神戸大学のボランティア団体が中心となって毎年「灘チャレンジ」という祭りがが開かれている。
『灘チャレンジ20年のあゆみ(下)』(発行:2015年1月17日、発行人:石原 舞帆、編集:灘チャレンジ20年のあゆみ企画チーム、表紙:河野莱悠子)が出版されて、私がインタビューされた。その記録を杉本具亜子さんが、じょうずにまとめてくれた。また神戸大学農学部の先輩・四方行元さんが、OCRソフトを駆使してテキスト化してくだった。感謝します。そして、本ブログに
アップさせていただきます。
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神戸学生青年センター館長 飛田雄一さん
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一震災当時のご自身の状況を教えてください。
当時私は発達科学部の近く、鶴甲に住んでいました。めちゃくちゃ南北に揺れ
たけど、うちはミキサーがこけたぐらいで他はそんなに倒れませんでした。最初
は鶴甲が震源地だと思っていたけど、しばらくして学生センターに来たら開かな
いドアがあるし、事務所もぐちゃぐちゃだったし、隣の家の塀も倒れているし、
だからここが震源地だと思いました。一生懸命整理したりして、夕方に六甲道ま
で行ったら、そこが震度7だったから人間の想像力なんて知れてると思ったね。
このへんだったらJRのあたりが一番きつくて、家はめちゃくちゃだし、僕が大学
時代下宿していた篠原南町どれが家か分からない状況でした。一番ショックだっ
たのは、JR六甲道の上にある橋脚が2~3メートルずれてめりこんでいたこと。
折れているんじゃなくて地面に入り込んでいて、度胆を抜かれました。JRの西側
の木造の倒れたところは、そのときすでに牛乳瓶に花が入れてあって、地域で何
人か死んだ人もいましたね。
当時有機農業のグループと関係があって、そのグループが福知山の市島町のあ
たりからおにがりと水を持って来てくれたので、学生センターに逃げ込んで来た
人と一緒に食べたりしました。
留学生専門の避難所にしようという話をつけてから、留学生がどんどん来だし
たんですよ。お金がいるから、お金を集めて留学生たちに渡そうということにな
って、全壊半壊の被災証明書を持ってきたらその場で3万円渡していました。最
初は集まるお金より渡すお金の方が早かったから最大で100万円ぐらい立て替えて
いましたね。留学生と日本語学校の就学生がいたけど、何人来るか分からなかっ
たので、とりあえず留学生だけを対象に始めたんです。だんだんお金も集まって
きたので就学生にも渡すようになりました。最終的に、767人に2301万円渡すこと
ができました。これが当時のうちのメインの取り組みです。
あと障害者を助けるボランティア団体がここを拠点にして入浴サービスをした
り、アマチュア目線で物資を運ぶ手配をしたり、オートバイ隊をやったりするグ
ループがここに事務所を置かせてほしいということだったのでマンションの上に
無線アンテナを建てたり、地震のあとはめちゃくちゃ賑やかでした。
25人分ぐらいのスペースが確保できて、留学生も4月の末ぐらいまでけっこう
な数がここにいました。留学生が調整をして自治会もできました。
それからKDDIに連絡して国際電話を夕ダにさせました。留学生はとても喜んだ
よ。ああいうときは母国語でいろいろしゃべることが大事。
自転車やオートバイなど物資もけっこう届きました。あるときキムチラーメン
が部屋の3分の2を埋めるくらいいっぱい届いて、ここに来た人たちに箱単位で
持って帰らせました。
水が来たのが2月4日、ガスが来たのが3月5日でした。その間給水車が来た
ら溜めてた水で留学生と一緒にトイレを掃除して水を汲みに行ったりもしていま
した。留学生が新しい部屋を見つけたら餃子パーティーして送り出したり、わり
と元気な2~3か月でした。
一震災を機に変わったことはありますか?
