歴史とドラマをめぐる冒険

大河ドラマ・歴史小説・歴史の本などを中心に、色々書きます。
ただの歴史ファンです。

大河ドラマにおける徳川家康像・不思議な人気

2020-06-14 | 麒麟がくる
ツイッターをやってみて、徳川家康が大人気だということが分かりました。特に今川時代とか。

どうやら「おんな城主直虎」の影響もあるようです。さらに家康の持つ安定感とか、常識人っぽいところも人気の秘密のように思います。秀吉や信長に比べると、狂気度が相対的に薄いのかも知れません。山岡さんが描いた勤皇家の家康も影響しているのかな?

「おんな城主直虎」は、非常に評判のいい作品です。しかし私はところどころしか見ていません。最後の方は見た。信長が「ザ魔王」でびっくり。あそこまでデフォルメするとは。光秀にまたびっくり。結局、信長、光秀、家康の描き方しか見ていないから、作品に入り込めないのです。主役は直虎と二人の男です。

大河「徳川家康」が放映されたのは1983年で、むろん生きてはいたのですが、なぜか見ませんでした。その後DVDになって2000年ぐらいに見たのでしょうか。衝撃でしたね。「そんな馬鹿な」という所満載です。でもある意味「新鮮な家康」だったのです。山岡荘八さんの原作は読んでないので、ここまで「聖人君子にしてしまうか」と衝撃でした。あそこまでやると立派だと思います。「嘘に嘘を重ねて」と言われますが、嘘もあそこまでやれば立派です。そもそも「偉人伝」は嫌いじゃないのです。「偉人伝」としてはよくやった作品だと思います。

大坂の陣などでも「秀頼を助けよう」とするのです。でも秀忠が勝手に殺してしまう。それで怒って帰ってしまう。「おいおい、秀頼の遺児の国松を救わなくていいのか」とかつい思ってしまいますが、それでもあそこまでやれば見上げたもんです。嘘ばっかとは思いますけどね。でも嘘ばっかなのは他の大河も同じことですし。楽しい嘘なら構わないのです。

史実に近い感じがするのは「葵徳川三代」の家康です。家康研究家さんにとっては「小山評定なんてない」と嘘ばかりなのかも知れないが、私には「ちょうどいい感じの家康」に見えました。ただしあれは秀吉死後から始まるのですよね。前半生がない。

司馬さんは家康につき「覇王の家」「関ケ原」「城塞」という3つの作品を描いていますが、どれも大河になったことはありません。「関ケ原」はTBSでドラマになりました。近年の映画は、あまり触れたくありません。ドラマ、森繫久彌さんの家康は実に良い。最後に石田三成のために泣くのです。そこも実にいい。司馬さんは家康に対して厳しい。山岡さんへの意識だと思います。それでも「覇王の家」では珍しくほめています。全然無私の人じゃないこの男が、無私の人としての自分を徹底して仮装できた。そこが凄いと言うのです。あいまいな記憶ですが。

徳川家康という人がかわいそうなのは、下剋上がほぼ終わった時代に勢力を伸ばすので、豊臣家に対する「倫理が問われて」しまうところです。信長が義昭を追放しても、秀吉が織田信孝を殺しても、さほど倫理は問われません。乱世だからです。でも家康は乱世を終わらせてしまった。乱世が終わる時代に覇権を握った。だから倫理を問われてしまうのです。しかも江戸時代は倫理的な時代となって、その倫理観は今でも、なんとなく生きています。

家康を偉人として描いた大河「徳川家康」がある。なるべく等身大に描こうとした大河「葵徳川三代」がある。そしてコント仕立てで登場し、段々凄みを見せていった大河「真田丸」がある。狸親父として描いた作品もある。しかしその「狸度」は作品によってさまざまである。そんな風に感じます。

織田信長・北条氏はなぜ「征夷大将軍」にならなかったか。

2020-06-13 | 麒麟がくる
私にとってこういうことを考えるのは「趣味」であり、一種の思考実験であることを書いておきます。ただ「楽しいから」書いているだけです。これが真実だ的な誇大妄想はありません。

子供の頃、「鎌倉北条氏は身分が低かったので将軍になれなかった」とよく言われていました。子供だから「ああそうなんだろうな」と思っていました。実際そうなのかも知れません。

ただ北条得宗家という存在を知ってからは、ちょっと考えが変わりました。得宗家というのは北条義時嫡流です。鎌倉後期となると、執権よりこの得宗の方が権力を持っていたようです。得宗が執権を務めることもむろんあります。得宗というのは律令制の身分ではありません。京都の官位だと北条貞時で従四位上のようです。しかし「実質的には鎌倉殿」であり、鎌倉政権のトップであったようです。将軍は天皇の息子です。

上に征夷大将軍はいるけど、実質的トップは得宗ということになります。少なくとも時宗の時代は。そしてこの得宗という身分は「京都朝廷とはほぼ関係ない」のです。朝廷は得宗を任命できません。朝廷が任命する征夷大将軍が力を持っていたのは、もしかすると源頼朝の時ぐらいかも知れません。実朝は?

