痴呆症から認知症へ 11月19日

痴呆症をこれからは認知症と呼ぶことが決まった。呼び方もさることながら、この症状で最も重要なことは、とりまく家族への支援だ。おじいちゃんあるいはおばあちゃんが、最近なんだかおかしいと感じ、しばらく様子を見ていてもやっぱりおかしい。内心ボケてきたのかなあ・・・と不安に思いながら病院の門をたたくと、医者から痴呆が始まっていると告げられる。

一緒に暮らす家族の大きな試練が、いよいよ始まる。どこかまわず失禁したり、突如大声をあげたり、夜中に徘徊したり、当の本人が楽しい表情を見せることなくそんな行動を繰り返せば、見守り介護する家族の心境も暗くすさむ一方だ。とまどい、どのように対処して良いかわからず、ただただ疲労が嵩むだけの家族の日常が続く。

アルツハイマー型の痴呆の場合、近年、痴呆の進行を抑制する新薬が開発され、日本でもごく当たり前に使用されるようになってきた。薬を内服することによって、痴呆の進行を極めて緩やかにおさえ、介護する家族への負担を軽減する一助にもなっている。施設には入れたくない。自宅で、家族みんなでおばあちゃんを支えていきたい。でも家族全員が初めての経験で、どうして良いのやら途方に暮れている・・・と涙を浮かべながら話をされるご家族に、投薬する私たちも心が痛む。痴呆症で肝心なことは、介護する家族への支えだと、しみじみ思う瞬間だ。こんな家族をサポートできる既存の介護保険などのサービスを紹介し、家族の不安を少しでもぬぐえるようにと、ともに考えている。

植物状態に陥った患者に、体を揺すりながらサックスの生演奏を聴かせ脳に刺激を与えると、全快あるいは改善したという症例がいくつも報告されていることを思い出すと、痴呆症の患者さんに対しても、昔好きだった音楽などを聴かせてあげれば、再び脳がしっかりと動き出すのではないかと期待したりもしてしまう。

患者さんが抱える病巣に向き合っているだけでは、それは良い医療とは言えない。患者さんの生活や介護する家族の精神衛生状態にまで踏み込んで、患者さん本人や家族が安らかな気持ちで日常生活を送ることができるようフォローしていくことが、医療の真髄ではないかと私は思っている。

痴呆症を認知症と名前を改めても、介護する家族の試練は変わらない。家族が、社会との隔絶感を感じることなく、心穏やかに介護することができるような医療と介護サービスが必要だ。痴呆症は、軽蔑すべきものではない。誰もが発病する可能性を持っている、加齢にともなう疾患の1つだ。社会こそが痴呆症を正確に認知して、介護する家族を支え、本人も家族も、変わることのない尊厳を持って生きていくことができるような環境をつくりあげていくことが必要なのだ。医療現場で働く者の1人として、この問題にもしっかりと向き合っていきたい。
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殺人ゲーム 11月18日

奈良県で女の子が誘拐の末、殺された。まるでキツネにつままれたような悪夢だ。女の子は、所在地を追跡できるGPS内蔵の携帯電話を所持していた。その携帯電話を使って犯人からメールが送られてきたときには、既に女の子は殺されていたという。こんなに簡単に人を殺す神経は、まるでゲーム感覚そのものだ。殺人を悪とは思わぬ人間を、この国は生み出しているのだ。

ゲームソフトが、殺人と蘇生を繰り返す。サスペンスドラマは、2時間の間に3人の人間を殺す。架空と現実とが入り乱れ、ついに9.11テロが発生。そしてアメリカは反撃し、イラク戦争がしかけられ、再び流血の惨事が繰り広げられる。復興支援とは日本がこじつけて主張しているにすぎず、諸外国から見た日本は、明白に参戦国だ。

そんな現実を、TVを通して見せ付けられる日本人は、いつしか殺人がそんなに重いものとは思えなくなる。香田証生氏がのこぎり引きにあって殺されても、まるで他人事のようにまったく反応しない小泉総理は、あたかも殺人に痛みを感じていないかのように見える。いまどき幼稚園児だって“こいずみそうりだいじん”の顔と名前は知っている。クールな総理の表情が、子どもたちに誤った道徳をすり込んでいはしないか、心配になる。

