとしても、朝倉が引いた時点で、甲斐へ引き上げを考えた、ということになるのでしょう。

むろん違う専門家は違う意見を出しているのでしょう。「兵力をどう計算するか」「裏切りを考慮するか」が問題となるでしょうね。ただし朝倉が引き上げた以上、鎧袖一触で「織田が敗ける」なんてことにはなりそうもありません。美濃なら信長は何年も戦えますが、遠征軍である武田はそうは行きません。そもそも谷口さんの考えでは、勝負にならない、織田の勝ち、ということです。

ここで「武田信玄がもし生きていたら」で検索をしてみたのです。なんと「別に変らない」「織田が勝つ」「信長が岐阜城に籠城して信玄は引き上げ」がかなり多数派という状況でした。

私がずっと間違っていたようです。「思い込み」というのは怖いもんだなと思います。私にとって日本史は趣味なので、間違っていてもそんなに恥ずかしくはありません。むしろ間違っていたことに気が付いて「おもしろいな」と感じています。趣味でやっていない本物の学者さんとか研究者さんは「きつい作業をしているな」と感じます。