北条家は後になっても、名家だと自己粉飾をすることは少なく、その必要もなかったようです。意識的に京都的秩序との関係を「絶っていた」と私は思っています。普通に考えて、そうなるだろうと思うのです。

で、室町時代になります。征夷大将軍の「権力」はさらに後退というか、範囲が狭まります。関東には鎌倉府、九州には九州探題という半独立権力が生まれるからです。私は詳しくありません。

で、戦国時代になります。織田信長は「武家の棟梁」である室町将軍をどう捉えていたのかなと考えてみるのです。「武家の棟梁」ですから武家です。でも公家的要素も強くあります。さらに義輝さんの親父の義晴さんの時代も、京都から逃げてばかりで、調停力や裁判力は微弱でした。微弱ですよ。全くないとは言わない。微弱だから戦国時代となるのです。形式的にどうであったかは関係ありません。実際の力です。

織田信長も豊臣秀吉もそのことを知って育ちました。二人とも頭がいいので、古い権威であっても、権威である以上、それなりに尊重はしていたと思います。でもそこそこ尊重する以上の意識はなかったと思います。

織田信長が1572年の末頃か翌年に「17条の異見書」というものを出しています。義昭個人に対する弾劾状ですね。その1条に「足利義輝は天皇に参内しなかったからあんな最期を迎えたのだ」と書いています。義昭公方も参内しないようであるが、残念であると。

これを見ると「将軍の仕事」を信長がどう捉えていたか、その一端が分かります。一端と書いたのはこれがかなり「戦略的な文章」であり、信長の本音かどうかは不明だからです。

参内、公平な扱い、公平な裁定、欲深くないこと、、、そんなのが「将軍のお仕事」なんですね。こういうものに信長自身がなりたいかというと、金をつけられてもお断りだったのではないか、そう思えてきます。

それでも朝廷としては信長を「取り込む」必要があって、右大臣・右大将にします。が1578年に信長は辞任します。それからずっと無官です。(信忠に譲ろうしたこと、二位は辞退しなかったことは知ってます)

で、本能寺の年の1582年になって「関白・太政大臣・征夷大将軍」のどれでもいいから選べと言われます。信長は即答しません。「それなら信忠を征夷大将軍に」と言った形跡もありません。ほとんど執着がないわけです。

戦国権力であっても朝廷の官位・権威の後ろ盾とか「大義名分」が必要だった。こういう意見を「頭ごなしに否定」する気は毛頭ないのです。同時に「そのまま鵜呑みにする」気もさらさらありません。しかし少なくとも信長にとっては征夷大将軍という権威づけは「必要ない」ものだったのでしょう。利用価値が薄かった。彼が何になろうとしたのか。律令制の外に出ようとしたのか。それはさらに考えてみようと思っています。考えてもたぶん答えは出ませんが、単なる趣味です。考えることが楽しいのです。

北条得宗は朝廷と距離を置くこと、朝廷に任命されない地位にいることによってある程度の成功を得ました。信長も朝廷と距離を置いていました。どういう権力が可能であったのでしょうか。

その後、徳川家康という人が、征夷大将軍という古色蒼然たる権威の利用法を考えます。彼は頼朝を尊敬していたと言われています。それでも朝廷とは距離を置きました。これは物理的な意味でもあります。江戸と京都は距離があります。政治的には「禁中並びに公家諸法度」を作り、京都朝廷を「ある型の中に押し込めて」しまいます。

京都朝廷の日本史の中での隠然たる力を信じている方には、不快な文章と映るでしょう。しかし私はそういう前提は「なしで」私は考えています。「なしで」の方が自由に考えられ楽しいからです。朝廷権力は信長によって復興され、家康によってある型の中にはめられます。そして幕末に再発見され、、、、、まあこの話は面倒なのでやめておきます。

足利義昭追放後の織田信長、足利義尋のことなど

2020-06-13 | 麒麟がくる
織田信長が室町幕府の存続を「それでも望んでいた」か。それなりに難しい問題だと思います。面白い問題だとも思います。武将には「戦略」があります。平気で嘘もつきます。どこまでが戦略で、どこからが嘘・真実なのか。もしかしたら信長本人だってその明瞭な境目がなかったかも知れません。

