芳野星司 はじめはgoo!

童謡・唱歌や文学・歴史等の知られざる物語や逸話を写真付でエッセイ風に表現。

「里の秋」の話

2016年09月25日 | エッセイ
                                                              

 以前「童謡道〜掌説うためいろ余話〜」という短い文を書いた。童謡詩人の斎藤信夫における「童謡道」である。
 彼は童謡のための詩を書き始めてから、毎日一篇の詩を書くことを自らに課し、昭和六十二年にその生涯を閉じるまで、実に11,127の詩を書いている。
 明治四十四年に千葉の成東の農家に生まれたが、教育者であった祖父と同じ教職に進んだ。信夫は地元の尋常小学校の代用教員を振り出しに、一時休職して師範学校に学び、尋常小学校の訓導に復職し、一貫して教育の場に身を置いた。
 昭和七年に勤めた千葉市内の院内尋常小学校で、先輩教師の市原三郎との出会いをきっかけに、童謡の詩を書き始めたのである。
 彼が船橋市葛飾尋常小学校で教鞭をとっていた昭和十六年十二月八日、日米は太平洋戦争に突入した。斎藤信夫は、翌日から戦争童謡の詩を書き始めた。
 しかし彼は苦しんでいた。心に沁みる納得のいく詩はできないのだ。好戦的な歌ばかりでよいのだろうか。もっと兵隊さんを励ます、喜ばすような、子どもの歌はできないだろうか…。
 その年の十二月二十一日、彼は風も冷たい戸外に出て、幕張の夜空を見上げた。凍てついているせいか、星が結晶のようにキラキラと輝いていた。
 彼の教える生徒たちの中に、父親が戦地に行っている子もいる。子どもたちが戦地の父親に宛てて、慰問の手紙を書いているような詩はどうだろう。
「お父さんのご武運をお祈りしております。銃後の僕もお母さんを助け、お留守を守ります。大きくなったら兵隊さんになって、僕もお国を護ります。…」
 彼は家の中に戻り、机の前に座って、いつものように大学ノートに詩を書き始めた。脳裏に浮かぶ情景は東北の片田舎である。小学生の男の子が、戦地の父へ慰問の手紙を書いている。
 信夫は題名を「星月夜」とした。

  一
    しずかな しずかな 里の秋
    お背戸に 木の実の 落ちる夜は
    ああ 母さんと ただ二人
    栗の実 煮てます いろりばた
  二
    あかるい あかるい 星の空
    鳴き鳴き 夜鴨の 渡る夜は
    ああ 父さんの あの笑顔
    栗の実 食べては おもいだす
  三
    きれいな きれいな 椰子の島
    しっかり 護って くださいと
    あゝ 父さんの ご武運を
    今夜も ひとりで 祈ります
  四
    大きく 大きく なったなら
    兵隊さんだよ うれしいな
    ねえ 母さんよ 僕だって
    必ず お国を 護ります
 
 信夫は「星月夜」を、以前面会したことがある作曲家の海沼實に郵送した。しかし返信はなく、やがて彼もそのことを忘れた。戦争はいよいよ拡大しつつあり、またどうも戦局も厳しくなってきた様子が窺われる。
 斎藤信夫は真面目で熱心な教師だった。軍事教練も熱心にやった。子どもたちに「日本は神国、必ず勝つ」と教えた。「みんなでしっかり銃後を守ろう」と教えた。戦争はどんどん激しくなり、とうとう日本の都市上空に敵の爆撃機が現れ、空襲がはじまった。…斎藤信夫は敗戦を予期していた。その日が来たら教職を退く覚悟をした。そして昭和二十年八月十五日、日本は戦争に敗れた。
 斎藤信夫は学校に辞表を出した。子どもたちに嘘を教え続けた。彼の教師としての戦争責任をとったのだ。彼は幕張から成東に戻り、職探しをしていた。
 その年の十二月、「スグオイデコフ カイヌマ」という至急電報を受け取った。海沼實からである。
 海沼はNHKから復員兵を迎える歌を依頼された。彼は手元にある多くの童謡の詞の原稿に目を通し、その中から「星月夜」を選び出したのである。
 海沼は斎藤信夫に言った。
「一、二番はこのままでよいと思いますが、この三番、四番を削り、新たに戦地から戻って来る兵隊さんを迎える詞を書いていただけませんか」
 信夫が新たに三番の詞を書き、それを海沼に渡すと、彼は頷きながら言った。
「斎藤さん、『星月夜』では硬い感じがする。『里の秋』にしませんか」
 信夫は「里の秋」への改題を了承した。
 新しい三番の歌詞はこうである。