資本主義社会の中で、市場を統制することは不可能だ。しかし、倫理的側面から教育上不適切と判断されるゲームソフトをはじめとするマルチメディアを子どもから引き離すことは、現代社会の責任ではないだろうか。あまりにも刺激的な描写を含む映画は、「R指定」として年齢制限が設けられている。(保護者同伴ならOKの上、指定の法的根拠はないのだが。)殺人ゲームソフトにも、「R指定」ができないものかと思う。

人が死んだら、家族や周囲の人間がどれほど悲しむものなのかを、想像すらできない人間が、この国には育ってしまっている。子どもは親の背中や周囲の大人の背中を見て育つ。不平不満を口にしない。他人の悪口を言わない。人を指差さない。差した指を除く全ての指が、自分を指していることに気付かなければならない。常に心に定規を持ち、はみ出したならすぐに軌道修正できる精神を維持したい。

犯罪被害者基本法の制定も必要だが、まずは国会議員が倫理観を取り戻さなければならない。政治の荒廃と社会の荒廃とは、パラレルだ。明らかに利害関係が発生する企業団体からの政治献金は、禁止すべきだ。中途半端な改革などすべきではない。多額の献金を差し出す財界人が、政府の審議会のメンバーに人選され、国民不本位の改革を推し進めようとしていることも一つの例だ。

今日のような惨劇が、二度と起こらない社会をつくりあげていくことが、政治の使命なのだ。
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憲法改正 11月17日

「いつの間にか、大変なことになっている!」職場でも、ざわめきが起こったほどだ。「自民党の憲法改正大綱原案」だ。論憲は大いに結構。しかし、自民党憲法調査会がまとめた改正案は、飛躍しすぎだ。現憲法が、背中に羽根をはやして、飛んでいってしまったような印象を否めない。「自衛軍」を創設して、集団的自衛権の行使及び国際貢献活動での武力行使を認めるという。戦争放棄を願う私たちにとっては、到底承服できない驚くべき内容を盛り込んでいる。

戦争放棄と、集団的自衛権の名のもとの海外での武力行使とは、矛盾する。日本領土が侵略されようとする時、我が国が個別的自衛権を発動し、必要ならば武力を行使することがあり得るという理論は、確かに全否定することは難しい。何故なら、そこまで否定してしまうと、国家が国民の安全を守ることができない可能性を残してしまうからだ。

しかし自民党案では、海外での武力行使を容認し、我が国が戦争に参加することを是認するものとなっているのだから、平和を願う一国民としては、間違っても容認できるものではない。自民党案は、イラクに派遣されている自衛隊が、戦地の最前線に立ち兵器を手に持つ、ということを意味するのだ。

原案にある「積極的に国際平和の実現に寄与する」とはよく言ったもので、それはすなわち、戦争への積極的参加を意味するものだ。女帝を認めることは良いが、一方で「天皇を元首とする」とは、21世紀の憲法というよりはむしろ19世紀に逆戻りしているようで、そら恐ろしい。2度にわたる世界大戦を経て、我が国は武器をペンに変え、主権を国民に置き民主主義の実現を目指してきた。自民党案は、再びペンを武器に変え、主権を国民から奪うものといっても良い。

国会議員の数を減らし一院制とし、首相公選制を実現することが、ムダを省きより民意を反映する方法だと、私は思うのだが、自民党案は、二院制を認め、閣僚は衆議院議員のみとし、衆院優位の見解を明確にあらわしている。それでなくても、国民生活の質の向上が認められないまま、依然として特権を維持する国会議員に対して、国民の不信は増幅するばかりなのに、自戒するどころか露骨に権利を主張しているようで気分が悪い。

今回の自民党の憲法改正案に、同調する国民はどれほどいるだろうか?特に、平和と安全保障に関しては、アメリカ世論はブッシュ大統領の再選を決定したが、世界の世論はケリー候補に軍配をあげていた事実を忘れてはならない。制定から半世紀を越えた現在、改憲しなくとも解釈の柔軟性で十分だとは、宮沢喜一元首相の弁だ。一院制や首相公選制は、憲法改正が必要だが、平和と安全保障の分野における憲法改正の必要性を、私は認めない。国家侵略に対する個別的自衛権の行使をあえて明記する道を選ぶにせよ、附則に盛り込むことで必要十分だ。9条が存在するから今日まで平和な国家を維持することが可能となり、将来にわたり尚、平和を追求・展望することができるのだと、私は信じている。矛盾をはらんだ自民党案の即刻撤回を、私は強く求めたい。
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混合診療 11月16日