結果として分かっている信長の行動は「鞆幕府は存続したとしても、京都において存続はさせなかった」ということです。1573年の足利義昭追放の時、その子足利義尋を人質にとっています。人質じゃないかも知れない。将軍候補かも知れない。でも結局は将軍としてたてなかった。立てるつもりがあったかという問題は先述の戦略問題があるので分かりません。立てようと思えば立てることもできたかも知れない。でも立てなかった。その「信長の実際の行動」が全てです。足利義尋さんは興福寺の大僧正として生を終えたようです。

昨日、谷口克広さんの「織田信長の外交」って本を読んでいました。義昭さん追放後すぐに、毛利と織田の間で「義昭の帰京」に関する交渉がありました。足利義尋さんについては本書では触れていません。

「毛利家文書」などによれば、秀吉が担当していた。日乗が毛利側で担当したようです。で、信長も一旦は帰京を承諾した。1573年7月の追放後すぐのことです。

信長は足利幕府を数年は存続しようとしていた可能性があります。しかし義昭自身が帰京を承諾しなかった。「信長のいない京都ならいい」と谷口さんは書いています。

しかしなお交渉は続くのですね。同じ1573年のことです。秀吉、安国寺恵瓊、日乗らによって。

かなり詳細な文章が「吉川家文書」に残されているようです。

ここでも信長・秀吉は帰京を承諾しているのです。しかし「義昭が信長に人質を要求」します。あきれた秀吉は「将軍は行方知れずになったようだ。と信長様に報告しておく。さっさとどこへなりとも行かれるとよろしかろう」と宣言して、大坂に帰ってしまいます。

信長はこのことを伊達輝宗に「紀州の熊野あたりに流れ落ちているのだろう」と書状を送ります。、、と谷口さんは書いています。

義昭が条件をつけずに帰京していたら、足利幕府は京都で数年存続した可能性があったわけです。しかし信長には人質を出してまで存続させる気も必要もなかった、ということになります。谷口さんの文章では「冷たくつきはなした意識」。義昭さんの息子の足利義尋さんは出家して、僧となったようです。

「どうしても信長は足利幕府を存続させたかったことにしたい」ならそう解釈することは可能でしょう。「したかったかどうか」の問題です。解釈するのは自由です。人の心はわかりませんが、解釈するのは面白いし、推論も楽しい。

信長は室町幕府を京都においては存続させなかったのです。だから「存続させない」という意識、気持ちは必ず存在します。実際にそう行動しているからです。一方「存続させたかったけど、できなかった、しなかった」という場合は「推論」になります。根拠としては脆弱です。脆弱な根拠を持って、実際の事実を否定するかの如き論法を組み立てる、それは室町権威に対するイデオロギーが先行した論法で、科学的とは言い難いでしょう。

信長が室町幕府システムをどう考えていたか。色んな人が色んなことを言ってます。私は日本史のド素人で、「学会の多数が」とか「学会の大勢が」とかには幻惑されません。信長論のように意見が対立する問題に関しては「多数決の論理」はさほどの意味はない。基本的には多数派は合っています。しかし戦国期に関してはそうはならない。もちろん私は「教科書はやはり間違っていた派」でもありません。ほぼ間違ってないと思ってます。でも、とにかく自分の頭で考えたいと思っている人間です。あくまで楽しい趣味として。

私はこのブログで何回か書いてますが、織田信長のことを「朝から晩まで改革を考えていた伝統無視の革命児」なんていう気は全くないのです。そんな人間いるわけない。みんな「現実とのおりあい」の中で思考して生きています。

ただ実際の行動としては義昭さんを帰京させることもなかったし、その子を将軍として擁立することもなかった。「しなかった」のです。それが全てだと私はそう考えます。

織田信長は中世の破壊者なのか

2020-06-11 | 麒麟がくる
田信長は中世の破壊者なのか。こう書くと「破壊者ではない」という結論を予想すると思いますが、「破壊者です」ということを書きます。

近年の研究について何も知らないのかと言われそうですが、そりゃ全部知ってはいません。でも15冊ぐらいは本を読みました。日本史学者、比較的まともな研究者の本です。

「織田信長は中世を少しも破壊していない」と言い切る学者等は一人もいないと思います。程度の問題なんです。

つまり「近世権力というには信長の政治体制は不徹底であった」。近世は秀吉をもって始まるということだと思います。あととにかく言いたがるのは「意識的じゃなかった」ということですね。天下統一戦争も「いつのまにかそうなちゃった」、天下統一なんて「意識はなかった」と言いたがります。変な論理です。

信長が保守的というのも、「保守的側面も強かった」「意外に強かった」と言われます。「意外に」ということは、革新的部分も多いということです。資質としては保守的というか、伝統、朝廷、宗教、室町幕府、宗教なんかを尊重していたよ、ということです。(私はそのまま信じたりしませんが)