  三
    さよなら さよなら 椰子の島
    お舟にゆられて 帰られる
    ああ 父さんよ 御無事でと
    今夜も 母さんと 祈ります

 海沼の曲作りは早かった。その「里の秋」は二十四日には、NHKラジオの「外地引き揚げ同胞激励の午后」という番組で、少女歌手の川田正子が歌い、流された。その歌の放送は、一回かぎりの予定だった。しかしその歌は、わが子、わが父、わが夫、わが兄、わが弟の、無事な復員を待ちわびる多くの人たちの心を激しく揺さぶり、たちまち大反響を呼んだ。
 その日本全国からの反響を受けて、NHKは「復員だより」という番組で流し続けることにした。これこそ敗戦後の日本の国民の琴線に触れた歌だったのだ。
 しかし、すでに戦死を知らされた遺族たちは、この曲・歌を聴いて涙が止まらず、再び悲しみにくれたという。その便りを聞いた斎藤信夫は、三番はなくてもよかったと思ったという。戦争で家族を失った人たちの悲しみが心に突き刺さったのだろう。…今は三番の歌詞が歌われることはほとんどない。
 一年後、斎藤信夫は再び教職に復帰した。子どもたちに伝えたいことが、たくさんあったのだろう。


豊洲新市場の問題

2016年09月24日 | コラム
                                                            

 築地市場の豊洲移転問題は、ますます「藪の中」である。
 築地市場の青果市場には、以前イベントの仕込みで、何度かお世話になったことがある。たまたま今年の春に築地市場の最後のイベント「ありがとう築地」に関わった。確かに築地市場の老朽化は目につき、移転はやむをえないように思われた。
 ちょうどその頃、私がいつも注目しているブログのひとつ、「建築エコノミストの森山ブログ」に「豊洲の新市場が大変らしい」というシリーズが掲載され始めた。森山高至氏は新国立競技場問題の頃から、面白いと思っていた。その指摘も問題の剔抉も正鵠を射ていた。
 豊洲新市場の問題点として挙げられている数々を、知れば知るほど、これは施設の利用者のことは何も調査もせず、その意見を汲み上げてもいないと思われた。設計仕様書を提示した東京都のミスか、日建設計のミスか。あまりにも杜撰に思われた。

