歴史とドラマをめぐる冒険

大河ドラマ・歴史小説・歴史の本などを中心に、色々書きます。
ただの歴史ファンです。

司馬遼太郎さんは織田信長を描きたくなかった。

2020-06-18 | 麒麟がくる
割と有名な話ですが、司馬遼太郎さんは「国盗り物語」を斎藤道三編だけで終える予定でした。でも編集者から信長も描いてくれと言われた。で、仕方なく描くわけです。その後も、織田信長をまともに描いた作品はありません。「新史太閤記」他、信長が出てくる作品はあります。しかし信長を主人公とした作品はありません。小説「功名が辻」には信長は登場しません。「国盗り物語」後編にしてからが、光秀とのW主人公です。

大河ドラマで信長ブームが起きたのは1965年「太閤記」の時です。私はむろん見てません。ビデオも本能寺の回しか残っていません。高橋幸治さん演じるクール極まりない織田信長に人気が集まり、助命嘆願が起きます。その結果「本能寺の変」は全52話の42話になるのです。10話だけが「太閤の時代」です。

作家は吉川英治さんなんですね。だから司馬さんが昭和の信長ブームの火付け役ではありません。

大河「国盗り物語」は遅れて1973年です。

もちろんこの作品で大河の信長の原型はできます。その後1983年の「徳川家康」ぐらいまではさほどの信長のデフォルメはありませんでした。大河「信長」は1992年の作品ですが、意外なほど「中世的な」信長なんですね。祈祷師とか雇ってます。

それが2002年の「利家とまつ」になると、なんか「典型化した信長」という感じで「デアルカ」ばかり口にします。2006年の功名が辻、司馬さんの原作なんですが、司馬作品には決してなかったセリフ「もはや朝廷もいらぬ。余は神じゃ」なんてこと言い出すわけです。私個人としては「まずいな、このデフォルメは」と思いました。「信長の自己神格化」は大河「信長」でも大河「秀吉」でも描かれています。

そっから後は司馬さんとは関係なくというか、「信長の野望」的になって、「魔王」になっていきます。2009年の「天地人」、2016年の「真田丸」などです。

魔王の最終形態は「おんな城主直虎」で、ほぼゲームの世界から飛び出してきたような信長でした。

司馬さんは天皇制を抽象的権威、透明な権威として認めていましたし、信長に南蛮胴を着せたりもしませんでした。「天才」または「天才と紙一重の人」とは描きました。室町将軍に関しては「よく分かっていなかった」と描きます。「義昭をかついで失敗した。こいつはうるさい。朝廷をかつげば良かった」なんて考えるのです。仏は「人が作ったもの」とは言います。合理主義者としては描きました。

「司馬が描いた信長を信じて」なんて人がいますが、司馬さんが描いた信長をちゃんと読んでいるのでしょうか。ちゃんと読めば「小説の中の人」だと気が付くはずです。

司馬さんは信長の晩年を描きたくなかったでしょう。虐殺の歴史です。秀吉の晩年も描いていません。「新史太閤記」は「家康の上洛」で終わりです。

描きたくもないのに書いて、それが「信長の原型」とされ、「原型が維持された」ならいいけど、とんでもないデフォルメをされ、そのデフォルメまで含めて「司馬のせいで」とかトンチンカンなことを言われる。国民作家はつらいものです。

大河「麒麟がくる」・「信長を暗殺せよ」・染谷織田信長が「左京大夫」にならなかったことの意味

2020-06-18 | 麒麟がくる
麒麟がくるはフィクションです。織田信長の第一回の上洛時に、足利義輝が信長に「左京大夫」や「幕府相伴衆」に勧めたなんて史料はありませんが、フィクションですからそこはどうでもいいのです。

ドラマの展開として「じゃあ信長は何をしに行ったのか」という問題は発生します。今川との仲介を頼みにいったわけですよね。それは承諾しているわけです。仲介の手紙は書いてくれるのでしょう。それに加えて今川義元よりも「高い官位」や「高い幕府内での地位」をくれるというのです。

「断る理由がない」わけです。しかし信長は冷めた目で見て、何も言いません。十兵衛には「効果がないだろ」と確かめます。松永久秀には「がっかりした」と言ったようです。

仲介の手紙も書いてくれて(たぶん)、地位もくれるという。目的達成です。なんで「がっかりする」のか。それ以上何を望むのか。どんなことを期待していたのか。まさか将軍出陣ではありますまい。官位を断った理由は推測はできます。効果がないのに金がかかる、からです。でもそれは描かれず「わしにはそれぐらいしかできない」と義輝は言います。将軍の権威低下を強く印象づける演出でした。「信長は将軍の器量を確かめに行った」とすれば「辻褄はあい」ますが、流れとしてそういう演出にはなっていませんでした。結果的には「将軍と幕府の力を確かめに行った感じ」にはなっています。それに実際、信長は官位に無関心な部分があります。義昭をかついで上洛後もずっと「弾正忠」のままでした。何年間も。

一部の方からは「不満の声」もありました。ツイッター上です。「これじゃあ古い権威を低く見る従来の信長像と同じ」ということでしょうか。麒麟がくるの「染谷信長」は従来説と新説の「混交物」で、だからどっちの「派」からも支持されます。従来説が全部間違っており、新説はみな合っている、なんてことはありません。だから「ちょうどいい」のでしょう。

信長だけでなく「あの真面目な、古い権威にも価値を置くはず」の十兵衛も「効果がない」と信長に示唆してます。ほほーと思いました。考えてみると十兵衛は「守護代道三にも守護土岐頼芸にも、そして弱気になった将軍義輝にも」、文句ばっかり言ってるわけです。「古い権威に価値を置く」と見せながら、実は本音ばかりを言っています。巧妙な設定だなと思います。

史実としての信長は、義昭追放後の2年後、1575年ぐらいまでは義昭と対抗する官位を求めるわけです。権大納言、右近衛大将になります。義昭に匹敵する官位です。その後あまり官位に関心を示しません。1578年には右大臣になりますが、すぐに辞任します。二位の位は残ります。が、それ以降、官職はない状態で死を迎えます。「さきの右大臣」のままです。

織田信長が幕府の中での地位に関心を持たなかったことは有名です。朝廷の官位となるとやや複雑で、義昭追放後は対抗上なのか興味を持ちます。しかし長篠の戦いで武田を破って、相当な実力をつけてからはまた無関心になっていきます。最後は朝廷の方から「こういう地位についてくれ」と要求されるような存在になっていきます。

信長は改革者、を認めない人はいます。さらに「革命児」となるともっと認めません。皇室をないがしろ、というイメージがあるせいなのでしょうか。私は革命は起こさなかったが、改革は行ったと思っていて、まあ「普通の意見」を支持しています。

信長は確かに朝廷を復興しましたが、朝廷のシステムの中に入っていくことはしません。巧妙に回避しています。私は朝廷に対しては「尊重しつつも距離を置く」という姿勢を、最終的には持っていたと思います。また本能寺、1582年の段階では朝廷の権威を利用する必要も薄くなっていたと感じています。敵には朝敵とか言ってますが、どれほどの意味を込めていのか。この「感じ」が正解なのかどうか、それは私が自分の頭で考えていく問題だと思っています。もちろん玄人さんである学者さんの意見を参考にしながら、です。