言いたいことはたぶんこうです。
・政治的システム的には室町幕府のシステムを超えるものではなかった。
・室町幕府の存続を意外と熱心に望んでいた
・特に土地制度については先進的とは言い難い
・反抗しない限り、宗教も保護した。
・朝廷を尊重した。または利用した。天皇を超えようなんて考えはなかった。
・楽市楽座も不徹底であり、座を保護することも多かった。
・無神論者などではなかった。(そもそも誰が無神論者だなんて言っているのか)

一方で
・臨機応変な思考、合理的判断
・居城の敵地接近移転
・新兵器の活用
・軍事組織のスケールの大きさ
・強い配下武将支配・重臣の合議制ではない意志決定
・関所の廃止、ある程度成功
・伝統権威でも逆らえばつぶす方向で「意外と慎重に」行動する、比叡山
・室町幕府の存続を本心で望んでいたかは不明だが、結局は交渉決裂。義昭の子を将軍としてたてることはなかった。
・官位をもらうこともあるが、すぐ辞任してしまう。執着はない。官位を辞して後、死ぬまで官職はなかった。
・ある程度の検地
・兵農分離もそこそこ成功・専業武士団の創設
・反抗する宗教勢力・自治都市などには容赦なかった。ただし自治都市はさほど反抗しなかった。
・座の保護も含めた、商業政策の重視

結果としての日本半分程度の広大な領地の支配

こういうことを認めない学者はそう多くはないと思います。異見がでるとすれば「配下武将の統制」ぐらいでしょうか。あっ、兵農分離もなかったという人もいますね。なんでもかんでも「なかったこと」にしてしまう。

上記は、他の戦国大名もやったことですが、スケールの大きさが違います。

織田信長は結果として中世をある程度破壊していきます。そしてその幾つかは意図的なもので、たまたまそうなったわけではありません。その完成形が秀吉・家康ということになります。「織田信長は中世を全く破壊していない」と言い切る研究者はおそらくほとんどいないと思います。戦国大名はみな程度の差こそあれ中世システムを破壊しています。信長はそれを大きなスケールでやった。だから明らかに破壊しているのです。「いわれてきたほどじゃない」という論法を持って、結局は全否定をなすような詐欺的論述はなすべきではないと考えます。

麒麟がくる・第二十三回ぐらいか・「将軍義輝の戦い」・勝手なあらすじ

2020-06-09 | 麒麟がくる
勝手なあらすじです。つまり趣味で書いた文章に過ぎません。しかし情報は得ているので、一部は当たると思います。ネタバレに注意してください。ただし「もちろん、こうはなりません」。史実とも違っています。「将軍義輝の戦い」も私が勝手につけた題名です。あとちょっとふざけた内容ですよ。



さて時は桶狭間の1560年から飛んで1564年、つまり足利義輝の死の一年前、十兵衛は藤孝からの知らせで、三好長慶が死んだことを知ります。三好家が松永派と三好三人衆派で割れているとも書いてありました。十兵衛は相変わらず寺小屋経営です。ただし十兵衛の名誉を思って金を送ってこない帰蝶に代わり、信長が多少のお金、現代価値で15万円くらいを月々送ってきていました。桶狭間の「水の代金」だそうです。一族8人ぐらいでなんとか食べていけるほどの暮らしです。

次の年、1565年。十兵衛はユースケ義景に呼び出されます。京都へ行けと言います。細川藤孝が呼んでいると。

京都に行くと藤孝は暗い顔ながら喜びました。今から将軍御所で「将軍家再生会議」をやるから出席して欲しいと言います。なんで自分が?と思いますが、義輝のたっての希望だそうです。
「将軍家再生会議?はあ?」と光秀は思います。

部屋に入っていくと義輝がいます。三淵、細川がいます。そしてなんと松永久秀がいます。さらに伊呂波大夫が隅にいて、芸人姿の男が義輝の横でむしゃむしゃ魚を食べています。「なんだこいつ」と十兵衛は思います。

芸人男「だからな、義輝殿、お主は線が細いのだよ。剣豪なんだろ。将軍なんだろ。どーんとぶちかますぐらいの気合でいかないと」
義輝「関白様のようには生きられませんよ。いつもながらよく食べますね」
芸人男「ああ、ただ飯ぐらいうまいものはない」

十兵衛は「関白?はあ?」と思います。伊呂波大夫が言います。「明智様、関白近衛前久です。あたしの兄というか弟というか、将軍様にとっては義理の弟。ヒマなんで今日は芸をやると言って昼の公演に参加してたのです」
十兵衛はははーと土下座します。

