ゆうさんの自転車/オカリナ・ブログ

飛田雄一の個人的なブログ、オカリナ、登山、自転車のことなどを書こうかな・・・

ツアコン生活<3>連載2

2007-05-11 07:35:18 | ツアコン生活
<リード>これは2005年10月、京都の北白川教会で開かれた基督(キリストと読む)共助会主催の講演会で私がお話したもの。『共助』599号(2006年3月)に掲載された。<リード終わり>

「アジアの中の日本―韓国・北朝鮮・中国への旅から-」(2)飛田雄一

●阪神大震災と南京絵画展
 次に中国の旅のお話をしたいと思います。
 中国への旅のきっかけは1995年の阪神淡路大震災です。よく神戸の私たちは大震災のときはその一年間で10年分ぐらいの人に会ったと言いましたですけども、新しい中国人と出会う機会があり、その関係で1996年のゴールデンウイークの時に展覧会をすることになりました。この話は95年の地震の年の秋に話が出てきたのですが、ニューヨークの中国人の画家が南京大虐殺をテーマに描いた20点ほどの絵の展覧会を地震で大変なときだとうけれども是非神戸で開いて欲しいということでした。
 南京大虐殺をテーマにしたものですから、結構きつい絵もありました。日本人がゴルフしているところに、しゃれこうべ、頭蓋骨があったり、南京大虐殺有名な写真の構図をつかって描いたものとかでした。1997年が1937年の南京大虐殺の60周年になるので、それの前年にしたいということだったのです。
 迷いましたがみんなで相談をして開催することにしました。学生センターを事務局にして当時の神戸YWCA会館前にある王子ギャラリーを会場にしました。これは昔の関学の建物でいいとてもいいギャラリーです。講演会は、YWCA会館で開きました。展覧会では中国人画家の絵だけではなくて、丸木位里・俊夫妻の描いた「南京大虐殺の図」も持ってきたのです。中国人の書いた絵ももちろん大事ですけども、日本人の書いた絵もちょっとお金はかかるけど一緒にやろう、ということになりました。丸木位理さんの南京大虐殺の絵は写真とかで皆ご覧になるでしょうが、とても大きいものです。幅8メートル、高さ4メートルです。有料の展覧会でしたが2千人を越える人が見にきてくれました。
●南京大虐殺60周年・1997年
 展覧会が終わってから反省会を開いたのですが、その反省会も盛り上がってこの絵画展実行委員会を解散するのはもったいないということになったんです。この時の結論は、少なくとも来年の8月、南京大虐殺60周年の97年8月には侵華日軍南京大虐殺遇難同胞紀念館に行こうということでした。そして記念館に行くために「神戸・南京をむすぶ会」というのを作ろうということになったのです。若いメンバーも含まれるその南京への旅も28名の参加者で実現することができました。
 僕は、南京には全く初めて行ったし、南京大虐殺記念館も初めてでしたから、大変強烈なものでした。それ以前に何回か、神戸で展覧会の時もそうだしその前にも幸存者証言集会したことあるんですけども、神戸で聞く証言も迫力ありますが、南京で聞く証言はまた別の迫力があるんです。我々はいくつかの南京市内の虐殺現場をフィールドワークした後、記念館へ行って話し聞くのです。そしたら本当に現実感があるものですね。
 私たちはその後もほぼ毎年行きますけども、南京で南京大虐殺の跡地をめぐるフィールドワーク、そして毎年行くから南京記念館の方も新しい証言者を一生懸命捜して証言してくださるのですけども、そういう証言を聞くという旅をします。
 それから南京ともう1ヶ所の日本軍に関係のある所にいくことにしています。日本軍が攻撃したところ、占領したところはたくさんあります。
●パールバック『大地』の世界
 1997年の第一回の訪問の時は、淮南という所に行きました。行きはバスで8時間ぐらいかかりました。帰りは飛行機で帰りました。淮南というのは、パールバック『大地』の舞台となったところです。淮南というのは、南京から車で8時間もかかるのですが、1937年12月の南京大虐殺の翌年の8月頃にはもう日本軍が占領しています。ものすごい進軍のスピードですね。我々はバスで結構迷いながら行ったのですが、やっとたどり着いた炭鉱は現在も操業中ですが、南京占領後そんなに奥地まで進軍しているのです。もちろん進軍には中国人の抵抗が強かったと思いますが、ものすごい距離であることはバスの長旅で体験することができました。
 淮南はそれほど観光地でもないし、戦争遺跡や記念館なども整備されていません。現在中国各地に記念館がありますが、そもそも中国の戦争遺跡が整備されたのが80年代だそうです。何で整備されたかというと、日本の1982年の教科書事件が原因だというのです。南京大虐殺記念館もそうです。中国では日本軍の蛮行は常識となっていますがから、万人鉱記念館とかそんなになかったと言います。82年に例の教科書事件で侵略を進出と書き換えたとか、いうので中国側から批判されましたが、あの頃から歴史記念館を作らなくてはならないという雰囲気が出たみたいですね。だから南京の記念館もできたのは85年です。私たちはその後もいくつかの史跡を回りますけど、記念の石碑の設立年を見ると85年とかそういう時代のものが多いのです。
