ゆうさんの自転車/オカリナ・ブログ

飛田雄一の個人的なブログ、オカリナ、登山、自転車のことなどを書こうかな・・・

極私的 ベ平連神戸事件顛末の記(コロナ自粛エッセイ1)

2020-06-21 15:07:59 | コロナ自粛エッセイ
飛田雄一
「コロナ自粛エッセイ
極私的 ベ平連神戸事件顛末の記」
(飛田の冊子の内容を貼りつけたもの。縦書きの文章なので、数字が漢数字になっている。冊子は、希望者に、無料(送料飛田負担)でお送りします。飛田 hida@ksyc.jp までメールをください。)

●一

 ベ平連の少年Aらが六甲道踏切で米軍の武器輸送に反対して無届デモをして逮捕された。これが一九七〇年秋の新聞記事、この少年Aが私だ。二〇歳までの少年は、新聞によほどの凶悪犯でないかぎり?、実名がでないようになっているのだ。
実はこれをテーマに小説を書こうと思った。が、小説はフィクションでなければならず?、小心な私はそれができそうにない。で、実話的エッセイとして書くことにした。エッセイにしては長文になるかもしれないが、おつきあい願いたい。
 また一方で、母・溢子(いつこ)を主人公にして小説を書きたいと考えたこともある。昨年出版された石塚明子(筆名・大西明子)さんの小説『神戸モダンの女』(編集工房ノア、二〇一九年八月)に刺激を受けたのだ。一九二四年生まれの母は、キャリアウーマンのはしりで、私が小学中学高校と進むにつれて、たびたび「ただものではない」ことを知ることになる母であった。今回のテーマである私の逮捕事件で身元引き受けに来てくれたのも母だった。そしてそのたびに、「あんたは悪くない、悪いのは警察だ」といっていたのである。なぜか父は一度も来なかった。
 母に比べれば存在感のうすい父・道夫についても、私は年をとるにつれて、いろんなことが理解できるようになった。私が大学に入ったころ、父は働いていた印刷会社が傾きかけて退職した。家庭教師をけっこうして稼いでいた私は、父に小遣いを渡したりしていた。パチンコでたばこを景品にもらってプレゼントしたこともある。たばこをゲットするくらいのパチンコは、けっこううまくいくのだった。父は、孫(私の姉の子)の世話を契機に再び社会デビューし、マンションの理事長をしたりした。また私の市民運動のあて名書きもしてくれた。さらに長年私にかわって新聞切り抜きをしてくれたが、その新聞スクラップは今も青丘文庫(神戸市立中央図書館内)に保管されている。
母が一冊だけ作った絵本『だめはなこのはなし』(二〇〇四年五月)を姉と出版した。絵は、当時母が園長をしていた幼稚園の先生が描いてくれた。父の句集(一九九五年七月)も出した。父は、NHK俳句雑誌の表紙を飾ったことが自慢だった。ふたりとも本を出してからしばらくして亡くなった。本を出したことが、よかったのか、悪かったのか分からない。
 両親のことをこのように書き始めたらきりがないので、ここでその話はやめる。