 先ず床荷重が1平方メートルあたり700キロであるという。市場内を走り回るターレの自重は1トン近くあり、これに運転者が乗り1トン近い荷を載せる。それに対して都側、移転推進派は、車輪は分散するので荷重が一点に集中するわけではないから大丈夫だという。しかし水槽は1トンを超えるものが多く、また一箇所に積み上げる荷も1トン近くなるだろう。すると都側は床の梁のある場所を教えるという。なんだそれは。つまり重い荷を置いて可能な場所と不可能な場所があるということか。
 また仲卸店舗の各ブースは壁で仕切られており、幅が1.4メートルに過ぎず(実際はそれより狭い)、大きなマグロをさばく刀のようなマグロ包丁も使えない。店舗面積は築地より広いというが、要するに鰻の寝床のように長くなって通路部分も含まれる面積なのである。
 ターレを載せるエレベータの数が少なく、エレベータ前は大渋滞になりかねない。またターレの通るスロープはカーブが急で、大減速して注意深く曲がらなければならず、大渋滞になりかねない。またここでも曲がる際に満載した積荷が落ちかねず、荷が散乱すれば大渋滞と怒号は必至である。
 トラックバースは10トン車が縦に56台並んで駐車可能という図面だが、市場に出入りする10トントラックのほとんどはウィングボディ(横開き)なのである。設計者は築地市場を見ていないのだろう。ウィングボディならフォークリフトで作業も早くスムースだが、後ろ開きの場合は荷の積み込みは倍以上の時間がかかってしまう。
 またトラックバースのプラットホームは狭く、フォークリフトが動き回るスペースがない。何を考えて設計したのだろうか。豊洲はコールドチェーンを売り物にし、建物全体が冷蔵庫のようなものだが、このトラックバースに面した扉は開いたままでなければ作業効率が悪く、実際は開いたままになるだろうと予想される。これは冷蔵庫の扉を開けっ放し状態にすることと同じで、想定の冷温状態は保てまい。
 さらに明らかになったことは豊洲新市場の壁に入れられている断熱材の厚みはわずか5センチで、これは一般住宅の断熱材の厚みと同じらしい。これでは冷房費用が予想をはるかに超えてかさむだろう。また保冷効果は上がるまい。
 設計図では荷捌場の押さえコンクリートの厚さは、わずか1センチで、開場ほどなくヒビ割れを起こすと思われる。その指摘に対し都は、現場で厚さを15センチに修正して打っているので問題ないと答えたらしい。工事現場の監督がさすがに1センチの厚みに不安を抱いたものらしい。しかし、それで新たな重大な疑義が発生する。
 建物の構造計算は1センチのコンクリートの厚みでなされ、建物の耐震基準をクリアしているらしい。しかし15センチの厚みのコンクリートをあの広いフロアに打った場合の構造計算はなされておらず、構造計算上は耐震基準もクリアできないかも知れないという。
 予算も異常な膨らみ方である。土壌汚染対策工事費は当初の586億円から858億円に、建物の建設費は990億円から2752億円に、坪単価70万円から220万円(最上級ホテルのスゥィートルームと同じような坪単価)に膨らんでいる。豊洲市場のような倉庫状の伽藍堂建築物の坪単価は、だいたい30万から40万円だという。… 

 そんなこんなのところに、あの謎の地下空間の発覚である。
 時系列で並べてみると見えてくることがある。1998年あたりから、東京都は東京ガスに売って欲しいという打診を始めている。2001年1月、環境基準の1500倍のベンゼンが検出されたが、東京都と東京ガスの間に最初の覚書が交わされる。同年7月に東京ガスとの間に土地譲渡に関する合意を得たという。
 2005年、東京都は東京ガスと確認書を交わした。その時の都の代表は都知事本局長の前川耀男氏と市場長である。同年、前川耀男氏は東京ガスの執行役員に天下っている。
 2007年5月に専門家会議が立ち上がる。同年9月環境基準を上回るベンゼンが検出される。専門家会議で都側から建物下の地下利用について意見を求められたが、専門家たちに否定される。最初の盛り土案は都側から出され、それを専門家たちが検討したという。
 2008年、豊洲の市場予定地の土壌から環境基準の860倍のシアン化合物と43000倍のベンゼンを検出した。同年7月、専門家会議は都に盛り土を提言し解散した。
 同年8月、技術会議が立ち上がっている。この技術会議で、都側からまた地下空間とその利用について意見が出されたが、問題にもされなかった。その後の会議は盛り土案をいかに技術的に進めるかに終始したという。
 また東京ガスは100億円で土壌汚染対策工事を実施している。
 
 2011年3月11日、東日本大震災に見舞われた。豊洲の市場予定地は百箇所以上で砂と泥を噴出し、液状化を起こした。その時の噴出した土砂の土壌が汚染されていたかどうかは不明(発表されていない)である。おそらく環境基準をはるかに超える汚染が確認されていたのではないか。
 東京都は東京ガスとの契約を急いだ。都は東京ガスに対し、土壌汚染対策工事に追加で78億円を負担させることとしたが、ほとんど瑕疵担保特約なしの契約に等しかった。土壌汚染対策費のほとんどは都が負担し、3月31日、東京都は東京ガスと東京ガス豊洲開発から、10.5ヘクタールの土地を559億円で購入した。なお未取得用地も今後取得の見込みと発表された。最終的に合計40ヘクタールを1859億円で取得している。
 また同月、都は日建設計と設計契約を結んだ。都から日建設計に示された仕様書には「空洞」はなかったというが、同年6月日建設計が提出した設計図では、建物下は「空洞」になっている。日建設計が都から示される変更仕様書なしに空洞の設計にすることは考えられない。
 先述したように、その後東京都が土壌汚染対策工事費(盛り土の工事費)は、当初計上した586億円から858億円に膨らんでいるが、その盛り土は豊洲新市場用地の三分の一を占める建物の下では行われていなかったのである。盛り土がなされなかったにも関わらず、なぜ工事費は膨らんだのか。また盛り土がされずに浮いた金はどこに回されたのか。
 2011年8月に、その土壌汚染対策工事に関する契約を、都はゼネコンと結んでいる。仕様書は建物部分以外の盛り土である。
 2013年2月、日建設計は建物下空洞の実施設計書を東京都に提出し、同年12月に東京都は建物下が空洞の設計図を完成させている。

