コロナ禍において、政府は、「マスクは自己責任で・・・」という
方針を打ち出した。そこで自己責任とは何かを考えてみよう。
誹謗と中傷
私達は常に自己責任においてすべての行動をしている。その中で何らかの良くない事態が発生しとき、他人は「あれは身から出た錆(=自業自得)だ!」と安易に誹謗・中傷することがある。
ご存じの通り、「誹謗」とは他人へ悪口を言ったり罵ったりする行為であり、「中傷」とは根拠のない嘘やいい加減なでたらめを述べる行為を指す。問題は事実か否かにより、犯罪の種類も変ってくる。
ご参考までに
名誉毀損罪(刑法第230条)とは、公然と事実を摘示し、人の名誉を毀損することで問われる犯罪である。
侮辱罪(刑法231条)は、 不特定または多数の人の前で、根拠を示すことなく、他人をおとしめる言動をしたときに適用される犯罪である。
中傷される側が一般常識をわきまえない人であった場合は、仕方がないことかも知れない。が、誹謗中傷をする本人が無責任なこともある。どちらも自分の責任を感じていないことが多い。すると、争いに発展する。世界の多くの戦争は、宗教的な思想や自己中心的な考えに端を発しているのが実情である。
(「実状」で表現する場合もあるが、内面・外面両方含まれていることも多い。今回はメディアが常用する言葉を選択した。)
殆どの場合は自己中心的な考えに基づき、自己責任を認識していない行動から始まっている。
自己責任
人の行動には、常に責任・義務・権利がつきまとう。
「自己責任」という言葉は、「自分の行動による結果の責任は自分にある」ことを意味する。その場合、その行動が自主的なものであろうと、誰かの助言に従ったものであろうと関係はなく、すべて実行した本人の責任になる。
従い、「本件はあなたの自己責任でお願いします。」と言われたら、お願いした本人は、自分の無知・無能を隠し、いかに責任を回避(他人に責任を転嫁)し、自分はラクをするかということを考えている。
すなわち、そのお願いは、他者依存を覆い隠すための、いわば隠れ蓑として使っているに過ぎない。
自己責任
人の行動には、常に責任・義務・権利がつきまとう。
「自己責任」という言葉は、「自分の行動による結果の責任は自分にある」ことを意味する。その場合、その行動が自主的なものであろうと、誰かの助言に従ったものであろうと関係はなく、すべて実行した本人の責任になる。
従い、「本件はあなたの自己責任でお願いします。」と言われたら、お願いした本人は、自分の無知・無能を隠し、いかに責任を回避(他人に責任を転嫁)し、自分はラクをするかということを考えている。
すなわち、そのお願いは、他者依存を覆い隠すための、いわば隠れ蓑として使っているに過ぎない。
責任・義務・権利の認識を無視すると、とんでもないことになる。
自己責任を問われない例
自由意志のないロボットの場合、そこに「自由」がない以上「責任」もないと言える。自己責任は、自由の上に成り立っている。
自己責任を問われない例
自由意志のないロボットの場合、そこに「自由」がない以上「責任」もないと言える。自己責任は、自由の上に成り立っている。
人であれば、重度の精神疾患を持つ人が、誤って殺人を犯してもその責任を問われない。その行動は自由意志を伴わないロボット、この場合は「判断能力がない生物」と見做されているからである。
飼い犬が誰かを襲って怪我をさせても、犬に責任はない。例え訓練を受けていた犬であっても、責任を取らせる方法はない。犬を管理する人に対して、すべての責任が問われるのが現実である。
役人は責任をとらない
殆どすべての官公庁の役人は、責任をとらない。彼らは先ず一番に法規に則った行動をとる。国民がどんなに困ろうが、そんなことはお構いなし。状況によっては命の危険があろうが、「人命第一」と言いながらも、自分で勝手に判断して法規にそわない指示・行動はできない。そのような仕組みになっているから、個人的には情状の理解できてはいても、組織内に居る限り止むを得ないのであろう。
早い話、職務上柔軟な対応はできない。超法規的措置ができるのは、管轄する組織の幹部クラスでないと指示できない。
ところが、そのクラスでは現場の実務を知らない人も多く、余程優れたブレインが揃っていない限り、的確な指示ができず法律を逸脱しないレベルの指示しかできないことが多い。
(たとえブレインがいても、元A総理・K元総理のように周りの忠告を聞かない方もいる。助言した人は左遷されたり解任されたり、報道管制すらする方々だから・・・。それにその都度責任を取っていたら、首が幾つあっても足りないのが実情であろう。だからトカゲの尻尾切りが横行することになる。)