「いろいろ調査をしたら、外国人を一番助けたのはおたくのようです」と日本
テックという会社が1000万円くれたんです。そこから奨学金をスタートしました。
やがて資金が足りなくなったので、古本市を始めたところ、それが当たって現在
に至っています。古本市をしていなかったら奨学金はすでになくなっているでし
ょうね。地震は大変なこともあったけど、わりといいこともあったのかなと思い
ます。
それと、地震の1年で10年分ぐらいの人に会ったと思っています。神戸市内に
こんな人がいたのかと、今まで会ったことのない人とたくさん出会いました。
-もしまた震災が起こつたらどうしますか?
ここは組織としては小回りが効く方で、例えば地震のときも理事会の承認を取
って留学生の避難所にするとかそういったことに対してうるさくないところだっ
たので、臨機応変にできました。地震のおかげで状況適応能力がついた気がしま
す。もう一回起きたら、もっとフレキシブルにいろんなことをするんじゃないか
と思いますね。
当時ここがそれなりの事務所で、専従の職員が4人いたことは大きかったです。
朝9時から夜10時まで誰かいるから電話をすればつながるし、遠方で奨学金を受
け取りに行けないという人のところには届けに行ったり。事務所を構えていろい
ろな采配をしていました。常設の事務所がなくて、常勤の職員がいない団体はし
んどかったと思います。
一留学生の方はどれくらい日本語を話せるのですか?
普通留学生は半年ぐらい日本語専門学校に入って、そこを卒業してから来るの
でほとんど問題なく話せます。地震のとき、留学生は日本語ができるからよかっ
たんです。でも旦那さんが留学生で、奥さんは日本に来たばっかりという夫婦で、
旦那さんは昼間用事でいなくて、日本語のできない奥さんが残されて、弁当の配
給の時間も分からず、ここに逃げてきたという人もいました。言葉の壁はあるな
と思いました。
一留学生だからという理由で福祉的なサービスが受けられなかつたということは
ありましたか?
それはありませんでした。でも外国人全般が問題なかったかというと、そうで
もないと思います。クラッシュ症候群による人工透析の治療費を払えないオーバー
ステイの人や保険に入っていない外国人がいたり、震災によって世帯主が亡くな
った場合、災害弔慰金として250万円もらえたんですが、留学生の奥さんが観
光ビザで来ていたためにそれがもらえなかったいうこともありました。
でも震災のときは、一般的には助け合いの精神を発揮していてよかったんじゃ
ないかと思います。
一震災後もわりと元気な2~3か月だったというお話でしたが、その中でもつら
かったことはありましたか?
そんなに覚えていないですね。家が壊れるか壊れないかは雲泥の差だと思いま
す。私は家は壊れていないから家のことを何もしなくてよかったし、けっこう忙
しかったのでそういう思い出はほとんどないです。強いて言うなら、私の家は金
魚鉢すら落ちなくて、そのことは半年ぐらい誰にも言えなかったのはつらかった
かな。
―大学の被災の様子を教えていただけますか?