近衛「そうそう関白左大臣、あれ、太政大臣かな。要するに貧乏人ということだ。そなたが十兵衛か、大夫に聞いていたぞ。いい加減顔をあげろ。話もできん」

こうしてなんとなく「将軍家再生会議」が始まります。
松永「長慶様が死んで義継様が家督に。それでわしが三好家を握っているのなら、義輝様を支えられるわけなんだが、三好三人衆という邪魔な勢力がいるのだ。いつもトリオで出てくる。一人一人の名前がわからないぐらいだ、一人は三好姓でもないし」
義輝「久秀も引退が早かったよな。家督は久通だっけ。どうもあいつは流されやすい性格だから心配だな」
近衛「だから将軍がどーんとかまえて、ばーんとやればいいんだよ」
大夫「なんです。どーんとかばーんとか、もっと具体的に言わないと」
近衛「オレとしてはあれだな。上杉輝虎(謙信)、輝虎ぐらいだろ、将軍家を心から信奉しているのは、なんなら越後に行くよ、行ってオレが説得してやる」
大夫「関白が越後に旅するって、またですか、5年ぐらい前にずっと行ってましたよね」
近衛「伊呂波ちゃんはバカにするけどね。結構オレ、活躍する可能性もあるよ。」
大夫「まあ誰かと組んで活躍するのかもね。でも誰かさんが死んで、藤吉郎が出てきてからはさっぱりでしょ」
近衛「誰だよ、藤吉郎って。まだ歴史に登場しないだろ。さっぱりとか言うな。とにかく上杉輝虎、決まりだね」
三淵「しかし、上杉はどうも関東管領扱いが気に入っているようで、結局は武田とか北条と争ってばかり。とても上洛などできないでしょう」
近衛「それを言われると弱いな」
細川「本当は六角、佐々木氏が強いといいのですが。浅井に負けてる感じだし。そもそも浅井ってなんなんだ。十兵衛殿、朝倉は」
十兵衛「そりゃ、蹴鞠は文化ビジネスだって分かってはいるんですよ。でも本気でアリっと楽しんじゃっているから。何かを狙っているような気もするんですが、どうにもつかめません」
義輝「ダメか、毛利はどうだ」
細川「毛利は、領土が大きくなり過ぎたとかで、これ以上東に行ってはいけないオキテがあるそうなんですよ、それにまだ尼子と争っているし」
近衛「なんだその変なオキテ。嘘くさいな、本当か。調べた方がいいぞ」
義輝「毛利輝元か。輝の字をやったのに薄情だな」
細川「そんなもんですよ。毛利って大江広元系とか言ってますが、小さな国人でしょ。急にあれだけ大きくなるとビビりますよ。」
近衛「毛利元就死んだ前提で話しているけど、生きてるよ。あと6年も生きるんだ。2年後、子供まで作る。どんだけ元気なんだ。それはそうと、三好三人衆といえば、足利義栄を将軍にしろと騒いでいるよ。オレ、いざとなったら断れないからね。断る力ないから」
松永「それは知ってます。三好三人衆は、なんなら義輝公を殺してしまえとも思っているようで、しかも主君の義継も流されやすいタイプで。くれぐれもご注意ください」
義輝「いっそ無能な将軍など死んだほうが良いのかも知れんな」
近衛「出た、マイナス思考。だからダメなんだよ。ぐいっと行かないと」
十兵衛「義輝様こそ武家の棟梁、世を平らかに治める方」
義輝「十兵衛、好きだよなそのセリフ、使いたいだけなんじゃないか」
十兵衛「さすが公方様、鋭い。まあそれはそれとして、京にそこそこ近くて、今最も勢いのある大名と言えば、織田信長様では」
近衛「織田信長な。桶狭間は凄かったよな。でも美濃攻めでは意外と苦戦してるだろ。もう5年もやって落とせない。桶狭間は、ありゃ偶然だろ」
十兵衛「一国取るのに5年は長くないですよ。とにかく信長様しかいないと思いますよ。なんというか、褒められ好きなんですよ。褒めて伸ばすタイプ。義輝様とか、近衛公がおだてれば、きっと張り切りますよ、サイコっぽいけど、基本善人です」
一同「織田ねー」
義輝「一度会ったけど、丸顔で善人っぽかった。でも目つきがなー、なんか怖いんだよ、急に目の光を消すだろ」
という感じで会議は終わりました。光秀は御所に三日ほど滞在することになります。

