<リード>これは2005年10月、京都の北白川教会で開かれた基督(キリストと読む)共助会主催の講演会で私がお話したもの。『共助』599号(2006年3月)に掲載された。<リード終わり>
「アジアの中の日本―韓国・北朝鮮・中国への旅から-」(3)飛田雄一
●中国の友人ガイド
私たちの南京ツアーの時には最初の時から戴國偉さんという、留学経験はないけれどもよく日本語のできるガイドがずっとついてくれています。南京生まれ南京育ちの方です。時々は関西弁も使って案内してくれますが、毎年、ツアーが終わると新しい調査をして次の年には、新南京市内に新しい慰安所跡が見つかったとかというようにして案内してくれます。去年は写真集にちらっと写っていた南京神社の跡を探して私たちを案内してくれました。南京には今でも、新しい遺骨が発見されたりしたことを契機に祖も場所に新しい南京大虐殺の記念碑ができたりしますが、すぐに案内してくれます。
戴さんから3年目ぐらいに実は彼のおじいさんが日本軍に殺されているということを聞きました。これだけ仲いいのに、何年目かにそういうことを聞いたということがありました。彼は歴史のことが分っている人ですから、僕らいつも大体新しい南京の本が日本で出版されたら彼に持っていって渡すのですが、よく勉強をしています。
彼もガイドですから日本人に普通の観光ガイドもするのですよね。南京は古都ですから、観光地も沢山あるのです。そのガイドのときに南京大虐殺の話しをしたら怒りだす観光団が多いと言って心を痛めていました。できるだけやわらかく60数年前にこんなことがあったという話をしただけで、そんなこと聞きたくないと拒絶する日本人も多といいます。
●南京大虐殺への日本軍のふたつの道
2001年の時には戴さんの提案で上海から南京そして杭州に行くことにしました。
日本軍は南京を攻めるときに二つのコースで攻めているのです。長江(揚子江)沿いのコースと上海の西の方から観光地として有名な杭州の方からも攻めています。南京が陥落するとき長江沿いに攻めた部隊に対して、杭州から北上した部隊が南京の城壁から逃げ出す人を待ち構えて攻撃したので大惨事となったと言われています。このときのコースは川沿いのコースを蘇州に一泊して南京に行き、帰りは杭州のコースを南下しようという事で行きました。本多勝一も『南京への道』で、杭州湾上陸作戦の時の場所について書いています。なかなか分らなかたのですが、戴さんに一所懸命捜してもらってそこまで行きました。昔の写真見るとたぶんこの場所だとうというとこでした。そこには1947、8年に作った昔の石碑も残っていましたが、その解放直後に作られた石碑というのはセメントで作って彫っているだけですから、もう字が読めないとかそういう状態でした。
●日本軍の重慶無差別爆撃
2002年には南京フィールドワークののちに重慶を訪問しました。無差別爆撃のアメリカの専売特許ではなくて、日本もドイツもしています。重慶でも中国側のパートナーが重慶爆撃時の幸存者を捜してくださり、私たちは現地でその方のお話しを聞くことができました。多くの被害者がでた防空壕跡にも行きました。防空壕といっても9千人とか1万人が入るような防空壕ですね。そこでほとんどの方が亡くなったという有名なとこなんですけども、そういうところも見学しました。重慶は一部が三峡ダムの建設によって様相が変わると言われていますが、その前に訪問したかったということもあります。
重慶はすごい内陸ですが、そこの長江は一般的に平野が広がっているから水量も早さもそれ程じゃないと思ったのですけども、まったく違っていました。淀川なんか話にならないし、本当に濁流のような水がものすごい川幅で流れているのですよ。それを重慶から下流何十キロのところで堰止めてダムを作るんです。もう貯水が始まっています。重慶の役人こともなげに、115万人強制移動させる、町が何個か沈む、10年ぐらいの間で強制移住すると、言っていました。街をいくつかなくするのでその街の下水処理、消毒をしてから貯水が始まるわけですから、本当にたいへんなことだと思いました。有名な風光明媚な観光地もあるのですが、全部付け替えるのでしょう。重慶はすごく山の嶮しいとこですけど、市内に20万人の団地を作るんだとか、そんなことも言っていました。
●なぜ、旅順・大連か
翌年は南京、旅順、大連にいくことに決めていました。でも2003年はSARS事件が起こりました。我々の間でこういうときこそ行くべきだという説もあったのですけど、私としてはちょっとびびって中止にして、昨年2004年に行きました。
なぜ旅順・大連かということですが、うちにメンバーで加藤周一のファンがいて加藤周一が何年か前にその南京大虐殺の前に旅順大虐殺があったということ書いているんです。いまでも加藤周一が月一回ぐらい朝日新聞に書いているコーナーですが、それに旅順の事件のことがでてくるのです。日清戦争の時に、日本軍は朝鮮半島で色々悪い事していますが、その後中国遼東半島まで行って旅順で民間人虐殺事件を起こしているのですね。その時に国際監視団があって、その事件が英文ニュースで流れているのです。加藤周一はそういうことを紹介しながら、南京大虐殺事件と似ている、日本の起こした事件が世界には情報としてが流れていたけども、日本国内には流さずに隠した、それなりの責任追及をしなければならなかったので頬かむりした、この1894年の旅順事件からスタートして同じ構造の1937年の南京大虐殺に繋がっているのだと、そういう文章があるんです。それでどうしても旅順・大連に行きたいということで行きました。佐伯先生にはその帰りに大連でお会いしたのです。
