
そもそもはといえば、私はゴダイゴが好きなのである。いや、われわれ世代のピアノ習ってる系の女のコたちはみんなゴダイゴが好きだったじゃないか、と夫なんぞは言いそうだけれども。ま、確かにそういう子はいた。ミッキー吉野がいるからね。
確かにミッキー吉野は、私にとってもリチャード・ティーを知る前の最大のキーボード・アイドルだったかもしれない。おっとその前にスティービ-・ワンダーだった。ミッキー吉野、スティービー・ワンダー、ドクター・ジョン、セロニアス・モンク、キース、ハンコック、リチャード・ティー……。でも私がゴダイゴが好きなのは、そのバンド演奏全体が持つ、いやバンド演奏にのったタケカワユキヒデの歌が持つ、何とも呼び得ぬ「ゆれ」のようなものに惹かれるからだ。その魅力に、まんまとひっかかってしまうのであって、曲がいいとか、演奏がいいとかいった分析的な理由ではない。
というわけでのっけから相当脱線しているのだけれども、そのゴダイゴを最近ヒビキがYoutubeでよく聴いていて、「そのーくにーの、名はガンダーラ」とつい、それぞれに口をついてしまうので、つい先日、夫が
「ゴダイゴ禁止」
とゴダイゴ禁止令を発布したところ(笑)。ついでに
「これさ、西遊記のテーマソングだったんだよ。西遊記って知ってる?」
というから、
「なーに言っちゃってんの。ヒビキがM先生のときに、小学校の発表会で演ったじゃない」と私。
「そうだよ」とヒビキ。
「みんみん君が孫悟空やって」と私。
と、そこでヒビキが、こないだのボーリング大会でM先生がいらしたとき、M先生がこの学年で一番印象に残っているのが、(学校行事の)バスの中で、その発表会の歌を覚えるために、みんなで歌ったこと、って言ったじゃん──と、珍しく話始めた。というのも、
「おれもそれ一番憶えてるんだよ」
というのである。
「帰り、学校につくまでに全員が憶えてた」
そのことをよく憶えているんだと。
さまざまな学校の催しの「本番」へ向けて、M先生を中心に、クラスの、ヒビキの集中力はものすごかったから、そんなところでふいにシンクロしてしまうのは、とてももっともなことだと思われる。そして、そんなエピソードを聞くと、へええ、とやはり印象深い。
改めてM先生とは、ヒビキが1年と4年のときに担任くださった先生なのだが、やはり桜咲く新一年生の春、いろんな幼稚園・保育園から集まったアナーキーな39人を、びしーっと方向付けて、その後の「学校生活」の堅牢な基礎を築き上げてくださった方である。
さて、ここでやおら子どもはいろんな、思いがけないことをしたり、言ったりするという、前回のつづきに入るわけなのだけれども、そのM先生の最初の個人面談のとき、私は、学校生活の毎日に生起するさまざまなことが、この人の中に、いったい何十年ぶん蔵されているのだろうということに改めて気づき、打たれた。そこにすべてのリソースがある。そのことをしたたかに知らされた。
そして今、そんなことは当然このブログに書いただろうと思って探そうとして、一向に見つからない。人の行動と記憶は、相当にでたらめなものだ、と思い知っているところであります。
◆
「子どもっておもしろいわよね」
「子どもってそんなもんよ」
と、タフなお母さんたちは話す。しかし学校で起こることは、それだけではない。ひとりひとり異なる性格の、それぞれに家庭の異なる子たちが集まって、学校というまとまりの中で、そこにはそれなりにいろいろな思惑がある中で、さまざまな1回きりのプロジェクトがスタートし、マネージされ、そして最後は子どもたちの手によって成し遂げられる。そのような行事、そして授業のプログラム、日々の遊び時間、放課後、さらに日付のない、ただの毎日。
誰々君がこんなときにああした。ああした誰々君を見て、誰々がこう言った。オトナから見ると、おもしろいねえ、そう考えるんだねえ、ということはもうきりもなく、どこにでも生起する。しかし、その貴重な時間を捉えることこそが、黒板と日直と時間割表と水槽のある四角い空間の醍醐味に他なるまい。
そしてその体験のすべてが、先生たちのこころの中に、桜の花びらのように、幾重にも幾重にも、降り積もる。ふだんは滅多に姿を現さないが、あるときふと風の匂いのように思い出したり、なにかの場面で、ああそういえばと、突如と蘇ったりする。M先生は、その何十年ぶんもの記憶をサンタクロースのような大きな袋にどっさりと詰め込んで抱えている。そして慣れた手つきで、そんな記憶を取りだしたり、詰め替えたり、ここぞという場面で活かしたり……要するに、自由自在であった。そして、そんなにも熟達していながら、ベストを尽くすために、いつも模索していた。
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