近衛は自宅へ、細川、三淵は領地へ、松永は奈良へ、それぞれ帰っていきました。

三日目の朝、外の様子が変です。光秀が見ると将軍御所が兵に取り巻かれています。兵は三好義継、三好三人衆、松永久秀の息子、久通のものたちです。
義輝「これは御所巻というものだ。しかしわしは屈する気はない。十兵衛、今日よりそちを幕府奉公衆とする。わしの命を受けよ」
光秀「なんなりと」
義輝「奈良へ行け、奈良へ行って一乗院門跡の覚慶を助けよ。弟じゃ」
光秀「わたしはここで上様とともに討ち死にを」
義輝「ならぬ。覚慶を次の将軍にせよ。わしは実は悪人だったが、覚慶は善人じゃ。善人の十兵衛と覚慶で次の幕府を作るのだ、それと善人かも知れない信長で」
光秀「いまなら落ち延びることも可能では。降伏すれば命までは取りますまい」
義輝「いや殺す気だな。それにもう逃げるのは飽きた。わしの一世一代の晴れ舞台だ。堀の上からでも見物し、後世に伝えよ。やっと剣が振れるぞー、アハハハ」
こうして光秀は御所を脱出します。御所の塀に上って見ていると、将軍義輝が戦っています。
庭の砂に何本もの名刀を突き立て、とっかえひっかえ相手を斬っていきます。
が最後は力尽き、討たれます。

奈良に急行した十兵衛は松永久秀を問い詰めます。なんでお前がついていながら、こうなったのだ。
久秀は黙って銃を十兵衛に渡します。これで自分を殺せと言います。十兵衛は言葉も出ませんでした。

麒麟がくる・第二十一回・「決戦!桶狭間」・感想

2020-06-07 | 麒麟がくる
「信長公記」によれば信長が人間五十年を舞ったのは「桶狭間の時」なのですね。で、私は染谷信長に「舞わせるか」に注目してたのです。舞って欲しいが、普通には舞わないだろうなと予想していました。

結果としては「まず口ずさむ」、しかも「有為の雲に隠れ」という「人間五十年のちょっと前」から口ずさむ。一たび生をうけ、で本格的に舞おうとするが、そこで止める。つまり滅せぬもののあるべきか、の部分はやらない。その代わり会話で「死のうは一定」を入れてきました。

でも満足です。さすがにやってもらわないと。父親の位牌に抹香投げつけなかったのだから、ここは少しはサービスしてほしい所です。

しかも「桶狭間」、ちゃんと「桶狭間山」と「山」としたのに、義元の位置はちょっと谷になった部分でした。だから「坂を下って攻撃」です。「逆落とし」というほど急な坂ではないし、騎馬で逆落としではないけど、坂を下ってくれました。「わ、逆落としだ」と喜んでいました。

片岡さんはよく戦いました。2分ぐらいの殺陣だったけど、2分も戦った義元はいなかったと思う。中村勘九郎さんの死に方は壮絶でしたが、殺陣はほぼやっていません。ちゃんと鎧兜はつけてましたが。できれば死に方もやって、勘九郎さんと競って欲しかった。

あとは今井翼君の最後のひと槍。思いっきりハイジャンプ。あれは初めて見ました。ハイジャンプはどのドラマでもなかったでしょう。首をとったあと、自分で驚き、興奮しているさまもよかった。


あとは思ったことのみ
・松平元康が急に「徳川家康」になった。怒ると怖いタイプだな。

・佐久間信盛、、、なんでクールでニヒルなんだろう。むしろワルに近い顔。伏線なのかな。でも黒幕論は採用しないと思うけど。知っているぞ、君の運命は。君の息子の運命も。

・数にやけにこだわっていた。そう、数しかないのだよね。正面攻撃説だとすると数を「拮抗」させるしかない。3000対6000程度。数式まで出してこだわっていた。「数が拮抗していた」としないと、いくら雨が降って運があっても勝てるわけない。

・時間だけなら大河「信長」の方が時間をかけている。桶狭間に90分かけている。スケールもはるかに大きい。金かけている。しかし、「人間ドラマ」がない。しかもスモークたきすぎで戦闘シーンがよく見えない。信長の事績を追いかける歴史の勉強なら圧倒的に大河「信長」の方が勉強にはなるが、人間ドラマがなく、何やってかよくわからない。煙しか見えない。実に惜しいドラマだ。でも信長の事績を追うには本当に良い作品。

・奇妙丸がでてきた。光秀とも会った。悲しい出会いだ。茶筅、三七と男の子だけで11人もいる。そのたびに帰蝶に謝るのかな。

麒麟がくる・比叡山焼き討ちはどーなるのか。

2020-06-03 | 麒麟がくる
「麒麟がくる」の台本はだいぶ修正されたようです。合戦シーンが特に問題で、コロナ問題とかかわります。だから合戦はほとんど「なくなる」のかなと思います。本圀寺・金ケ崎・長篠・本能寺ぐらいなのかなと思っています。長篠に光秀いたかどうかは説が分かれているようですが、光秀はどこにでもいるので大丈夫でしょう。
武家・公家・寺社・天皇、これらは「持ちつ持たれつだった」というのが多くの日本史学者の前提で、これは仮説なんですが、いつの間にか仮説じゃないような扱いになっています。信長と義昭も持ちつ持たれつ、信長と寺社も持ちつもたれつ。仮説が一人歩きしているようで、どうも科学的な方法とは思えないのですが。でも私は研究者でも学者でもない。
「比叡山焼き討ち」なんぞも持ちつ持たれつにしないといけないので、「そんなに焼いてない」とか「信長だけじゃなくやったやつもいる」とか。たいした問題でもないとする風潮もあるようです。