●安重根と旅順監獄
旅順にはもうひとつ、伊藤博文を射殺した安重根が処刑された所として知られています。旅順はまだ「未解放区」、一般の外国人観光客をいれないところです。ですからその旅順刑務所等に入ることについて出発の直前まで中国側と交渉しました。中国は官僚社会ですから、許可が出なかったらガイドが勝手に記念館なんか連れて行ったら怒られるのです。旅順監獄跡も中国人が訪問するのに何の問題もありません。中国語では「教育基地」と言いましが外国人には解放されてないですね。最初は我々のパートナーである北京の友誼促進会から「飛田さんダメですよ」と言われて諦めていたのです。でも調べてみたら福岡の教職員組合が旅順監獄に入っているんですね。その記録を中国にファックスで送りました。日本人の団体で旅順監獄に入っている団体があるあるということは、入れるはずだと。それで最終的にはOKになって行きました。
そこには我々が聞いていたとおり安重根の部屋もそのまま残してありました。そこでいくつかの書を書いていますね。最近もいま仙台在住の日本人で旅順監獄で看守をしていた人がいましたが、その家から安重根が書いた額が出てきたという新聞記事がありました。中には硯らしきものが置いてありました。
処刑場もありましたが、そこには裏の出口があって、死体をそこから運び出したのです。また絞首刑にする場所に紐が3本ぶら下がっていたのです。どれだけ多く処刑したかということです。ソウルの西大門刑務所は当たり前ですけど一本の紐がぶらさがっているのですけども、旅順には3人を順番に処刑できるようになっていたのです。そして下のほうに木の甕が置いてあるのです。なんですかと聞くと、硬直する前にそこに入れるというのですね。そしたら死体が小さくなるというのですね。それでそのまま裏の墓地に埋めているというのです。それで最後の方は木がなりもったいないから底の抜け甕に入れたのですね。そして硬直してからそのまま死体だけを運んだそうです。もちろん刑務所内でも抵抗運動がありました。裁縫するための作業室で反乱が起こって、はさみを割って刀にし、それで監獄から脱走した事件があり、失敗して殺された人の革命烈士の記念碑もありました。このときの大連のお話はいたしませんが、大連も日本と関係の深いとこです。
「アジアの中の日本―韓国・北朝鮮・中国への旅から-」(3)飛田雄一
●中国の友人ガイド
私たちの南京ツアーの時には最初の時から戴國偉さんという、留学経験はないけれどもよく日本語のできるガイドがずっとついてくれています。南京生まれ南京育ちの方です。時々は関西弁も使って案内してくれますが、毎年、ツアーが終わると新しい調査をして次の年には、新南京市内に新しい慰安所跡が見つかったとかというようにして案内してくれます。去年は写真集にちらっと写っていた南京神社の跡を探して私たちを案内してくれました。南京には今でも、新しい遺骨が発見されたりしたことを契機に祖も場所に新しい南京大虐殺の記念碑ができたりしますが、すぐに案内してくれます。
戴さんから3年目ぐらいに実は彼のおじいさんが日本軍に殺されているということを聞きました。これだけ仲いいのに、何年目かにそういうことを聞いたということがありました。彼は歴史のことが分っている人ですから、僕らいつも大体新しい南京の本が日本で出版されたら彼に持っていって渡すのですが、よく勉強をしています。
彼もガイドですから日本人に普通の観光ガイドもするのですよね。南京は古都ですから、観光地も沢山あるのです。そのガイドのときに南京大虐殺の話しをしたら怒りだす観光団が多いと言って心を痛めていました。できるだけやわらかく60数年前にこんなことがあったという話をしただけで、そんなこと聞きたくないと拒絶する日本人も多といいます。
●南京大虐殺への日本軍のふたつの道
2001年の時には戴さんの提案で上海から南京そして杭州に行くことにしました。
日本軍は南京を攻めるときに二つのコースで攻めているのです。長江(揚子江)沿いのコースと上海の西の方から観光地として有名な杭州の方からも攻めています。南京が陥落するとき長江沿いに攻めた部隊に対して、杭州から北上した部隊が南京の城壁から逃げ出す人を待ち構えて攻撃したので大惨事となったと言われています。このときのコースは川沿いのコースを蘇州に一泊して南京に行き、帰りは杭州のコースを南下しようという事で行きました。本多勝一も『南京への道』で、杭州湾上陸作戦の時の場所について書いています。なかなか分らなかたのですが、戴さんに一所懸命捜してもらってそこまで行きました。昔の写真見るとたぶんこの場所だとうというとこでした。そこには1947、8年に作った昔の石碑も残っていましたが、その解放直後に作られた石碑というのはセメントで作って彫っているだけですから、もう字が読めないとかそういう状態でした。
●日本軍の重慶無差別爆撃