●二

 私は一九六九年四月に神戸大学農学部に入学した。その年は全国の大学で学園闘争が盛んであった時だ。大学はバリケード封鎖されていて授業はない。でも「クラス討論会」が毎日のようにあり、私も参加していた。バリケードの中である。そして、大学内に事務所がある「ベ平連神戸」の事務室に出入りしていた。いりびたっていたというほうが正しいかもしれない。母は、「ゆうさん(私のこと)は農学部ではなくべ平連学部に入った」といっていた。
 私が逮捕されたのはその年の秋、米軍の弾薬列車輸送阻止のためにデモだった。阻止といってもJR六甲道の踏切あたりで抗議のデモンストレーションをするだけである(当時は国鉄、民営化される以前だが以降JRとする)。大学で同級生をさそいベ平連神戸のメンバーとあわせて三〇名ぐらいが、デモをしながら阪急六甲をとおりJR六甲道まで行った。
列車がきた。実はその列車がほんとうにその列車かどうか分からないが、線路内をジグザグデモ的に行ったり来たりした。警報機が鳴り始めた。私たちは、列車にひかれても阻止するのだ、というような覚悟はない。でも警報機がなってすぐに出ていくのはカッコわるいから、もう少しうろうろしてから遮断機を少し持ち上げて外にでた。そして逮捕された。先頭にいた私を含めて七、八人、灘警察署に連れていかれた。もちろんパトカーに乗ってだ。当時、JR六甲道付近は高架になっていなかった。高架になっていたらデモもできないし、逮捕もなかったはずだ。少し残念だ。
 警察での取り調べは過酷、ということはなかった。外では仲間が「不当逮捕糾弾!」とがんばっている。その声もよく聞こえる。取り調べが始まる。私は初体験だったがけっこう落ちついていた。最初に「弁解録」というのを作る。これは予習していなかったのですこし面くらったが適当にすませた。
 そしていよいよ本格的な取り調べが始まる。当時の活動家のあいだでは完黙、すなわち完全黙秘が原則だったが、私はちがっていた。名前、はい○○、住所、はい〇○、という風に進んだ。そして、本籍は?という問いに、黙秘しますと返事した。警官は少しびっくりしていた。ここまで素直に話していたのにここで黙秘とはなんだ、ということだろう。実際、名前住所を言ったのだから本籍も言っていいんじゃないと言っていた。私もそういう気がしたが、きりがないのでここでストップして、黙秘。何回も聞かれるが黙秘。私はこれ以降すべて黙秘なので調書にそのように書いてよと言ったが、それはだめらしい。
そのあと延々と、どこから出発したのか、どの道を通ったか、誰の指示なのかなどなどいっぱい聞く。だから調書はけっこう長い。質問、黙秘します、質問、黙秘します、と続く。
一日目が終わった。灘警察署地下の留置所に移動する。夕方、また仲間がやってきてシュプレヒコールをする。よく聞こえる。地下といっても半地下で、明かりは入るし、外の声もよく聞こえる。

●三

 翌日も取り調べだ。朝から同じことも繰り返しだ。名前、飛田、住所、○○、以下黙秘でいいのだが、いちいちこの質問、回答をそのまま書くのでまた長い調書ができる。親しくなった刑事がデモ写真を見せながら(けっこうたくさん写真をとっている)、これは誰だ、これは誰だと聞いてくる。刑事がかわいそうなので?、いっしょに逮捕された友だちの名前だけ言ってあげた。その後列の人は、知りません、そのとなりは、知りませんとまた調書が続く。
 その日、弁護士が接見に来てくれた。「神戸市民救援連絡会」の電話番号を警察に伝えてあったのだ。事務所は代表の加瀬都貴子さんのご自宅で、その電話番号は暗記していた。どういうわけかいまでも覚えている。最近のことはすぐ忘れるのに・・・
もうひとつ、取り調べ中に親子丼を食べた。自費だ。お金はある。差し入れられたものだ。留置所では食べることはできないが、取り調べ室ではなんでも?、注文して食べられるのだ。指定業者がある。おいしかった。
留置所で私は独房だった。主犯とみなされたようだ。他のメンバーは四、五人部屋だ。そこでは、先輩の窃盗犯らと紙の将棋をしたという。若いのでかわいがられたらしい。私はいっしょに将棋ができなかったことを残念に思っている。
反対側の部屋には神戸大学全共闘の有名な中核派の活動家が入っていた。「ベ平連なら街で反戦歌などの歌うのだろう、歌ってくれ」と言ってきた。が、歌わなかった。恥ずかしかったし、歌って看守にどつかれたりしたら痛い。
 留置所に入る前、私は、トイレは別の場所にあるのだろうと思っていた。が、ちがっていた。部屋の中にあるのだ。あるといっても隅に便器があるだけだ。したがって気分転換に房外に移動するということもない。食事は、健康食だ。白米に麦が少しまぜてある。ただ量が足りなかった。不足分は取り調べ中に出前をたのんで補った。
 独房なので、ひとりでなにをやっても自由、ということではなかった。基本的に静かにじっとしていなくてならないのである。ドアと食事を差し入れる部分以外は鉄格子状になっている。看守は見まわりにきたら、いつでも中の私の様子をみることができる。その鉄格子にへばりつくようにして留置所の入口付近をみると看守がいる。でも看守がそこから私の部屋のなかをいつも見ることができるわけではない。
 私は中高の六年間、器械体操をしていた。そこそこの選手だったのである。狭いところでも腕立て伏せ、倒立、腹筋、背筋、スクワット、なんでもできる。ずっとしていた。むかしは「自然倒立」といっていたが、勢いをつけずに力だけで倒立するのがある。それをいちばんしていた。片手を横腹につけて全体重を支えるという、サーカスのようなポーズもしていた。看守が見に来た時には適当にごまかした。

