演芸評論家、随筆家の矢野誠一の「大正百話」は、私の愛読書のひとつである。百話といいながら、それには少し足りないが、各話短く適度な文章で、どこから読み出しても楽しい。
矢野は「舌代」に言う。舌代とは簡単な口上書きのことである。
「西洋暦で一九一二年から一九二六年にあたる、世に言う大正デモクラシーの時代は、正に日本版ベル・エポックであったように思う。」
続けてお芝居の中の、実際のこの時代に青春を送った革命家の終幕の台詞を紹介する。
「考えていたんだが、この大正という時代、のちになったら、みんながそういうだろうね……のどかな……じれったいほどのどかな、美しい、いい時代だったとね。……つらい。何が、よき時代なものか」
風俗、世態、人情、事件、思想、哲学、文学、演芸…「際立って特徴的な色彩を発揮してのけている」が、戦争をしていなかった事がもたらした、稀有な文化の時代だったのか。
ちょうど十年前に「グレッグ・アーウィンの英語で歌う、日本の童謡」というCD絵本に関わって以来、私は童謡唱歌が気になり、明治の日清、日露の戦争前後から大正時代、そして昭和の戦前戦中、敗戦までの時代を調べるようになり、「掌説うためいろ」を書き出した。
滝廉太郎、武島羽衣、土井晩翠、夏目漱石、岡野貞一、高野辰之、野口雨情、そして鈴木三重吉が童謡運動を起こし「赤い鳥」を創刊した。そこに北原白秋、西条八十らの詩人や、山田耕筰、成田為三、中山晋平、弘田龍太郎などが参集した。「金の船」も創刊され野口雨情らが優れた童謡詩を掲載した。ここに世界にも類稀な児童文学運動が起こったのである。
それらのことだけを見れば「じれったいほどのどかな、美しい、いい時代」に思えるが、経済の浮沈激しく、旧家の没落や逃散、身売りの時代でもあった。
「赤い鳥」創刊の年、富山に発した米騒動が全国に燃え広がった。そもそも明治の末は忠君、愛国が声を大に謳われ、大逆事件が起こり、特高警察が発足し、言論への締め付けも強まり、うかうかとした発言はよほど気をつけねばならず、また自粛する傾向にあった。「つらい。何が、よき時代なものか」
「赤い鳥」運動は文部省唱歌の批判から起こった。硬い漢文調の美辞麗句と紋切り型の言葉ではなく、子どもたちの言葉で詩を書こうというのである。しかし、もうひとつの三重吉らの本心、本当のことなど、口に出して言えるものか。大逆事件はつい十年前のことなのである。文部省唱歌に押し込められた忠君、愛国思想と、戦争の歌、兵隊さん、軍人さんを讃える歌…子どもたちに、そんな歌ばかりを教えていいものか…ということではなかったか。
まさに「大正百話」は学者の歴史家が取り上げぬような市井の稗史、世相の空気、世俗のスキャンダル、芸能界スキャンダルとこぼれ話なのである。
そののっけの話は「廃朝中の歓楽街」である。つまり明治四十五年七月三十日、尿毒症のため天皇崩御の報。
これによって全国藝妓屋同盟本部はお触書は発表されねど通達あるまで休業。芸妓の外出も禁止、遊郭も休業、三十日は遊女たちの検査日なれど結び髪や下髪に直して謹慎。芝居、寄席、活動写真その他一般遊楽場は悉く休業。各種の製造工場、大商店、大料理店も悉く弔旗を掲げ休業。仕事をなくしたその日暮らしの芸人たちの中には、部屋に籠ってできる内職をする者もたくさんいたという。歌舞音曲の停止は八月四日に解かれたものの、なおも遠慮しても五日、一週間の停止延長もあった。
ちなみに先の今上天皇の生前退位の「お気持ち」には、天皇の崩御に際しての、これらの自粛による庶民生活停滞への気遣いも込められていた。
次は「歌姫環の家出」で、柴田環(三浦環)のスキャンダルである。続く「原のぶ子の上海道行」は、三浦環の後釜を狙っていた東京音楽学校の美形・原のぶ子のスキャンダルである。
名人圓喬の死、消えた歌舞伎座の芝居茶屋、圓蔵・むらくの喧嘩、真砂座のストライキ、花魁の表彰式、訴えられた雲右衛門、蝶花楼馬楽の死、芸術座の崩壊、金髪藝者リーナ、当世吉原事情、弁士の楽屋……と、芝居、寄席などの話が主であるが、このこぼれ話が面白い。また築地小劇場の設立や、関東大震災下の役者や噺家たちの様子をよく伝えている。
島村抱月と松井須磨子の醜聞と死も興味を惹くが、彼らと同じ空気を吸っていた中山晋平についても想いが飛ぶ。まさに「赤い鳥」と童謡運動と同じ時代である。
旧家が没落して新興成金が登場し、また新興財閥が形成されていく。景気の良い社会と絶望の社会が二極化していった。
ロシア革命に際し、寺内内閣は欧州諸国や、特にアメリカからシベリア出兵を強く要請され、ついにそれに踏み切った。それを機に米騒動が起こったのだが、寺内内閣は軍隊を動かしてこれを取り締まり、いよいよ言論統制を厳しくしたのである。その頃、徳山湾に停泊中の弩級戦艦「河内」が大爆発し、六二一名の死者を出した。これらを大阪朝日新聞が政府批判を展開すると、編集者らは告発され、社長は右翼の黒龍会によって襲撃された。
大逆事件に際しての永井荷風もそうだが、日本の作家、知識人、文化人は政府に対して、誰も声を上げないのである。ただ黙するのみ。…
そして関東大震災である。朝鮮人、中国人、沖縄人の虐殺、無政府主義者・大杉栄と伊藤野枝と親戚の子の虐殺、拘束されていた共産主義者や労働組合運動家の虐殺。
芥川龍之介は「唯ぼんやりとした不安」を感じており、昭和二年に死を選んだ。じわじわと、締め付けられるような息苦しさも進行していたのである。
「…つらい。何が、よき時代なものか」……やがて昭和に入ると、司馬遼太郎が「異胎」「鬼胎」と憤怒を込めて言う「統帥権」が、いよいよそのおぞましい声を上げ始めるのである。
この矢野誠一の著作も、先日紹介した白崎秀雄の著作も、読むと語彙がとても豊かになる。ああこういう言葉、こういう表現方法があったのか…と。