農学部はけっこう揺れたみたいですが、揺れなかった学部もあるそうです。農
学部の先生は研究室がぐちゃぐちゃになってドアが開かなかったと言っていまし
た。大学も鶴甲と同じで被害はけっこう少ない方だと思います。
-もしまた同じような震災が起こった時にはもっとフレキシブルにいろいろなこ
とをするとおっしやっていましたが、今考えてみてこういうことができるかなと
いうことはありますか?そのときのニーズなどによって行勤は変わってくると思い
ますが。
初めてのことだったので、当時は災害が起こってどういう法律で何をするかな
ど分からりませんでした。知っていたらもっと行政とそれなりにやり合って、上
手くやれていたかもしれないなと思います。何が足りなくてどうしたいのか、何
を援助してほしいのか。そういうことを行政と話し合っていかないといけない。
神戸はひどい目に遭ったんだから、そういうことを教訓にして整理していかない
といけないと思います。
飛田雄一(ひだゆういち)
阪急六甲め近くにある神戸学生青年センターの館長。灘チャレンジには第1回か
ら参加してくださっており、会計監査もしていただいている。
(文責:杉本具亜子)
『灘チャレンジ20年のあゆみ(下)』(発行:2015年1月17日、発行人:石原 舞帆、編集:灘チャレンジ20年のあゆみ企画チーム、表紙:河野莱悠子)が出版されて、私がインタビューされた。その記録を杉本具亜子さんが、じょうずにまとめてくれた。また神戸大学農学部の先輩・四方行元さんが、OCRソフトを駆使してテキスト化してくだった。感謝します。そして、本ブログに
アップさせていただきます。
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神戸学生青年センター館長 飛田雄一さん
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一震災当時のご自身の状況を教えてください。
当時私は発達科学部の近く、鶴甲に住んでいました。めちゃくちゃ南北に揺れ
たけど、うちはミキサーがこけたぐらいで他はそんなに倒れませんでした。最初
は鶴甲が震源地だと思っていたけど、しばらくして学生センターに来たら開かな
いドアがあるし、事務所もぐちゃぐちゃだったし、隣の家の塀も倒れているし、
だからここが震源地だと思いました。一生懸命整理したりして、夕方に六甲道ま
で行ったら、そこが震度7だったから人間の想像力なんて知れてると思ったね。
このへんだったらJRのあたりが一番きつくて、家はめちゃくちゃだし、僕が大学
時代下宿していた篠原南町どれが家か分からない状況でした。一番ショックだっ
たのは、JR六甲道の上にある橋脚が2~3メートルずれてめりこんでいたこと。
折れているんじゃなくて地面に入り込んでいて、度胆を抜かれました。JRの西側
の木造の倒れたところは、そのときすでに牛乳瓶に花が入れてあって、地域で何
人か死んだ人もいましたね。
当時有機農業のグループと関係があって、そのグループが福知山の市島町のあ
たりからおにがりと水を持って来てくれたので、学生センターに逃げ込んで来た
人と一緒に食べたりしました。
留学生専門の避難所にしようという話をつけてから、留学生がどんどん来だし
たんですよ。お金がいるから、お金を集めて留学生たちに渡そうということにな
って、全壊半壊の被災証明書を持ってきたらその場で3万円渡していました。最
初は集まるお金より渡すお金の方が早かったから最大で100万円ぐらい立て替えて
いましたね。留学生と日本語学校の就学生がいたけど、何人来るか分からなかっ
たので、とりあえず留学生だけを対象に始めたんです。だんだんお金も集まって
きたので就学生にも渡すようになりました。最終的に、767人に2301万円渡すこと
ができました。これが当時のうちのメインの取り組みです。
あと障害者を助けるボランティア団体がここを拠点にして入浴サービスをした
り、アマチュア目線で物資を運ぶ手配をしたり、オートバイ隊をやったりするグ
ループがここに事務所を置かせてほしいということだったのでマンションの上に
無線アンテナを建てたり、地震のあとはめちゃくちゃ賑やかでした。
25人分ぐらいのスペースが確保できて、留学生も4月の末ぐらいまでけっこう
な数がここにいました。留学生が調整をして自治会もできました。
それからKDDIに連絡して国際電話を夕ダにさせました。留学生はとても喜んだ
よ。ああいうときは母国語でいろいろしゃべることが大事。
自転車やオートバイなど物資もけっこう届きました。あるときキムチラーメン
が部屋の3分の2を埋めるくらいいっぱい届いて、ここに来た人たちに箱単位で
持って帰らせました。
水が来たのが2月4日、ガスが来たのが3月5日でした。その間給水車が来た
ら溜めてた水で留学生と一緒にトイレを掃除して水を汲みに行ったりもしていま
した。留学生が新しい部屋を見つけたら餃子パーティーして送り出したり、わり
と元気な2~3か月でした。
一震災を機に変わったことはありますか?