 おそらく2011年3月11日の東日本大震災で、東京は震度5強の長い揺れに襲われたが、液状化した地下から相当危険なものが噴出したにちがいない。それをそのまま発表すれば、そもそも豊洲への市場移転はあり得なかったのだろう。
 だから技官やその上司たちは、それを隠してでも、「築地市場の豊洲移転」という絶対命題を忠実に履行し、秘守しなければならなかったのだ。あの危険な物質は、震度5で湧出するのだ。近い将来、それは再び東京を襲うだろう。また盛り土をしても、長い年月で、それらが再び出てくることは十分考えられた。ならば建物下を空洞にし、地下水管理ポンプと浄化装置で処理しようという案を選択したのであろう。 
 しかし技官たちは建物下の空洞を隠さなければならなかった。そもそもその危険物質の湧出は、食べ物を扱う市場としては不適格なのだから。

 2013年12月から2014年11月に、都は技術会議に全ての盛り土の完了を報告し、同月から地下水のモニタリングを開始した。また2014年2月から市場の建屋の建設に着工している。
 2015年7月に舛添知事は築地市場の豊洲新市場への移転を2016年の11月7日にすると発表した。
 誰も責任はとらないだろう。都に限らず、大日本帝國時代から日本は責任を曖昧化模糊とするシステムがあるのだろう。大日本帝國の軍官僚たちが暴走しても、誰にも止められず、また誰も責任をとらない。あれとまったく同じだ。
 アレックス・カーの言う通り、日本は優れた機械だが、ブレーキがない。だから不必要なダムも高速炉もんじゅも、ギロチン堰も、高速道路も新幹線もリニア新幹線も、一度走り出したら誰も止められないし、止めようともしない。その責任は誰が取るでもなく、曖昧のままである。
 都知事の角印は部課長クラスですら持っているという。角印の主は説明を受けた記憶がなく、自分の認識とは違うと言う。角印が捺されていても、本人が捺したものとは限らず、その記憶も曖昧という、誰も責任をとらぬシステムなのだろう。
 私には、「築地市場の豊洲移転」という絶対命題を忠実に履行するため、それを阻害する要因を隠し、秘守しなければならない都の役人(技官)たちの傲慢と苦渋を思う。彼らは自らに箝口令を課しているのかも知れない。彼らは軍官僚と同じなのだろう。

 そもそも豊洲新市場に移転し稼働したとしても、稼働経費が膨大で採算が取れず、ほぼ三年で破綻すると予想する専門家も多いという。


白洲次郎の憲法9条

2016年09月23日 | 言葉
                                                      

 GHQに促された日本政府が松本烝治委員会の下、憲法草案をまとめた。しかしその草案は大日本帝國憲法に少しばかり手を加えた程度のものであったため、GHQに突き返された。
 白洲次郎のその時の立場は、私にはよく分からない。曖昧にも思えるのだが、得意の英語でGHQに激しく楯突き、抵抗の姿勢を示したのが白洲次郎であった。
 その後、日本国憲法は「占領軍に強制された」と言ったとされる白洲次郎の言葉が残された。白洲次郎は実に複雑である。しかし白洲は「新憲法のプリンシプル(原則)は実に立派である」とも評価した。さらに憲法9条を絶賛さえしている。 