混合診療解禁へ向けて、政府の動きがあわただしくなってきた。昨日の経済財政諮問会議では、規制改革民間開放推進会議と足並みをそろえ、厚生労働省と対立する形で、混合診療解禁へ向けて小泉総理の鼻息もあらい。総理は尾辻厚生労働大臣に対して、「混合診療のどこが金持ち優遇なのか?厚生労働省はおかしいのでは?」と言い放った。

海外では一般的に用いられている薬でも、日本では未承認薬の場合、それを使用するにあたっては、現行では保険適用される部分も含めて全額自費扱いとなるため、患者は莫大な医療費を負担することになる。推進会議は、特に生死の瀬戸際に立つガン患者の声を例にあげて、混合診療が解禁になれば、未承認薬は自費であっても、入院費をはじめ本来保険適用される部分はそのままで、医療費の跳ね上がりを少しでも抑制することができる、と説明している。

しかし、小泉総理をはじめ、推進会議が狙う混合診療の本丸は、そんな患者思いの生易しいものでは決してないことは明白だ。混合診療導入により、必ずしも公的保険がなくても医療を受けられる形になれば、次の段階として必ず議論の対象にのぼるのが、公的保険の範囲の縮小だ。具体的に言うと、風邪も歯痛も自由診療になってしまい、庶民がおいそれとは病院を受診できなくなるということだ。最終的には、医療保険がカバーする範囲を縮小することで、膨らむ医療費の抑制につなげていこうとするに決まっている。その点については厚生労働省も色気を見せており、この問題をより複雑にしている。

日本医師会は、混合診療の解禁は、民間の医療保険への加入が必然となり、富裕層しか医療が受けられなくなるとして反対している。日本薬剤師会も、国民皆保険制度の崩壊につながるとして、解禁には反対の立場だ。私の職場でも、患者さんを対象とした署名運動を行なったほどだ。

厚生労働省の主張のように、一部の高度先進医療に限り併用を認める「特定療養費制度」の拡充によって、ガンなど高度な治療が必要な患者の経済的負担の軽減をはかることは可能だ。規制改革民間開放推進会議の見せかけの論理に、まんまと騙されてはいけない。

先日、株式会社の学校経営の是非を議論する同推進会議の教育研究部会で、株式会社の学校経営に慎重論の居酒屋「和民」チェーン社長で学校法人郁文館学園の理事長も務める渡辺美樹氏が、推進会議の委員をはずされていたことが発覚した。NPO法人の学校経営には賛成したが、株式会社には慎重論を述べた渡辺氏に対して、内閣府規制改革・民間開放推進室長は、考えを変えるか委員を辞退するかどちらかを選んで欲しいと言ったそうだ。「年内に答申をまとめるには、あえて反対派の委員を入れる必要はない。」と、同室長は言い放っている。

ことほどさように、この規制改革推進会議なるものは、参考意見を傾聴する会議の場などではなく、最初から結論ありきの場になっているということなのである。混合診療導入の是非についても、患者の立場で議論する委員が、果たしてどれほど居るだろうか?議長は、あの、オリックスの宮内氏だ。

混合診療が認められるメリットの一方で、自由診療が青天井になれば、庶民は自由に医療の恩恵を被ることが困難になる。今現在でも、高額を理由にインフルエンザの予防接種を受けられない私には、混合診療の導入が庶民を助けるものになるとは、とても思えない。保険診療の拡充と併せて高度先進医療などにおける混合診療の拡充が、改革の方向だと私は思う。諦めず、国会に働きかけていきたい。
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拉致問題 11月15日

昨日の町村外相の意味深な表現は、いったい何だったんだろうか?町村氏は、昨日確かに、明らかな含み笑いを浮かべていた。それが今日の報告はなんだろう。進展なしの上に、急遽用意されたチャーター機で持ち帰ったものは、なんと横田めぐみさんの遺骨と言われるものだった。これからDNA鑑定をしないことには断定できないが、町村外相は、横田めぐみさんの遺骨と言われるものを持ち帰ることがそんなにうれしかったのかと、私はとても不思議に思う。政府は、はなっから横田めぐみさんが生きてるとは思っていなかったのではないかと想像さえしてしまう。

