昨日 整体の手のつくり方を書きましたが、
これは正式なやり方で目的は【手を敏感にする】ことで、体の氣の滞りある箇所を見極めたり、背骨の弾力があるのかどうかを観察します。
ですが簡易式の場合
手の平を50~100回ほど擦り合せると、
段々 手が汗ばむほど温かくなり氣溜まりができますので、この方法でされるのも良いかと思います。
輸(愉)氣があれば薬要らずで、大抵のことはこれだけでいけますので使い勝手は良いと思いますよ!
(≧▽≦)
今も書きましたが、[ゆき]という字は2種類ありますが、この違いを書いていきます。
野口先生は、
昔 ”気”を輸(おく)る”ということで、
輸送の“輸”の字を当て嵌め
「輸気(ゆき)」と称しておりました。
野口先生の師匠、松本道別(ちわき)という方が
輸気と呼ばれていたことが由来のようです
二宮先生は、
お母様から二代続くお弟子さんにあたるため、
「輸(おく)る」方を使っています
(孫弟子になりますね。5年ほど前に亡くなってしまいますが…)
施術をする側から受け手側に
一方的に気を輸(おく)るのではないのです。
お互いが元気になり、
愉快な気持ちに手を当てるという
意味も込められています。
気の密度が亢(たか)まった手を当てることで、
息一つになって感応することで、
受け手の感受性を亢めるのだ。
だから、
“気を輸(おく)るというよりは、
受け手の気を亢(たか)め導く”ことが本質だと
二宮進先生は、仰っています
野口先生の晩年のお弟子さんたちが
使っている「愉」の字は、
“愉(たの)しんで気で相手を包む“
という意味で「愉気(ゆき)」を使っています。
「輸」は、一方通行な感じがして、
「愉」に変更されたそうです。
どの時代のお弟子さんだったか、
という差だけなので
どちらの字でも 間違いではないのです
他の方のブログを読んでいますと、
「愉気」が定着していますね♪
◇◇◇
ところででそもそも
気の密度が亢(たか)まったとか
「愉気」とはなんぞや?と言えば、
【人間の気力を対象に集注する方法】とされています
穏やかな太陽の光りでも虫メガネで、
一点集中で光りを集めれば
物を焼くことも可能であることから
氣は、精神集注によって働く “ちから”となります
ですが、
恨みや嫉妬を伴うような思いつめたような心でなく
雲のない空の澄みきった天心(てんしん)が
体の裡(うち)側を動かし
それを良い方へと変えていく
“ちから”といえば分かりやすいのでしょうか!