 戦争放棄の条項などは圧巻で、押し付けられようが、そうでなかろうが、いいものはいいと率直に受けいれるべきだ



 白洲次郎はそのイギリス時代を含め、その後の世過ぎと彼の起用、そして彼の立場、経済人としても、曖昧でよく分からない。実に謎めいた人だったのではないか。


たった一文字

2016年09月22日 | エッセイ
                                                                                               

 展覧会やコンサートなど、パッケージ化されたイベントが多い。パッケージ化されたものなら、ひとつひとつの手作りや演出などを考える必要もなく、また調整や稽古にほとんど時間をかけないですむ。「○○展」などという展覧会も、パッケージ化されて全国を回る。コンサートもほぼ同じ。
 その点、落語家の師匠たちは偉い。噺はどこで演っても同じだが、その町にやって来て、会場までの町の様子を観察し、高座に上がって客席の様子や客の顔を見、話し始める。その「枕」は実にその日の、その町の、その客席の様子で異なり、しかも面白い。「枕」はパッケージ化されておらず、出たとこ勝負なのである。
 イベントでもパッケージ化されたものをそのままやるのは、何となく味気ない。私はひねくれているので、パッケージ化されているものでも、つい弄りたくなる。

 中山競馬場のイベント提案であった。場イベントであったか場外イベントであったか、その記憶は曖昧である。あまり予算もなかったように思う。イベントアイテムのひとつに、馬場内子どもの広場の特設ステージのために、キャラクターショーを仮押さえした。
「帰ってきたウルトラマン」である。ウルトラマンシリーズなら、そのままでも来場の子どもたちをステージ下に集めることはできるだろう。「帰ってきたウルトラマン」も人気があった。
 しかしイベントはコンペである。競合他社と何かしらの違いを示したい。キャラクターショーでも何か差異を示したい。またお客様をニヤッとさせたい、喜ばせたい。私は仮押さえしたイベントアイテムのタイトルをずっと眺めていた。…そうだ、たった一文字で印象を変えることができるのだ。
 私は仮押さえしたキャラクターショーを運営する会社に、お願いの電話を入れた。中山競馬場、そして当日限定で、タイトルを「帰ってきちゃったウルトラマン」と変えさせてもらえないかという相談である。
 当然円谷プロはダメだと言うだろう。ダメもとでお願いに行きたい。企画趣旨は私が話すから、一緒に円谷プロに同行してもらえないかとお願いした。私たちは成城の円谷プロにお願いに行った。
 円谷プロはOKしてくれた。「いいですか、今回だけですよ。今回だけ」と微笑みながら念を押された。「帰ってきちゃったウルトラマン」はイベント当日のその日限定。そのタイトルの露出する看板は中山競馬場内限定、チラシも地域と場内限定である。
 そして私たちのイベント提案は決定をもらった。
 
 当日来場した親子がイベントの案内看板の前で立ち止まった。子どもが指差した。「パパあれ! 『帰ってきちゃった』だって!」「ほんとだ」と父親が笑った。「これ見たい!」「うん、見よう」
 みんな看板を指差して笑う。にこにこする。「見ようよ」「見たい」と言う。
 馬場内子どもの広場の特設ステージ前の客席はすぐに一杯になり、立ち見が後ろまで広がった。私がそれまで競馬場でやったキャラクターショーでは、一番人が集まったのではなかろうか。みんな始まる前からニコニコしている。
 出演者の方たちが驚きの声を上げた。「すごい、ずいぶん集まりましたね」
ショーが始まると、司会のお姉さんがいつもよりハイテンションになっていた。悪漢が二、三人登場し、「おい、まずいぞ。ウルトラマンが帰ったきちゃった。」…客席が笑いで沸いた。キャラクターショーの登場人物の声も、効果音も音楽も録音済みのものである。しかし司会のお姉さんと、二、三の登場人物はマイクを使う(あるいは上手もしくは下手の袖で使う)。この方たちが台本にないアドリブをどんどん繰り出して客席を沸かす。
「帰ってきたウルトラマン」を「帰ってきちゃったウルトラマン」と、たった一文字変えただけで、子どもたちが喜び、つられて親たちも笑う。客席が沸き、出演者が愉快がり、パッケージ化されたショーを超えたのだ。そしてそれらが大いに受けたのである。
 イベント企画は、たった一文字の工夫で、変わるのである。