DNA鑑定の結果、横田めぐみさんではなかったとすれば、北朝鮮の真っ赤な嘘ということになる。しかし、横田めぐみさん本人と断定することは、拉致問題が公となって以降の国家の無作為を証明するようなもので、政権政党としては非常に恥ずかしいこと。平壌宣言以降、一向に進展しない拉致問題に、小泉総理も焦りを隠せないのだろう。わざわざチャーター機を用意して、何を持ち帰るのかと思ったら・・・。なんだか茶番を見ているようだ。これではご両親が、あまりにもお気の毒だ。

金正日は、日本という国家をみくびり馬鹿にしている。もはやこれ以上の事務レベルの協議は無意味だ。金正日に対しては、国連安保理にこの問題を持ち込んで、国際社会の圧力で問題を解決するしかないのではないだろうか。



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独裁者失脚 11月14日

コクドの堤義明氏は、西武鉄道株の保有率を、有価証券報告書に偽って記載していた。堤氏は、西武鉄道のワンマン経営を継承すると同時に、上場する株式の量を少なくして高値を維持。コクドの資産を大きく見せておいて、大量の資金を銀行から借りて、不動産を増やしていった。金利は損金扱いできるので、コクドは常に赤字ということになり、税金のがれをしながら資産を増やすという独特の経営手法をとっていた。

これまで聖域だったコクドの会社経営に、ついにメスが入れられて、有価証券報告書虚偽記載が白日のもとにさらされることとなったのだ。結局、西武鉄道株は、上場廃止の憂き目を見ることが決定した。堤氏の手法に疑問を持った社員も居ただろうが、誰も何も言えない雰囲気が、社内にはあったのだろう。

しかし、独裁者は必ずいつかは失脚する。民主主義社会の法則だ。レコード協会の依田会長、巨人軍のナベツネ氏、そして西武の堤義明氏。今年は独裁者が次々と失脚した年だ。次に失脚するのは、いったい誰?民主主義の法則には、さすがの金正日氏も勝てないだろう。「自衛隊の居る所が、非戦闘地域なのだ」と豪語するその人と、どちらが早く失脚するだろうか。どっちも早めに、さよならしたい。

紀宮様の婚約のニュースにビックリ。紀宮様に、皇室を離れることを決断させた男性ってどんな人??????皇室典範改正により、女帝が認められれば、一旦は民間に嫁いでも、再び皇室に戻ることは十分に有り得る。 微妙な立場の紀宮様が、ついに結婚を決断されたとあっては、皇室典範改正も間近?と、ついつい憶測してしまう。皇室から“国民”になられる紀宮様が、さらに人間味を増されることを期待する。

年明けの同窓会の準備にも追われ、明け方まで作業。どうしても、全体の2割にあたる人たちの転居先がつかめず、同窓会の案内すら送ることができない。参加者の集約はこれからだが、いったいどれくらいの人たちが集まってくれるだろうか。社会の第一線で活躍している人たちばかりだ。忙しすぎるとは思うが、恩師への感謝の意味を込めて、1人でも多くの人たちに参加してもらいたい。目標100人!!

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ヒラメ,教師 11月13日

ヒラメの天敵はイシガニだった!
毎年20万匹を放流しても、直後に激減するヒラメの幼魚。水産研究試験センターは、新潟県佐渡で、5万匹のヒラメの幼魚を放流し、追跡調査をした。結果、約7割が直後に姿を消し、その半数がイシガニに食べられていたことが判明した。放流効果を高める研究も必要だが、イシガニが犯人だったなんてっ!!