2002年には南京フィールドワークののちに重慶を訪問しました。無差別爆撃のアメリカの専売特許ではなくて、日本もドイツもしています。重慶でも中国側のパートナーが重慶爆撃時の幸存者を捜してくださり、私たちは現地でその方のお話しを聞くことができました。多くの被害者がでた防空壕跡にも行きました。防空壕といっても9千人とか1万人が入るような防空壕ですね。そこでほとんどの方が亡くなったという有名なとこなんですけども、そういうところも見学しました。重慶は一部が三峡ダムの建設によって様相が変わると言われていますが、その前に訪問したかったということもあります。
重慶はすごい内陸ですが、そこの長江は一般的に平野が広がっているから水量も早さもそれ程じゃないと思ったのですけども、まったく違っていました。淀川なんか話にならないし、本当に濁流のような水がものすごい川幅で流れているのですよ。それを重慶から下流何十キロのところで堰止めてダムを作るんです。もう貯水が始まっています。重慶の役人こともなげに、115万人強制移動させる、町が何個か沈む、10年ぐらいの間で強制移住すると、言っていました。街をいくつかなくするのでその街の下水処理、消毒をしてから貯水が始まるわけですから、本当にたいへんなことだと思いました。有名な風光明媚な観光地もあるのですが、全部付け替えるのでしょう。重慶はすごく山の嶮しいとこですけど、市内に20万人の団地を作るんだとか、そんなことも言っていました。
●なぜ、旅順・大連か
翌年は南京、旅順、大連にいくことに決めていました。でも2003年はSARS事件が起こりました。我々の間でこういうときこそ行くべきだという説もあったのですけど、私としてはちょっとびびって中止にして、昨年2004年に行きました。
なぜ旅順・大連かということですが、うちにメンバーで加藤周一のファンがいて加藤周一が何年か前にその南京大虐殺の前に旅順大虐殺があったということ書いているんです。いまでも加藤周一が月一回ぐらい朝日新聞に書いているコーナーですが、それに旅順の事件のことがでてくるのです。日清戦争の時に、日本軍は朝鮮半島で色々悪い事していますが、その後中国遼東半島まで行って旅順で民間人虐殺事件を起こしているのですね。その時に国際監視団があって、その事件が英文ニュースで流れているのです。加藤周一はそういうことを紹介しながら、南京大虐殺事件と似ている、日本の起こした事件が世界には情報としてが流れていたけども、日本国内には流さずに隠した、それなりの責任追及をしなければならなかったので頬かむりした、この1894年の旅順事件からスタートして同じ構造の1937年の南京大虐殺に繋がっているのだと、そういう文章があるんです。それでどうしても旅順・大連に行きたいということで行きました。佐伯先生にはその帰りに大連でお会いしたのです。
●安重根と旅順監獄
旅順にはもうひとつ、伊藤博文を射殺した安重根が処刑された所として知られています。旅順はまだ「未解放区」、一般の外国人観光客をいれないところです。ですからその旅順刑務所等に入ることについて出発の直前まで中国側と交渉しました。中国は官僚社会ですから、許可が出なかったらガイドが勝手に記念館なんか連れて行ったら怒られるのです。旅順監獄跡も中国人が訪問するのに何の問題もありません。中国語では「教育基地」と言いましが外国人には解放されてないですね。最初は我々のパートナーである北京の友誼促進会から「飛田さんダメですよ」と言われて諦めていたのです。でも調べてみたら福岡の教職員組合が旅順監獄に入っているんですね。その記録を中国にファックスで送りました。日本人の団体で旅順監獄に入っている団体があるあるということは、入れるはずだと。それで最終的にはOKになって行きました。
そこには我々が聞いていたとおり安重根の部屋もそのまま残してありました。そこでいくつかの書を書いていますね。最近もいま仙台在住の日本人で旅順監獄で看守をしていた人がいましたが、その家から安重根が書いた額が出てきたという新聞記事がありました。中には硯らしきものが置いてありました。
処刑場もありましたが、そこには裏の出口があって、死体をそこから運び出したのです。また絞首刑にする場所に紐が3本ぶら下がっていたのです。どれだけ多く処刑したかということです。ソウルの西大門刑務所は当たり前ですけど一本の紐がぶらさがっているのですけども、旅順には3人を順番に処刑できるようになっていたのです。そして下のほうに木の甕が置いてあるのです。なんですかと聞くと、硬直する前にそこに入れるというのですね。そしたら死体が小さくなるというのですね。それでそのまま裏の墓地に埋めているというのです。それで最後の方は木がなりもったいないから底の抜け甕に入れたのですね。そして硬直してからそのまま死体だけを運んだそうです。もちろん刑務所内でも抵抗運動がありました。裁縫するための作業室で反乱が起こって、はさみを割って刀にし、それで監獄から脱走した事件があり、失敗して殺された人の革命烈士の記念碑もありました。このときの大連のお話はいたしませんが、大連も日本と関係の深いとこです。
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