歴史とドラマをめぐる冒険

大河ドラマ・歴史小説・歴史の本などを中心に、色々書きます。
ただの歴史ファンです。

織田信長・北条氏はなぜ「征夷大将軍」にならなかったか。

2020-06-13 | 麒麟がくる
私にとってこういうことを考えるのは「趣味」であり、一種の思考実験であることを書いておきます。ただ「楽しいから」書いているだけです。これが真実だ的な誇大妄想はありません。

子供の頃、「鎌倉北条氏は身分が低かったので将軍になれなかった」とよく言われていました。子供だから「ああそうなんだろうな」と思っていました。実際そうなのかも知れません。

ただ北条得宗家という存在を知ってからは、ちょっと考えが変わりました。得宗家というのは北条義時嫡流です。鎌倉後期となると、執権よりこの得宗の方が権力を持っていたようです。得宗が執権を務めることもむろんあります。得宗というのは律令制の身分ではありません。京都の官位だと北条貞時で従四位上のようです。しかし「実質的には鎌倉殿」であり、鎌倉政権のトップであったようです。将軍は天皇の息子です。

上に征夷大将軍はいるけど、実質的トップは得宗ということになります。少なくとも時宗の時代は。そしてこの得宗という身分は「京都朝廷とはほぼ関係ない」のです。朝廷は得宗を任命できません。朝廷が任命する征夷大将軍が力を持っていたのは、もしかすると源頼朝の時ぐらいかも知れません。実朝は?

北条家は後になっても、名家だと自己粉飾をすることは少なく、その必要もなかったようです。意識的に京都的秩序との関係を「絶っていた」と私は思っています。普通に考えて、そうなるだろうと思うのです。

で、室町時代になります。征夷大将軍の「権力」はさらに後退というか、範囲が狭まります。関東には鎌倉府、九州には九州探題という半独立権力が生まれるからです。私は詳しくありません。

で、戦国時代になります。織田信長は「武家の棟梁」である室町将軍をどう捉えていたのかなと考えてみるのです。「武家の棟梁」ですから武家です。でも公家的要素も強くあります。さらに義輝さんの親父の義晴さんの時代も、京都から逃げてばかりで、調停力や裁判力は微弱でした。微弱ですよ。全くないとは言わない。微弱だから戦国時代となるのです。形式的にどうであったかは関係ありません。実際の力です。

織田信長も豊臣秀吉もそのことを知って育ちました。二人とも頭がいいので、古い権威であっても、権威である以上、それなりに尊重はしていたと思います。でもそこそこ尊重する以上の意識はなかったと思います。

織田信長が1572年の末頃か翌年に「17条の異見書」というものを出しています。義昭個人に対する弾劾状ですね。その1条に「足利義輝は天皇に参内しなかったからあんな最期を迎えたのだ」と書いています。義昭公方も参内しないようであるが、残念であると。

これを見ると「将軍の仕事」を信長がどう捉えていたか、その一端が分かります。一端と書いたのはこれがかなり「戦略的な文章」であり、信長の本音かどうかは不明だからです。

参内、公平な扱い、公平な裁定、欲深くないこと、、、そんなのが「将軍のお仕事」なんですね。こういうものに信長自身がなりたいかというと、金をつけられてもお断りだったのではないか、そう思えてきます。

それでも朝廷としては信長を「取り込む」必要があって、右大臣・右大将にします。が1578年に信長は辞任します。それからずっと無官です。(信忠に譲ろうしたこと、二位は辞退しなかったことは知ってます)

で、本能寺の年の1582年になって「関白・太政大臣・征夷大将軍」のどれでもいいから選べと言われます。信長は即答しません。「それなら信忠を征夷大将軍に」と言った形跡もありません。ほとんど執着がないわけです。

戦国権力であっても朝廷の官位・権威の後ろ盾とか「大義名分」が必要だった。こういう意見を「頭ごなしに否定」する気は毛頭ないのです。同時に「そのまま鵜呑みにする」気もさらさらありません。しかし少なくとも信長にとっては征夷大将軍という権威づけは「必要ない」ものだったのでしょう。利用価値が薄かった。彼が何になろうとしたのか。律令制の外に出ようとしたのか。それはさらに考えてみようと思っています。考えてもたぶん答えは出ませんが、単なる趣味です。考えることが楽しいのです。

北条得宗は朝廷と距離を置くこと、朝廷に任命されない地位にいることによってある程度の成功を得ました。信長も朝廷と距離を置いていました。どういう権力が可能であったのでしょうか。