「いろいろ調査をしたら、外国人を一番助けたのはおたくのようです」と日本
テックという会社が1000万円くれたんです。そこから奨学金をスタートしました。
やがて資金が足りなくなったので、古本市を始めたところ、それが当たって現在
に至っています。古本市をしていなかったら奨学金はすでになくなっているでし
ょうね。地震は大変なこともあったけど、わりといいこともあったのかなと思い
ます。
それと、地震の1年で10年分ぐらいの人に会ったと思っています。神戸市内に
こんな人がいたのかと、今まで会ったことのない人とたくさん出会いました。
-もしまた震災が起こつたらどうしますか?
ここは組織としては小回りが効く方で、例えば地震のときも理事会の承認を取
って留学生の避難所にするとかそういったことに対してうるさくないところだっ
たので、臨機応変にできました。地震のおかげで状況適応能力がついた気がしま
す。もう一回起きたら、もっとフレキシブルにいろんなことをするんじゃないか
と思いますね。
当時ここがそれなりの事務所で、専従の職員が4人いたことは大きかったです。
朝9時から夜10時まで誰かいるから電話をすればつながるし、遠方で奨学金を受
け取りに行けないという人のところには届けに行ったり。事務所を構えていろい
ろな采配をしていました。常設の事務所がなくて、常勤の職員がいない団体はし
んどかったと思います。
一留学生の方はどれくらい日本語を話せるのですか?
普通留学生は半年ぐらい日本語専門学校に入って、そこを卒業してから来るの
でほとんど問題なく話せます。地震のとき、留学生は日本語ができるからよかっ
たんです。でも旦那さんが留学生で、奥さんは日本に来たばっかりという夫婦で、
旦那さんは昼間用事でいなくて、日本語のできない奥さんが残されて、弁当の配
給の時間も分からず、ここに逃げてきたという人もいました。言葉の壁はあるな
と思いました。
一留学生だからという理由で福祉的なサービスが受けられなかつたということは
ありましたか?
それはありませんでした。でも外国人全般が問題なかったかというと、そうで
もないと思います。クラッシュ症候群による人工透析の治療費を払えないオーバー
ステイの人や保険に入っていない外国人がいたり、震災によって世帯主が亡くな
った場合、災害弔慰金として250万円もらえたんですが、留学生の奥さんが観
光ビザで来ていたためにそれがもらえなかったいうこともありました。
でも震災のときは、一般的には助け合いの精神を発揮していてよかったんじゃ
ないかと思います。
一震災後もわりと元気な2~3か月だったというお話でしたが、その中でもつら
かったことはありましたか?
そんなに覚えていないですね。家が壊れるか壊れないかは雲泥の差だと思いま
す。私は家は壊れていないから家のことを何もしなくてよかったし、けっこう忙
しかったのでそういう思い出はほとんどないです。強いて言うなら、私の家は金
魚鉢すら落ちなくて、そのことは半年ぐらい誰にも言えなかったのはつらかった
かな。
―大学の被災の様子を教えていただけますか?
農学部はけっこう揺れたみたいですが、揺れなかった学部もあるそうです。農
学部の先生は研究室がぐちゃぐちゃになってドアが開かなかったと言っていまし
た。大学も鶴甲と同じで被害はけっこう少ない方だと思います。
-もしまた同じような震災が起こった時にはもっとフレキシブルにいろいろなこ
とをするとおっしやっていましたが、今考えてみてこういうことができるかなと
いうことはありますか?そのときのニーズなどによって行勤は変わってくると思い
ますが。
初めてのことだったので、当時は災害が起こってどういう法律で何をするかな
ど分からりませんでした。知っていたらもっと行政とそれなりにやり合って、上
手くやれていたかもしれないなと思います。何が足りなくてどうしたいのか、何
を援助してほしいのか。そういうことを行政と話し合っていかないといけない。
神戸はひどい目に遭ったんだから、そういうことを教訓にして整理していかない
といけないと思います。
飛田雄一(ひだゆういち)
阪急六甲め近くにある神戸学生青年センターの館長。灘チャレンジには第1回か
ら参加してくださっており、会計監査もしていただいている。
(文責:杉本具亜子)
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