ユニクロのINESのコレクションが気に入って、毎回オトナ買いにいそしんでいるのだが、ま、デザインが気に入ったとかいうことは半分で、半分はこのユニクロのプロジェクトというビジネスの"つくり"につられたい、だまされたいという一心もあって、のことだ。
パンフレットなんかもとてもよくできていて、ユニクロが販促的に言いたいことを、INESさんにまったくINESさんふうに言ってもらっていて、これじゃああまりにもコピーすぎるじゃないか、と私は思うのだけれども、その中にキラリとファッションというもののエッセンスもある。
そのようなセールストークコピーの中で、エッセンスは「違和」を起こしている。だからすぐ見つかる。
それはINESの第二弾のカタログの最終見開きのユニクロのデザインディレクターとの会話ふうの短い文章なのだが、おふたりのワードローブについての理解の片鱗が露出しているのだ。キーワードのひとつは「古着」。古着は、現在のこのユニクロの販促にまったく関係ない(将来的にはあるかもしれないけど)。古着がなぜ出てこなければならなかったかというと、このコレクションをワードローブとしてとらえ、たくさん買えば「素敵な」着こなしが「楽に」決まる、ということが言いたいからだ。
この「古着」は微妙に記号じゃない。古着が例に出されることによって、ワードローブの大切さが「説明できる」という考えがものすごく高度だからだ。これがファッションのエッセンスであり、極めて貴重な情報だ。ただ一方で、大半の消費者には、「古着」のくだりはほとんど意味を持たないだろう。それを残したのは企業文化というべきである。
さて、ワードローブというコンセプトを、私ははるか昔、アンヌモネというアパレルから教わった。そのときに抱いた強い印象を今でも覚えている。理由は簡単だ、それはボキャブラリーのアナロジーだからだ。
ワードローブを持っている、その全体像を持っているということが、いかに毎日着る服というものに影響を与えるのかということが、このユニクロの対談のおかげか、ほんの少しわかりはじめているようだ。それは記憶に似ている(そりゃそうだ、ボキャブラリなんだから)。記憶を持っているからこそ、選んで、組み合わせることができるのだ(そのようにして文章をつくるのだ)。
ウェブの時代になって、記憶は変わった。しかしワードローブは頑強にデジタル化しない。ユニクロはオンラインで簡単に買えるが、いったん自分のワードローブに加わったものは、へたしたら仕舞い込んだが最後、さっぱり忘れてしまうかもしれない。しかもそいつは「検索」できない。あったはずなんだけど、買ったはずなんだけどといってもどうにもならない。
こうなると、ワードローブを「持っている」からといって、着たいと思ったときにすぐ着られるというわけではないことは、明白だ。速攻でアマゾンで注文してお急ぎ便で送ってもらったほうが速いかもしれないくらいだ。しかし、依然としてワードローブは、私たちにとって「重要」だ。私たちはワードローブという「記憶」から、着こなしを「引きだす」のだ。まずはワードローブがなければ選び、組み合わせるアイデアは浮かばない。
やれやれ。私がファッションについて「語る」なんて。いや、これ、ボキャブラリーの話なんですってば。
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