続いて新千歳空港より北へ12キロ 国道337号沿いの林の中にある「キウス周堤墓群」の紹介です。
現地案内板 (写真クリックで拡大します)
1901年(明治34年)に、昆虫・考古学者の河野広道氏より初めて発見され「チャシ」として報告されました。
後に鳥居龍蔵博士は、ツングース族の植民地の砦跡と唱えましたが、その後の研究でチャシ説は否定され縄文時代後期(約3,000年前)の集団墓地として認識される様になりました。
1979年に国指定の史跡となり2021年「北海道・北東北の縄文遺跡群」として世界文化遺産に登録されました。
後に鳥居龍蔵博士は、ツングース族の植民地の砦跡と唱えましたが、その後の研究でチャシ説は否定され縄文時代後期(約3,000年前)の集団墓地として認識される様になりました。
1979年に国指定の史跡となり2021年「北海道・北東北の縄文遺跡群」として世界文化遺産に登録されました。
周堤墓とは、地面に円形に竪穴を掘り、掘り上げた土を周囲に環状に積み上げることで大規模なドーナツ状の周堤を作り、その中に複数の墓を配置した大規模な集団墓です。キウス周堤墓群には9基の周堤墓が存在し、うち8基は現在でもその形状がわかる外径30メートル以上の大規模なものです。最大のものは外径83メートル、周堤上面から竪穴底面までの高低差は4.7メートル、積み上げられた土の量は推計で約3,000立方メートル近くに達します。
周堤墓には出入口と考えられる周堤の切れ目があり、決まった道を通って周堤墓に出入りしていたと考えられます。周堤墓内の土坑墓には赤色の顔料(ベンガラ)が撒かれるものが多く、また、墓標と思われる立石が埋められたものもあります。
(解説記事はこちらより引用)
ちなみに“キウス”とは、アイヌ語の「キ・ウシ」(茅がたくさんある場所)からつけられた名前だそうです。近くには沼がある事からこの辺りにはたくさんの茅が生えていたものと思われます。
遺跡を分断して国道があります。(現地案内図参照)計画上致し方ないことなのでしょうが古代集団墓地であった遺跡の上を横切る形となるわけです。
周囲に盛り土をされているのが良くわかります。縄文期の史跡がここまで現在でも見られることに驚きです。
我々が当時訪れた時は、遺跡内へ見学自由でしたが現在は遺跡保護のため立入りが禁止されている様です。
(画像:こちらより転載)
現在では、このように限られたエリアからの見学になっています。
古代遺産を後世に残して行くためにくれぐれもルールは遵守して参りましょう。
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(撮影:2004年8月)
お断り:2004年当時の情報となります。当時とは異なる事が想定されますので、訪れる際には、事前に調べて頂き記事は参考程度とお考え下さい。
【マップ】
なぜ寒い場所にと考えてしまいます。いったいどんな人たちが、また、どこから来たのか、アイヌとの関係はなどなど興味が湧きますね。
確かに冬の寒さが厳しい北の大地にこれだけの規模の集団墓を作っていたという事は、ムラ社会が成立していたわけで、彼らはどのような生活をしていたのか興味深いですね。
アイヌは先住民とか言われていますが、自分は大陸系からの移民だと思っています。縄文期は更にそれ以前ですからこの地に住み着いていた彼らこそ先住民と言えるでしょう。