蟹の中でもとても小さなイシガニが、実はワタリ蟹よりも数段美味だということをご存知だろうか?何故、こんなにイシガニは美味しいのかと、長年私は不思議に思っていた。やっとその理由が解明した!だって、ヒラメを食べていたんだもの。

ヒラメと言って思い出すのが、ヒラメ教師という言葉。上ばっかりを気にして、子どもたちになかなか目が届かない教師の比喩だ。東京都三鷹市立第4小学校は、PTAや地域の住民が教師のサポート役として、授業に参加しているそうだ。教師1人では不十分だった個別指導が可能になり、子どもたちにも好評。今では年間のべ2千名もの地域の人たちが授業に参加し、ついにNPO「夢育・支援センター」を設立、職員室の隣の部屋にその事務局を置くまでに成長している。主婦やスポーツクラブの経営者、民間企業を定年退職した人など様々な意欲ある地域住民が、積極的に授業に参画する姿勢は素晴らしい。門戸を開いた学校と支える住民のこの取り組みは、見習うべきところが大きい。(NHKスペシャル放送)

校長の民間からの登用は、文部科学省の思い切った改革の1つだ。義務教育の柱は国が決定し、細かい方策は現場に裁量を与えることが21世紀は必要だ。閉鎖的な学校現場に、新鮮な空気を吹き込むことで、教師には緊張感と活気がみなぎり、子どもには明らかに好影響を与える。強くたくましい人間を育てるためには、強くたくましく社会を生き抜いてきた民間人が、手本になることがふさわしい。想像力豊かな百戦錬磨の社会人が教師をサポートし、「地域の子どもは地域が守り育てる」という認識を持って臨めば、へこたれない強くたくましい人間が育つに違いない。魚のヒラメは美味しいが、ヒラメ教師は煮ても焼いても食べられない。
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食品偽装表示 11月12日

現代社会には、あまりにも嘘が氾濫している。オレオレ詐欺しかり、温泉表示しかり、ダイエット商品しかり、政治家の学歴しかり、公約しかり。しかも、その殆どが、平気で堂々とまかり通っていて、私たちが直接被害を被ることも少なくないから恐い。私たち1人1人が確固たる洞察力を持ち、その可否を見極める力を持たなくして、難を逃れる術はない。

高級品として、しゃぶしゃぶなどに愛用される黒豚の特産地は、鹿児島県だ。今年3月、カナダ産のバークシャー(黒豚)を、鹿児島産黒豚と偽装して販売していたことが発覚した。しかも、その後の調査で、なんと、㈱組合貿易という100%全農の子会社が共犯(!?)ときたら、驚かないわけにはいかない。この会社は、カナダ産のみならずアメリカ産黒豚も、鹿児島産黒豚と偽装されることを承知の上で供給していたことがわかっている。

本来ならば、日本国内の黒豚畜産農家の利益確保に重点を置かねばならないはずの全農が、事実上、輸入黒豚の販売に力を入れていたということは、犯罪への加担と同時に、我が国の農家を守るどころか、利益のためなら手段を選ばぬ、不誠実で信頼におけない悪質な経営を行なっていたということを物語っている。全国のスーパーの店頭に並んでいた鹿児島産黒豚が、実はカナダ産やアメリカ産だったと聞いて、怒らない消費者はいないだろう。これは紛れもなく、消費者への詐欺行為だ。

そしてもう1つ。香川の観光の目玉として全国にPRしてきた、さぬきうどんだ。JA香川が販売するさぬきうどんの原料は、これまで香川産小麦「さぬきの夢2000」を、100%使用しているとしてきた。ところが先日、原料の小麦の約8割は、オーストラリア産小麦を使用していたことが発覚した。由々しき事態だ。

本来、日本の農業の要であるはずのJAが、産地偽装という消費者をターゲットにした犯罪行為を平然と行なってきたことは、決して許されるべき問題ではない。明らかに、消費者をバカにしている。

遡れば、西宮冷蔵が内部告発した、雪印牛肉偽装事件を思い出す。BSE問題で国産牛を買い取るとした政府に、雪印が、輸入オーストラリア産牛肉を国産牛と偽って買い取らせようとした詐欺事件だ。その後もハンナン事件、フジチク事件と、詐欺事件は拡大し続けている。いつの時代も、産地を偽って、利益を上げようとする性質の悪い業者はいるものだ。特に今回は、JAをはじめ食肉組合や大手企業が確信犯だったところに、事態の深刻さを感じる。私たち消費者は、何を信じて購入すれば良いのだろう?