ドラマ上はどうなのか。今までだと「信長と光秀の大げんか」となるシーンです。今回はスルーかも知れない。

あの「光秀」なら、つまり長谷川さんなら「僧兵とは戦いましょう。でもなるべく焼かない。寺にいる一般人は殺さない、女子供は殺さない」となるでしょうね。そんなに信心深いようにも見えないし。

でもそうすると光秀の当時の手紙と矛盾してしまう。まあこっちの手紙の方をスルーかな。村を皆殺しにすることと、寺を皆殺しにすることは違いますから。

さてどうなるのでしょう。

麒麟がくる・織田信長の大失敗・越前攻め

2020-06-03 | 麒麟がくる
信長は義昭さんを奉じて上洛後、一年半ぐらい後には越前の朝倉義景を攻撃します。ユースケ義景です。で浅井長政さんに裏切られて金ヶ崎となって、人生最大のピーンチとか言われますが、本当のピンチはその後です。朝倉・浅井との戦いは泥沼化していきます。

とっても不思議だと思うのです。当時、畿内はまだ全然おさまっていませんでした。三好三人衆とか篠原長房、六角承禎とか伊勢の抵抗勢力、さらにまだ総決起していないものの本願寺勢力。

そういう勢力があるのに、わざわざ越前を攻める。リスクが高いし、結果としても大失敗します。やがて信長は姉川の戦いで、浅井朝倉にかろうじて勝利、ほぼ引き分け。その後浅井朝倉が反攻。比叡山に籠ります。これが本当のピンチでした。本願寺は決起するし、三好三人衆とも戦うし、長島一向一揆とも戦う。その過程で弟とか森可成が戦死します。

越前にさえ手を出さなければ、これほどのピンチにはなりません。まず浅井が離反しません。すると浅井は朝倉に対してむしろ抑えとなります。

敵は三好三人衆や一向一揆勢力に限られてくる。

どうしてこれほどの戦略ミスをしたのか。幕府に逆らったからと言っても、義昭幕府に帰順しない勢力を討つならまず三好三人衆でしょう。

全部将軍足利義昭の陰謀とすると小説的には面白いかも知れません。朝倉攻めをけしかけたのも義昭で、浅井をそそのかしたのも義昭。命令書ばんばん送ってましたから、別にトンデモ説とも言えない。でもそこまで計算できるか。越前攻めを命じたとしても、信長が断ればいいだけです。

これは「足利家とからませる」から分からなくなるわけで、純粋に戦国大名織田家としてみれば、そりゃ越前は欲しいでしょうね。越前を領土とすれば、尾張太平洋貿易から越前日本海側貿易まで手中にできるのです。領土が太平洋側から日本海側まで伸びて、日本を分断する形になります。

西には大きくて好戦的な大名は多くなく、最大仮想的は毛利です。こことの関係はこの時点で悪くはない。東には武田と上杉、北条がいます。武田とは半同盟みたいな形ですが、一方で同盟相手である徳川は武田と敵対しているわけです。後から考えれば信長最大の敵は本願寺ですが、信長の心中では最大仮想敵はずっと武田だったと思います。越前を手にいれて、そこまでの大国となると、武田もそう簡単には手が出せません。

越前は欲しかったと思います。しかし手を出して大失敗になってしまい、滅亡寸前まで行きます。

麒麟がくる・「美濃攻略」・完全に想像で勝手に書く

2020-06-01 | 麒麟がくる
ツイッター連動ですが、ブログではネタバレは一切気にしません。もっとも、これは私の趣味の文章で、麒麟がくるは「こうはなりません」。

つまり以下の文章はいくつかの情報に基づく想像で、実際の「麒麟がくる」とはほぼ関係ありません。もちろん史実とも「少ししか」関係ありません。


さて桶狭間の翌年1561年、蹴鞠をする「ユースケ、アリ義景」を信用できない十兵衛はまだ牢人のままです。蹴鞠もビジネスと分かっていても、ユースケ義景はあまりに楽しそうでした。そこに左馬助が「斎藤高政が病死した」という情報を持ってきます。結局は道三の呪縛から逃げられず、ストレスで体を壊した果ての若死にでした。しかし尾張の侵攻にはよく耐え美濃を守った。34歳。あとはまだ13歳の龍興が継いだと言います。十兵衛は合掌します。左馬助によれば、美濃は重臣たちの共同統治制になっており、13歳の龍興でもそう簡単に崩れることはないそうです。