                                                                

イベントは物語をつくること

2016年09月21日 | エッセイ
         

 また、だいぶ以前のイベント企画の話である。中山競馬場のオールカマーの日の企画提案であったか。広告代理店の各社が中山競馬場の会議室に集められた。中山競馬場の庶務課の担当者がイベント提案に関するオリエンシートを配布し、説明をはじめた。
 期日、オールカマー当日の場イベント、予算などである。さらに「必ず実施していただきたいものは、千葉県の物産展、あとは各社の提案にお任せする。ただし、今まで中山競馬場で実施していないもの、やっていないアイテム、さらに中央競馬(JRA)のどの場でも実施していないアイテム、また地方競馬でも実施していないもの、本邦初のものをご提案ください…」
 居合わせたオリエン参加者は思わず全員顔をあげ、担当者の顔を見、また互いの顔を見合った。
 H堂の方が手を挙げて質問した。「これまで中山ではどんなアイテムをやられたのですか?」
「みなさんご存知のとおり、馬場内こどもの広場にフワフワなどの大型遊具、フワフワ滑り台、ミニSLや変わった面白自転車、おもしろ乗り物、キャラクターショー、歌のお兄さん・お姉さんのショー、車載型移動遊園地の回転木馬、海賊船とか…」
 D社の方も手を挙げた。「貴場と、他場でやったイベントの資料、イベントアイテムなどリストがあったらいただけないでしょうか?」
「わかりました。それでは今日中に各社にリストをファックスいたしましょう」
 会議室を出た各社はそれぞれ固まって廊下を歩いた。ぼそぼそと囁く声もする。事務所の外に出ると各社口々に言った。「もうみんなやり尽くされている。これは無理だね。」「どうします?」「本邦初のものか…」「まいったね」「今までやっていないものか」… 
 H堂の担当者が苦笑しながら言った。「もちろんプレゼンは参加するけど、うちは今回取れなくてもいいや」
 その時すでに何を提案すればいいか、私の中では決まっていた。しかし、それを口に出すのはギリギリまで控えることにした。

 競馬会のイベントに関して、私の事務所はTI社のパートナーとして組ませていただいていた。帰りの電車の中で尋ねられた。「フワフワって何種類ぐらいあるの? まだやっていない本邦初の遊具とかの情報ある? 車載型の移動遊園地で新しいやつはあるの? 予算的に無理か…」
 そして今後の会議や、進行と日程、どういう企画にするか等を打ち合わせた。
 案の定、中山競馬場から送られてきたファックスのリストを見れば、もう実施されていないイベントアイテムは無いのであった。私は毎日のようにTI社に出かけ会議を重ねたが、良案は全く出ず、いたずらに日が経つばかりであった。
 私はギリギリまで腹の中に決めたアイデアを言わなかった。私が会議に出すのはダミー案である。無論けなされる、反対される。すでに千葉県の物産(市)展に関しては、JA等に協力していただく裏は取っていた。また腹案のアイテムに関しても全て仮押さえをした。
 手詰まりから、とうとうTI社の担当者たちが言った。「H堂もD社もお手上げみたい。もう取れなくてもいいって言ってたよ。うちも今回取れなくてもいいや。もう時間が二日しかない。企画内容は全部あんたに任せるから、いちおう企画書作って。もう任せる!…」
 実はその言葉を待っていたのだ。早く提示すると反対されるからである。
「すみません、実はもう大体の企画はまとまっています」
「ええっ〜。どんなの?」
「今までやったものを全部やる!」
「ええ〜」
「と言うか、提案するアイテムは、すでに中山競馬場でも他場でも、過去にやったもの。それをあえて出す。フワフワ遊具、歌のお兄さん、キャラクターショー、ミニSL……」
「え〜…まあ、取るつもりないからいいけど…」
「今回、私たちはこれらのアイテムで、楽しげな物語(ストーリー)を提案しましょう」
「??」
「物語をつくりましょう」
 アイテムのひとつひとつには物語(ストーリー)がない。だから、それらをつなぐ物語をつくるのだ。