●四

 警察には三泊四日いた。どういうわけかすでに成人となっていた仲間は二泊三日だった。三日目にその成人を留置所で見送った。友人は「ほんなら、おさきに」と言って出て行った。記憶が定かではないが、その友人が「この手錠いらんようになったから飛田にはめとく」といって実際にはめられたことがあったような気もするので、検察庁へ行くパトカーの中だったかもしれない。
 三日目は検察庁。警察と検察は別組織だが、変わった印象はなかった。そして四日目、最後は家庭裁判所だ。少年の場合、最後にここに来るので一泊多くなるらしい。
 その家庭裁判所は、私の卒業した湊中学のとなりにあった。手錠をかけられたまま母校のそばに行くのは抵抗があった。運動場から生徒の声も聞こえてくる。卒業してまだ三、四年、中学校から知っている先生が、あるいは付近の商店から知り合いが出てこないかきょろきょろしていた。家裁もそれなりに終わり釈放された。そして起訴されたのか、されなかったのか、通知はない。あれから五〇年、いまだにない。もちろん「時効」があるははずだが、いつでも起訴できるんだぞというおどし、担保を長い間残しておきたいという魂胆があるのだろうと推察する。
 釈放のとき、身元保証人の母がきてくれた。ほとんど記憶がないが、家裁から自宅にもどったのか、あるいはベ平連神戸の事務所に直行したかもしれない。
 この三泊四日、すでに書いたようにそれなりの生活をしたが、ただひとつ印象的なことがある。それは、「思考停止」だ。忙しいベ平連生活を送っていた私は、拘束され時間ができたので、いろんなことをゆっくり自由に考える時間ができたと思った。が、ちがった。普通の思考的なことが思い浮かばないのだ。この状態を文字で表現するのはむつかしい。このあたりが、私が小説を書けない理由かもしれない。
 気が滅入ってしまったというのではない。うつ的になったわけでもない。少しも思い浮かばないだけなのだ。もうすぐ雪が降るスキーに行きたいな、彼女はどうしているのかな(そのときは誰かな?)、次号の「アンポ神戸」はどうなるかななど、普通のことが考えつかないのだ。頭が真っ白という状況でもない。三泊四日でなくて、二、三〇日拘束されるとそれが日常的となり、普通にものを考えられるようになるのだと思う。かといって、私はもっと長いこといたかったということではない。

●五

 ベ平連神戸の主な活動の場所は、三宮花時計前。毎週土曜日午後、そこに陣どって集会を開いた。主にリーダーの西信夫さんが演説をして、私もときどきした。最初のころはサンチカで、新宿「フォークゲリラ」スタイルで集会をしていたが、地上に追い出されたのだ。地上の世界では花時計前、そしてより人通りの多い三宮センター街入口だ。露天商の人たちとも顔なじみとなり、カンパしてもらったこともある。
 そして月に一回程度はデモをしていた。コースは花時計北上、生田新道西進、鯉川筋南下、三宮センター街東進、そして花時計前だ。デモ届けのたびにそのように書いたので、いまでもすらすら出てくる。
 警察へのデモ届は簡単なようでむつかしい。最初は西さんが申請していたが、ある時期から私がするようになった。警察はデモ届にきた新人にいじわるをするのである。
 花時計で集会をするのか?、します、では神戸市に集会許可をもらうように。
 そして神戸市に行く、なかなか許可をくれない。でも集会許可は必要なのである。集会許可がないと「無届集会」ということになり、それだけでややこしい問題となる。けっきょく、あとで神戸市に集会許可をもらいますからと、集会申請、デモ申請を同時にするのが正解なのだ。
 三宮センター街入口でアピール活動をしているときも、集会申請をしろと言ってくることもあった。しかし、集会申請なしで、無届集会を貫徹した。貫徹という言葉が、当時はやっていた。

