政治家を志す人のほとんどは権力志向が強い。なんとかして権力を握りたい。大臣になりたい、党首になりたい、総理になりたい、大統領になりたい。あるいは国王になりたい。…
しかし、そのような権力志向を全く持ち合わせず、温良で控えめな一人の青年が、偶然から小さな部族の国王になった。彼はそこで憲法も制定した。
しかし、王様になった一等兵・妹尾隆彦を知る人は、今やほとんどおるまい。
妹尾隆彦は大正九年に香川県の丸亀に生まれた。関西大学卒業後、大阪税関に勤め、美しい娘と結婚した。二十二歳である。
しかし翌昭和十六年すぐに応召された。彼は一日も早く帰国したいがために、幹部候補生には志願せず、一等兵として陸軍・楯兵団に組み込まれた。送られた先はフランス領インドシナのハイフォンであった。彼はそこで真珠湾攻撃、日米開戦を知った。
楯兵団は進軍し連戦連勝、ビルマに達した。妹尾は英語が話せたことから、ビルマ戦線での情報収集と、住民への宣撫の担当となった。
ビルマの原住民と言ってもいくつもの部族に分かれていた。それらの部族に紛れ込んだ残敵はゲリラとなる。戦争は悪夢である。その統治と残敵掃討隊がいくつも編成された。
妹尾一等兵は「カチン高原掃討隊」に加わった。総員百五十名であった。カチン高原にはカチン族という野蛮な首刈り族、人喰い人種がいるという。
やがて妹尾一等兵は、ザオパンという現地人の若者と二人で、カチンのジャングルの偵察を命じられた。
このザオパンの巧みな交渉力もあり、部隊は渡河でカチン族の協力を得た。また協力したカチン族は温順で、とても人喰い人種には見えなかったし、この部族に残敵が紛れ込んでいる様子もなかった。日本軍は撤収したが、妹尾はザオパンと数日残り、さらに情報収集に当たることになった。やがて妹尾とザオパンは別れた部隊の後を追って合流しなければならない。
ところが、このザオパンという青年は、実はカチン族の酋長の息子であった。ザオパンはなかなか開明派で、カチン族を争いのない豊かな民族にしたいと考えていた。彼は妹尾をカチン国の首都に案内したいと言った。
その頃、カチン国には国王がおらず、五人の族長の族長会議で統治が行われていた。この族長たちも対立しており、部族同士の野蛮な殺し合いも行われていた。
ザオパンはカチンを豊かにし貧苦から救いたい、また文明化を図りたいという。妹尾はザオパンやその仲間たちの話に心を打たれた。彼は現地人への差別意識は全くなかった。優しい人柄で、平和を愛し、争いごとは大嫌いであった。また不正を嫌い、平等と人間同士の心の触れ合いや共存、協同を信じていた。
ザオパンは妹尾隆彦の中に理想像を見た。そして彼にカチンの国王になってほしいと頼み込んだ。すでに妹尾一等兵は、本隊と二百キロも離れ、ジャングルの真ん中にいた。
ザオパンの提案に彼の仲間たちや、各部族の族長たちも賛意を示した。
妹尾は国王になった。元来、愛情豊かで、真面目一本の男である。誰に対しても穏やかで優しかった。妹尾は国王として、熱心に、真面目に、精力的に働き出した。
カチン国の憲法を制定し、憲法下の国法をつくり、裁判制度を設けた。阿片を禁止し、教育に取り組み、福祉という考えも教えた。道路を整備した。また国土開発と大首都の建設計画もつくった。
ジャングルを開削し、樹海の中に、緑の丘と白い壁、赤い屋根の家々や役所を建設する。…
「カチン族の首カゴ」に言う。「わたしは自分の言動に責任を持つことをまず学んだ。わたしは自分の才能、能力をはじめて知り、自信を持った。そして肩章や肩書きを取り除いたハダカとハダカの人間として、他をくらべてみるとき、決して自分が劣っていないことを知った。」
戦争の最中、妹尾は本気で、小なりといえ理想の国家づくり、理想の共同体づくりを夢見た。いかなる戦争も愚劣であり悪夢である。妹尾は兵籍離脱、国籍離脱を考えるようになった。
大日本帝國の大東亜共栄圏は嘘っぱちのスローガンである。どこに共栄の心があったのか。この妹尾一等兵の小さな試みこそ、共栄圏づくりの一歩でなかったか。
しかし彼の元に帰隊の命令が届いた。妹尾一等兵は部隊に戻った。
「たかが一等兵のくせに、人喰い土人の王様ヅラしやがって。なんだその服装は? 大日本帝國の兵隊なら兵隊らしくしろ!」
彼を待っていたのは中尉の激しいビンタの嵐であった。執拗なビンタの次は、腫れ上がった顔で、口内に溢れる血を飲み込みながら、軍人勅諭と戦陣訓の朗唱を何度も繰り返すことを要求された。
…日本軍はカチン高原に駐留し、横暴、乱暴な統治をしようとした。ほどなくカチン族は日本軍の敵に回った。やがて日本軍はカチン族に追われ、ビルマを敗走した。
妹尾隆彦は昭和二十一年に復員し、大蔵省、運輸省、大阪市役所の港湾局に勤めた。大阪万博に出向し、退職後にメキシコの大統領顧問となり、さらに国立メキシコ大学で創造工学の講義をした。