 当時、中央競馬会(JRA)にはシンボルキャラクターの「ターフィー」は生まれておらず、各場が可愛いシンボルキャラクターの絵をつくり、それを塗り絵やシール、ワッペンにしていた。中山競馬場は最も熱心で進んでおり、そのキャラクターを「ナッキー」と名付け、子どもたちに配布するワッペン、スケッチブックやキャンデーに反映していた。

 馬場内こどもの広場に「ナッキー共和国」をつくりました。競馬場の門の所で来場の子どもたちに「パスポート」を配布します。失くさないよう、それを首からかけてくださいね。パスポートには「ナッキー憲章」が書かれているので、みんなよく読んでね。「みんな仲良く遊ぶこと。遊具やSLに乗るときは整列しよう…」等です。みんなナッキー憲章を守ってね。またパスポートといっしょに、ナッキー共和国の地図(イベントアイテムやスケジュールが入ったチラシ)ももらってね。
 馬場内こどもの広場に行くにはトンネルを通らなければなりません。そのトンネルの入り口にナッキー共和国のゲートがあって、「入国」のためにはパスポートを提示してもらいます。そこでナッキースタンプを捺すよ。そこをスルーしてしまうと密入国となり、「国境警備隊」のスタッフのお兄さん、お姉さんに捕まります。でも改めてパスポートにスタンプを捺すよ。もし競馬場に入ったところでパスポートをもらっていない場合は、国境警備隊のお兄さん、お姉さんが渡してくれます。
 ナッキー共和国の初代大統領は、テレビでおなじみの「歌のお兄さん」です。歌のお兄さんによる「ナッキー共和国の建国宣言」もあるよ。
 さてナッキー共和国は三つの州があります。ひとつはフワフワ州で、巨大なペンギンが棲息しています。またネッシーのようなフワフワ怪獣の目撃例がたくさん寄せられています。みんな探しに行ってください。そこで遊んだらパスポートに「ナッキースタンプ」を捺してもらってね。
 もうひとつの州はヒーロー州で、ヒーローが登場するシアターがあります。ここでヒーローショーや大統領の歌のお兄さんの建国宣言と、楽しいコンサートとクイズ&ゲーム大会があります。歌の得意な子にはステージにも上がってもらって「のど自慢」もやろうかな。ここでもナッキースタンプを捺そうね。
 三つ目の州はワクワク州で、ここにナッキー共和国の首都があります。首都の名前は「バザール市(シティ)」です。ここにもナッキースタンプを捺すコーナーがあります。ナッキースタンプの欄が全部埋まると「ナッキーのスケッチブック」と「ナッキーキャンデー」をプレゼントするよ。
 バザール市では千葉県の物産展が開かれ、お母さんもピーナツや新鮮野菜などを安く買えますよ。また、けんちん汁やおでんや焼きそば、たこ焼きなどの美味しい屋台が並んでいます(これらの売り上げの一部は交通遺児育英会に贈られます)。
 このワクワク州の駅から「ナッキー鉄道」のミニSL「ナッキー号」が出て、フワフワ州やヒーロー州を回っています。それぞれの州にも駅があります。…他にも楽しい遊具や、ポニーの乗馬もありますよ。…

 企画書にはナッキー共和国の地図や、ナッキー鉄道路線図、パスポートとナッキー憲章の文なども付けて、指定された日時にプレゼンを行った。
 やがて、決定の通知が入った。「決定の理由はなんでしたか?」とTIの担当者が中山の担当者に尋ねたらしい。「いちばん楽しそうだったから」という返事だったという。これが「してやったり!」である。
 当日、中山競馬場の係長や課長までが、トランシーバーで現場のスタッフに伝えてきた。「え〜、国境警備隊、国境警備隊、どうぞ」「はい、国境警備隊です、どうぞ」「いまそちらに密入国と思われる子どもが二人向かいました。どうぞ」「はい、了解しました!」
 D社やH堂の担当者がイベントのモニターにやって来た。そしてニヤリと笑って「やられました」「なるほど、してやられたね!」