●六

 実はその後も二度、逮捕された。二回ともビラはりだ。一回目は垂水区の自宅近くで「多聞台べ平連」のビラを電柱に貼っていてつかまった。一九七〇年のことだったと思う。ベ平連は自由な「組織」で、ひとりでベ平連を作ることができたのである。そのときの行き先は垂水警察署だ。取り調べはほぼ前と同じで、「住所不定無職拘留」だけは避けた。深夜、また母が迎えに来てくれた。自宅からそう遠くはない。タクシーで帰ったと思う。
 その次は、神戸駅前。一九七四年七月の参議院選挙で三里塚反対同盟の戸村一作さんが立候補したときだ。公示日が七月七日、早朝からのビラはりだ。選挙なので大きめのポスターだ。私の担当はJR神戸駅周辺、TさんとOさんの三人組だ。最初から尾行されていたようで、けっこう早くつかまった。こんどは生田署だ。生田署は私がデモ申請に何度も行ったことのあるところで、公安担当の刑事とも知り合いだ。
 例によって、名前住所はすらすらと陳述し、あとは黙秘だ。しばらくして刑事がきて、TさんOさんが完黙して困っている? という。私はふたりに会わせてほしいといった。会った。警察署内で三人だけで、許可を得て会ったようだ。名前住所を言ってあと黙秘で行こうと提案、ふたりはそれを了解してそのとおり陳述した。そしてその日のうちに三名とも釈放となった。この時はもう成人だったので、母は来る必要がなかったかもしれない。ビラはりで捕まった二回も起訴されなかった。といってもその通知を受け取ったわけでもない。

●七

 逮捕関連で苦い経験がある。一九六九年七月一二日、高倉山(神戸市須磨区)での神戸大学全学集会でのことだ。これは大学当局の肝いりで封鎖解除を学生に決議させるために開かれたものだ。現在は高倉台団地となっているところで、当時はそこで機動隊がデモ鎮圧の訓練をしていた。その訓練の延長線上に?、集会が実施されたのだ。
 もちろん全共闘グループは集会粉砕のためそこに向かった。神戸大学から阪急六甲、そして山陽電車須磨寺駅から会場に向かった。その間はすべてデモ行進だ。先に書いたように、授業がなくても盛んにクラス討論会を開いていたわれらが農学部園芸科のメンバーも参加した。四〇名ほどのクラスで半分くらい参加したのではないかと思う。すごい出席率だ。
 集会粉砕のために集まった全共闘グループは、千名ほどか。この時期の神戸大学闘争では最大の規模だ。でも他大学の学生も入っていた。私自身も関西学院大学でのデモに参加したこともある。もちつもたれつなのだ。
 デモ隊は、授業再開を期待する学生たちの集団に突入して(乱闘したりしていません)、デモ行進をくりかえした。が、日頃の訓練でその場所を知り尽くしている機動隊員に追いつめられて広場の隅まで来た。一方は崖、高さは一〇メートルほどあったと思う。下のほうには小さな池状の水たまりもある。絶対絶命だ。そこに機動隊が突進してきた。われわれの集団がばらける。崖を飛び降りるか、機動隊の間をくぐりぬけて逃げるかである。私はくぐりぬける派だった。園芸農学科グループのうち七、八人がそのグループの中にいた。身をかわしながら逃げる。SとKが転んだ。助ける?余裕はない。
Sはどうなった、Kはどうなったなどと数人のメンバーで話ながら、事前に決めていた行動終了後の集合場所に向かった。山陽電車板宿駅の餃子の「眠眠」だ。SもKもいた。ふたりが逮捕されていたら、転んだのを見ながら逃げた自分を恥じていたかもしれない。なにしろ元器械体操部、身のこなしはすぐれている、転んだ人を飛び越えて、容易に逃げることができたのである。
 ついでに思い出したが、授業がなくても農学部の先輩たちは「新歓」を開いてくれた。新入生歓迎会だ。会場は、神戸大学六甲台学舎の庭、夜景がきれいなところだ。乾杯ののち(これも未成年がいて今では無理?)、新入生の自己紹介が始まる。〇○県〇○高校出身、○○部でした、神戸大学にあこがれてきましたという感じだ。その年は、東京大学の学園闘争で入試が行われなかった年だ。家が貧乏で浪人ができないので、東大をあきらめ仕方なく神戸大学に来ました、という新入生が複数名いた。いいたい放題だ。
 私の番がきた。兵庫高校卒業、器械体操部でした。普通はそのあとで先輩が、現役か浪人かと聞くのである。私は、現役だ。が、A先輩は、「君は何浪だ?」と聞いたのである。当時の私が老け顔をしていたのかもしれないがひどい、傷ついた。そのA先輩の顔と名前は、いまでも覚えている。