その後、徳川家康という人が、征夷大将軍という古色蒼然たる権威の利用法を考えます。彼は頼朝を尊敬していたと言われています。それでも朝廷とは距離を置きました。これは物理的な意味でもあります。江戸と京都は距離があります。政治的には「禁中並びに公家諸法度」を作り、京都朝廷を「ある型の中に押し込めて」しまいます。

京都朝廷の日本史の中での隠然たる力を信じている方には、不快な文章と映るでしょう。しかし私はそういう前提は「なしで」私は考えています。「なしで」の方が自由に考えられ楽しいからです。朝廷権力は信長によって復興され、家康によってある型の中にはめられます。そして幕末に再発見され、、、、、まあこの話は面倒なのでやめておきます。

足利義昭追放後の織田信長、足利義尋のことなど

2020-06-13 | 麒麟がくる
織田信長が室町幕府の存続を「それでも望んでいた」か。それなりに難しい問題だと思います。面白い問題だとも思います。武将には「戦略」があります。平気で嘘もつきます。どこまでが戦略で、どこからが嘘・真実なのか。もしかしたら信長本人だってその明瞭な境目がなかったかも知れません。

結果として分かっている信長の行動は「鞆幕府は存続したとしても、京都において存続はさせなかった」ということです。1573年の足利義昭追放の時、その子足利義尋を人質にとっています。人質じゃないかも知れない。将軍候補かも知れない。でも結局は将軍としてたてなかった。立てるつもりがあったかという問題は先述の戦略問題があるので分かりません。立てようと思えば立てることもできたかも知れない。でも立てなかった。その「信長の実際の行動」が全てです。足利義尋さんは興福寺の大僧正として生を終えたようです。

昨日、谷口克広さんの「織田信長の外交」って本を読んでいました。義昭さん追放後すぐに、毛利と織田の間で「義昭の帰京」に関する交渉がありました。足利義尋さんについては本書では触れていません。

「毛利家文書」などによれば、秀吉が担当していた。日乗が毛利側で担当したようです。で、信長も一旦は帰京を承諾した。1573年7月の追放後すぐのことです。

信長は足利幕府を数年は存続しようとしていた可能性があります。しかし義昭自身が帰京を承諾しなかった。「信長のいない京都ならいい」と谷口さんは書いています。

しかしなお交渉は続くのですね。同じ1573年のことです。秀吉、安国寺恵瓊、日乗らによって。

かなり詳細な文章が「吉川家文書」に残されているようです。

ここでも信長・秀吉は帰京を承諾しているのです。しかし「義昭が信長に人質を要求」します。あきれた秀吉は「将軍は行方知れずになったようだ。と信長様に報告しておく。さっさとどこへなりとも行かれるとよろしかろう」と宣言して、大坂に帰ってしまいます。

信長はこのことを伊達輝宗に「紀州の熊野あたりに流れ落ちているのだろう」と書状を送ります。、、と谷口さんは書いています。

義昭が条件をつけずに帰京していたら、足利幕府は京都で数年存続した可能性があったわけです。しかし信長には人質を出してまで存続させる気も必要もなかった、ということになります。谷口さんの文章では「冷たくつきはなした意識」。義昭さんの息子の足利義尋さんは出家して、僧となったようです。

「どうしても信長は足利幕府を存続させたかったことにしたい」ならそう解釈することは可能でしょう。「したかったかどうか」の問題です。解釈するのは自由です。人の心はわかりませんが、解釈するのは面白いし、推論も楽しい。

信長は室町幕府を京都においては存続させなかったのです。だから「存続させない」という意識、気持ちは必ず存在します。実際にそう行動しているからです。一方「存続させたかったけど、できなかった、しなかった」という場合は「推論」になります。根拠としては脆弱です。脆弱な根拠を持って、実際の事実を否定するかの如き論法を組み立てる、それは室町権威に対するイデオロギーが先行した論法で、科学的とは言い難いでしょう。

信長が室町幕府システムをどう考えていたか。色んな人が色んなことを言ってます。私は日本史のド素人で、「学会の多数が」とか「学会の大勢が」とかには幻惑されません。信長論のように意見が対立する問題に関しては「多数決の論理」はさほどの意味はない。基本的には多数派は合っています。しかし戦国期に関してはそうはならない。もちろん私は「教科書はやはり間違っていた派」でもありません。ほぼ間違ってないと思ってます。でも、とにかく自分の頭で考えたいと思っている人間です。あくまで楽しい趣味として。

私はこのブログで何回か書いてますが、織田信長のことを「朝から晩まで改革を考えていた伝統無視の革命児」なんていう気は全くないのです。そんな人間いるわけない。みんな「現実とのおりあい」の中で思考して生きています。

ただ実際の行動としては義昭さんを帰京させることもなかったし、その子を将軍として擁立することもなかった。「しなかった」のです。それが全てだと私はそう考えます。