 淮南は田舎でもありますし、立派な記念館はありませんでした。ここでショックだったのは建設途中でお金がなくなったからとかいって枠だけ囲んだような虐殺記念館があったのです。万人鉱です。南京記念館は一定整備して遺骨が展示されています。遺骨が一部並べ直したりされていて、今ではそれがよくなかったといわれていますけども、淮南はそのまま置いてあるのです。万人鉱は遺体が放り込まれたところですから、幅3メートル位の穴を掘って、深さも3mぐらいあるのでしょうか、長さが数メートルのものを何本か掘ってそこに遺体を埋めるのですね。
 淮南は建設途中の記念館ですから、そこが掘り起こしたそのままの状態で遺骨が重なっているのです。近くまで行っていいのですか、と言ったら別にいいですよということで、近くまで行ったのです。工事中ですから遺骨の上に40cm幅ぐらいの板を渡しているのです。板を渡しているのでそこを渡ったりして、まさに掘り出したそのままの遺骨を見ました。日本軍がああいう奥地まで攻めとったのに驚きましたし、遺骨がすぐ私の目の前にある万人鉱にびっくりしました。
●露天掘りの撫順炭鉱
 2回目の訪中は1998年に南京とともに無順を訪ねました。大きな露天掘りの無順の炭鉱があるところですね。露天の炭鉱をのぞいてみたかったのですね。ところが実際に行ってみたら、覗く世界じゃないのですね。露天堀の穴は狭い方向で3キロ半(?)、長い方で11キロなのです。さすが大きいなーと思ったら、これは楕円形の短い方だと言うのですよ。向う岸が見えないのです。穴の中を列車が渦巻状に上がっていくのです。向こう岸がかすかに見えて、南の10キロなんかまったく何にも見えない、そういうところですね。日本はこのようなところで多くの中国人労働者を働かせ犠牲者も多く出たのです。
●黄土高原の太原を訪ねて
 3回目の99年には、南京のあとに太原・大同を訪ねました。この時の旅はあとで考えるとコース・日程とも無謀でしたね。最後は北京でしたが、夜行列車に2回、昼の長時間の列車に一回乗ったのです。メンバーは気をつけて生水は飲まないようにしていたはずですが、この時18人行って16人がおなか壊したりなんかして倒れました。4人が点滴受けて、そのうち一人は入院しました。どういうわけか私ともう一名が無事でしたが、北京での最後の夜の中国側の北京ダックのご馳走はほとんどの人が食べることができなかったほどです。本当に残念でした。
 なぜ大原まで行ったかというと万愛花さんがおられたからです。万さんは、抗日活動家でしたが当時日本軍に拉致されて警備所かなんかに拘束されて、強姦された人です。彼女は「慰安婦」という言葉を拒否している方で、日本軍に拉致・監禁されたということを訴えて裁判をされています。東京での裁判ですが、前の年に彼女に神戸に来ていただいて神戸で証言集会を開きました。その話を聞いたら、「来年は大原に行こう」という話になったのです。
 太原は思っていた以上に田舎で、日本軍がこんなところまで侵攻してきたなというところです。日本軍は攻めて入って村を押えて高台を押えてその村を占領しました。そこの女性を何人か山の要塞のところに連行したのです。万さんらの裁判は山西省裁判といわれているものですが、1審の東京地裁で負けてしまいました。
●731部隊とハルビン
 次の年(2000年)は南京・ハルビンでした。731の現場に行きたいということでした。このハルビンにはもう一度行きたいと思っています。というのは、ハルビンは歴史記念館がありましが、そこは当時の日本領事館で、それがそのまま記念館になっているのです。とても立派な建物ですね。ちょうど2000年に中国に大水害があった時には、水害記念館みたいになっていました。そこを改修して、何年か後には本格的な抗日記念館にするということでした。地下の部屋に展示室がありましたが、抗日の運動家たちがこの建物で拷問を受けて殺されたりしていたところです。裏口があって死んでしまったら裏口から死体を運び出したということです。そこが整備されたら是非、もう一度訪ねたいと願っています。
 731部隊の場所はハルビンの郊外・平房にあります。車で1時間半ぐらいでしょうか。ほんとに大きな敷地です。その中には普通のマンションも建っているのです。ねずみの実験室というのもありました。世界遺産登録しようという事で、そのマンションを取り壊したりして復元する工事がすすめられています。世界遺産になると日本政府は嫌がるでしょうけど、そうなればおそらくアウシェビッツのような世界遺産になると思います。日本人はアウシェビッツに理解を示すほどには日本の加害行為に理解を示しませんが、加害の歴史を日本人の心に刻むためにも731が世界遺産に登録される必要があると思います。
 731部隊といえば有名な煙突がありますね。その煙突も大きいものです。その中に入れるのですが、入ると煙突の直径は4mか5mぐらいです。今は壁しか残っていませんけども、8月15日の後に爆破して帰ったので、建物は壊れているのです。でもあの煙突はりっぱ過ぎて壊れなかったそうです。阪神大震災の時も煙突は壊れましたが、一番壊れやすいはずのものがちゃんと建っているのです。よほど立派なコンクリートの煙突を作っているから残っていのです。煙突の横の壁だけが完璧に残っているので写真をとろうとしましたが、煙突があまり大きいのでよほどしゃがみこむか魚眼レンズでないと全体を写せない代物でした。
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