●八

 時代は下がって(上がって?)、一九九六年四月。阪神淡路大震災の翌年、神戸で「ニューヨークの中国人画家が描いた南京大虐殺の絵」展覧会を開いた。会場は王子ギャラリー、現在は神戸市文学館となっている建物で、もとはその地にあった関西学院大学の図書館だった。となりに当時、神戸YWCA会館もあり、中国から招いた幸存者(中国で災いから生きのびた生存者をこう表現する)の証言集会もそこで開催した。大規模な展覧会で成功を収めた。丸木夫妻の四メートル×八メートルという巨大な「南京大虐殺の図」もあわせて展示した。
 右翼の妨害もあった。集会場のYWCAにやってきて、うそつくな、中に入れろなどと騒ぐ。以前のベ平連時代には警察に守ってもらって集会をすることなど考えたこともなかったが、それもよかろうと警察に連絡した。警察は、事前に連絡をもらわなければ自分たちも出ていけない、右翼になんで来てるんやと言われたらこまるので、事前連絡がほしいとのこと。妙に納得したりした。考えたら、われわれも税金を払っている、われわれも守られてもいいんだ・・・・
 集会場の入り口でにらみあいとなった。怒号も飛ぶ。すると刑事が、「飛田君、あんたがちょっと殴られたらすぐ彼らを逮捕できてこの場は収まるんですよ」と言う。さらに納得したが、そのようなことになるまえに収束した。よかった。
会場の王子ギャラリーに右翼の街宣車も来ていたので、刑事がときどきみまわりに来た。その刑事が、展示会のボランティアメンバーのひとりに、「飛田さんは尾行を巻くのが上手だったんですよ」といった。あとで聞いてびっくりした。七〇年代前半、当時ですでに二〇年も前の話である。ベ平連時代、そういえば、ホームまでつけてきた刑事に電車に乗るとみせかけて乗らない、乗らないとみせかけて乗ったこともあった。いやいや、警察は引き継ぎがうまくいっているのか、実際その刑事が尾行していたのか知らないが、すごい情報能力だ。絵画展仲間に、飛田がこわいやつだと言いたかったのかもしれないが・・・
 四回目の逮捕は、今のところない・・・ 

■あとがき
 この小さな冊子にあとがきはいらないと思う。だが、まえがき、あとがきのない本はだめだというのが私の考えだ。なので、あとがきを書くことにする。
 この冊子はコロナ自粛が作らせてくれた。私は、昨年九月に神戸学生青年センターを退職した。一九七八年に就職したので、四〇年以上働いたことになる。「逮捕歴」があっても雇ってくれたセンターに感謝している。七〇年代、逮捕歴三回まではOKという新聞社があり、それを信じて受験し就職した先輩もいる。でも世の中は逮捕歴にきびしい時代でもあった。
 私は、自粛中でも時間をもてあますことはなかった。オカリナを吹いたり、六甲山に登ったり、「男はつらいよ」を全部観たり忙しかった。それでも、このようなものを書く時間もあった。ちょうどこの三月に『むくげ通信』が三〇〇号となり、総目次とともに記念号をだした。一九七一年スタートのむくげの会なのでほぼ五〇年だ。いろいろ思い出すこともあり、このような冊子も作りたいと思ったのだ。
 私は最近、次頁にあるような本を出した。センター出版部、むくげ出版の編集者としていろんな本を出してきたが、自分の本を出してみようと思ったのだ。でも、それも一段落した。でも、まだなんとなく出したいのがあるのだ。
 幸いセンターに最新式の印刷機がある。原稿さえ書けば印刷製本を自動でしてくれる。この印刷機でこの冊子をつくることにした。まずは五〇部、あとは一冊からでも増刷できる気軽さが気にいっている。
 またなにか出すようなことがあるかもしれない。そのときは、またよろしく・・・・

  二〇二〇年六月二五日                      飛田雄一

著者 飛田雄一(ひだ ゆういち)
一九五〇年神戸市生まれ。神戸学生青年センター理事長、むくげの会会員など。著書に『日帝下の朝鮮農民運動』(未来社、一九九一年九月)、『現場を歩く 現場を綴る―日本・コリア・キリスト教―』(かんよう出版 二〇一六年六月)、『心に刻み、石に刻む―在日コリアンと私―』(三一書房、二〇一六年一一月)、『旅行作家な気分―コリア・中国から中央アジアへの旅―』(合同出版、二〇一七年一月)、『時事エッセイ―コリア・コリアン・イルボン(日本)―』(むくげの会、二〇一九年五月)、『再論 朝鮮人強制連行』(三一書房、二〇一八年一一月)ほか。

<以下、奥付>
コロナ自粛エッセイ
極私的 ベ平連神戸事件顛末の記

二〇二〇年七月一日発行
著者・発行者 飛田雄一 hida@ksyc.jp
神戸市灘区鶴甲四丁目三の一八の二〇五

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