ところが1564年、岐阜城が落ちているという驚くべき情報を左馬助が運んできます。竹中半兵衛(重治)とその妻の父親である安藤守就が岐阜城から龍興を追い出したというのです。竹中半兵衛といえば長良川の戦いで初陣し、道三側について戦ったものの、その後高政に仕えた美濃の小領主です。「城を奪っても、美濃衆の信望がなければ国は保てない」と十兵衛は考えます。予想通り、半年後には半兵衛は城を放棄し、美濃を脱出します。

その間、十兵衛にとっては大きな事件が続きます。義輝さんが殺されて、義昭さんが登場し。というわけで十兵衛は美濃にあまり興味を持っていませんでした。

ところが1567年、十兵衛にとって転身の年となる年ですが、竹中半兵衛が十兵衛を訪ねてきます。面識はありません。一度十兵衛に会ってみたかったと半兵衛は言います。道三様の真似をして城を奪ってみたものの、自分には信望のかけらもなかった。大将の器ではない。いまさらながら道三の凄さが分かったと言います。十兵衛は「おぬしは子供だったから知らぬであろうが、道三様だって色々欠点はあったのだ。しかし強い人であった」と語ります。そして半兵衛は意外なことを言います。明智公安が生きているかもしれないと言うのです。明智の里で匿われていると。そんな馬鹿なことはない。あの高政がそんな手抜かりをするわけない。しかしと半兵衛は言います。どうやら義龍様は知っていて見逃していたらしい、龍興が知っているかは分からないが、知っていたとしても、もはや力を持たない光安に興味はないだろう。「美濃のため、十兵衛殿とは協力したい。龍興では国人同士が争うばかり」そういって半兵衛は去っていきました。

その頃、越前には足利義昭が朝倉を頼っておちてきていました。十兵衛は義昭から信頼され「幕臣並み」の扱いを受けています。しかしユースケ義景はどうにも煮え切りません。十兵衛は尾張を頼ろうと思います。その為には信長に美濃を攻略させる必要がありました。信長が美濃と戦っている限り、上洛は不可能です。今までは美濃人として信長に美濃を売る真似はできないと考えていた十兵衛でしたが、義昭のこと、そして叔父の光安のことを思い、考えを変えます。「西美濃三人衆を調略すればよい」、そのことは誰の目にも明らかでしたが、方法がありませんでした。しかし半兵衛を通して安藤守就を説得すればいい。氏家卜全は安藤が説得できる。そう帰蝶に知らせます。しかしあの稲葉は十兵衛も苦手です。そこに帰蝶から使いがきます。使いは「木下藤吉郎」と名乗ります。十兵衛に紹介状さえ書いてもらえば、稲葉一鉄は自分が調略すると楽天的に話します。自分が稲葉と敵対的であることを告げ、紹介状なら竹中半兵衛がよかろうと、半兵衛に手紙を書きます。半兵衛の協力を得た藤吉郎は瞬く間に稲葉を調略します。

斎藤龍興はうわさのように暗愚ではなく、かなり抵抗しますが、それでも最後は美濃衆に背かれ、美濃はおちます。龍興は美濃を脱出し、今後信長と光秀の前に立ちはだかる存在となります。信長は岐阜城に入ります。帰蝶からの手紙で、十兵衛は本当に明智公安が生きていることを知ります。足腰が相当弱くなったがそれでも生きていると。十兵衛はお牧と煕子、左馬助を連れ、美濃に急行します。十兵衛たちは十年ぶりに光安と対面をします。人のいい村の長老。それが今の光安の姿です。お牧は、公安とともに村に残ると言います。伝五たちも駆けつけてきました。

岐阜城に上がった光秀は城内で稲葉一鉄とも再会します。「やあやあ、十兵衛なつかしや」、まるで百年の友のように振る舞う稲葉に十兵衛は憮然とします。
信長に対面した十兵衛は義昭を奉じての上洛を要請します。しかし信長は浮かぬ顔です。
「そんなことをして織田に何の得がある」と言うのです。十兵衛は亡き道三を思い出します。
「得はある。将軍上洛を名目にすれば、朝倉は動かない。徳川、浅井も協力するだろう。南近江の六角領地と、伊勢がまたたくまに織田家のものになる。」
しかしと信長は言います。
「道三殿の言ったという大きな国か。しかし国が大きくなれば争いも増えよう。その争いを止めさせるだけの力が幕府にあるか。義昭様がどんな優れた人物でもそれは難しかろう」と。
十兵衛は「大きな国」構想を超える論理を考えるようになります。「天下の統一」、そんな言葉が浮かびますが、当時としてはありえないことであり、馬鹿げた夢想と言えるものでした。