無添加と表示してあっても、いつまでたっても腐らない果実エキスには、正直、寒気を覚える。松阪牛といっても、松阪から遠く離れて育った牛で、なおかつオスだったとしても、私たちには判断がつかない。消費者を惑わす食物は、山ほどある。産地偽造は明らかに犯罪だが、私たち消費者が、スーパーの表示に対してもっとこだわりを持ち、消費者の力を更に強化しなければ、おそらくいつまでたっても事態は改善されないままだろう。

BSE問題で、日本の牛にはID番号が付けられて、すべての牛のルーツがわかる仕組みになっている(はずだ)。店頭に並ぶ段階で、肉や野菜の産地や生産者を明確に表示するため、表示基準の強化を図る法整備と総点検が必要だ。そうなれば、地産地消も推進され、都市部と農村部との循環も活発化し、真の意味での地域経済の自立・発展にもつながるのではないかと、私は思う。
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11月11日ケアマネジャー

ケアマネジャーを5年毎の更新制にすると厚生労働省が発表した。ケアマネジャーの質の向上を目指し、5年に一度の研修を義務付け、ケアマネジャーの力量の格差の是正をはかるというものだ。それでなくても超ハードワークとされるケアマネジャーを更に拘束する点についてはいただけないが、当然ケアマネジャーにも生涯教育は必要であり、日常の研修がほとんど不可能であることを思えば、5年毎の研修の義務付けは最低限必要なことなのかもしれない。

ケアマネジャーの仕事は、認定された要介護度に応じた利用額に基づき、あるいは利用者が別途更に自己負担するならば、その限度額の範囲を超えて、利用者に必要なケアプランを立てることだ。介護保険制度が介護が必要な人の自立支援を目的として創設されたということを勘案すれば、ケアマネジャーが立てるケアプランによって、利用者の要介護度が改善されなければ意味がない。ケアマネジャーの資質を議論する場合、実は、そこが最も重要で、注目すべき点ではないかと、私は思う。

5年毎の研修も良いが、利用者のケアプランとその結果である要介護度の変遷を見れば、ケアマネジャーの能力は判断できるし、むしろそのほうが利用者本位であるとも言える。ケアマネジャーには厳しいことかもしれないが、介護保険制度は、医療と同様にそれにより利用者の状態が改善しなければ、介護サービスという商品の押し売りにすぎなくなる恐れをはらんでいることを思うと、ゆるがせに出来ない重要な視点といえる。

厚生労働省は同時に、1人のケアマネジャーが担当する標準件数を、現在の50件から30件に減らすことも決めている。それは現場の悲願だった。早朝から深夜まで、ケアマネジャーの過酷な労働は、終わることを知らない。そんな現状を打破しない限り、ケアマネジャー不足は続き、結果としてサービスの質の向上は望めない。介護保険制度による介護サービスは、利用者更にはその家族の生活までをも左右する、他人のプライバシーに一歩も二歩も踏み込む、高い倫理観が要求される業務なのだ。従って、利用者1人1人に応じて、詳細なケアプランを作成するケアマネジャーの位置付けは、それ相当に見直しがなされてしかるべきだと私は思っている。

ケアマネジャーは、医療または介護の専門職に5年以上就いていなければ受験資格はない。ケアマネジャーの業務が極めてハードであることから、もともとの専門職との掛け持ちは困難だ。「看護師をやってるほうが、給料は良かった」という声はざらだ。主治医やサービス提供事業者とのカンファレンスに基づき、ケアプラン作成がケアマネジャーの裁量に委ねられている以上、ケアマネジャーが、遣り甲斐と誇りを持って業務に邁進できる環境整備が何より必要だ。山積する事務作業に追い立てられる日常を、打破することが肝心だ。

より質の高い介護サービスの提供を目指すのならば、5年毎の研修も結構、しかしまずは、ケアマネジャーを1人の人間として扱う施策を、厚生労働省は創りだす責任がある。ここでも現場の声が、中央には届いていない。業務に忙殺され、倒れそうな体を支えるために、自らも病院を受診しながら頑張るケアマネジャーが、私の身近にはいる。

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11月10日

ただ今、11日朝。昨日もいつものように夜まで仕事をして帰宅。さあ日記を書こうと、パソコンに前に座ったが最後、気づいたら、太陽が高く昇っている時間。ビックリ!あわてて朝の支度。
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