自己責任社会と無責任社会
自己責任社会とは、責任を放棄した無責任、つまり「自己責任の回避を合理的に解釈するための言い訳」の言葉にしか過ぎない。
本当の自己責任社会には、責任も義務もあり、代わりに権利(権限)がある。
無責任社会とは、読んで字の如く「責任を持たない社会構造」のことを言う。有権者であるのに選挙にも行かず、貧困をはじめとする社会情勢を政治家の所為にして、自分はなんら責任を取らない。そのような人に政治家をとやかく批判する権利はない。責任も義務も果たさず、権利を要求するのは間違っている。
会社であれば、管理する職務の中には、必然的に責任も義務も含まれているにも拘わらず、十分な指導もしない(できない)管理者がデキの悪い部下に「自己責任」だと批判する権利はない。
学校や家庭の場合では、勉強もロクにしない子供が成績の悪さを、教師や親の所為にする権利はない。
飼い犬が誰かを襲って怪我をさせても、犬に責任はない。例え訓練を受けていた犬であっても、責任を取らせる方法はない。犬を管理する人に対して、すべての責任が問われるのが現実である。
役人は責任をとらない
殆どすべての官公庁の役人は、責任をとらない。彼らは先ず一番に法規に則った行動をとる。国民がどんなに困ろうが、そんなことはお構いなし。状況によっては命の危険があろうが、「人命第一」と言いながらも、自分で勝手に判断して法規にそわない指示・行動はできない。そのような仕組みになっているから、個人的には情状の理解できてはいても、組織内に居る限り止むを得ないのであろう。
早い話、職務上柔軟な対応はできない。超法規的措置ができるのは、管轄する組織の幹部クラスでないと指示できない。
ところが、そのクラスでは現場の実務を知らない人も多く、余程優れたブレインが揃っていない限り、的確な指示ができず法律を逸脱しないレベルの指示しかできないことが多い。
(たとえブレインがいても、元A総理・K元総理のように周りの忠告を聞かない方もいる。助言した人は左遷されたり解任されたり、報道管制すらする方々だから・・・。それにその都度責任を取っていたら、首が幾つあっても足りないのが実情であろう。だからトカゲの尻尾切りが横行することになる。)
自己責任社会と無責任社会
自己責任社会とは、責任を放棄した無責任、つまり「自己責任の回避を合理的に解釈するための言い訳」の言葉にしか過ぎない。
本当の自己責任社会には、責任も義務もあり、代わりに権利(権限)がある。
無責任社会とは、読んで字の如く「責任を持たない社会構造」のことを言う。有権者であるのに選挙にも行かず、貧困をはじめとする社会情勢を政治家の所為にして、自分はなんら責任を取らない。そのような人に政治家をとやかく批判する権利はない。責任も義務も果たさず、権利を要求するのは間違っている。
会社であれば、管理する職務の中には、必然的に責任も義務も含まれているにも拘わらず、十分な指導もしない(できない)管理者がデキの悪い部下に「自己責任」だと批判する権利はない。
学校や家庭の場合では、勉強もロクにしない子供が成績の悪さを、教師や親の所為にする権利はない。
責任の裏には義務があり、その代わり権利もある。
仕事を任せるには権限(権利)移譲が必要、
任された以上義務と責任負うことになるの当然である。
本日もご来訪いただきありがとうございました。
スマホでどうぞ
highdyさんのように物事の本質をよく見極めて、理路整然と説明できる人は意外に(いや、本当に)少ないですね。
ある声や考え、意見に異論がある場合など、現代は
SNSなどで簡単に発信できる世の中ですから、誹謗中傷についても言い方や受け取り方によって誹謗中傷の捉え方も大きく変わりますね。
明らかな誹謗中傷と、highdyさんが仰るようにお互いが自己責任を認識していない行動によって起きる問題との違いをお互いに理解できないという場合も多いのではないでしょうか。
あまり自己中心的で神経過敏にならず、相手の声をよく聞くということから解決に結び付くということも大切だと思いますね。
ブログをやっていれば、多くの人が、多かれ少なかれ反論や苦言を呈されることもあると思います。
それをいきなり誹謗中傷と思わず、相手に耳を貸すつもりで穏やかに対話することによって解決・・ということも多くの人たちが体験しているのではないでしょうか
少なくとも2004年の4月、ジャーナリストの安田純平さんらがイスラム原理主義のグループの人質になったとき、政治家やマスコミによって多用されて、この年の流行語になったことは確かですが…。
2000年代の日本人のマインドや社会の雰囲気に、よほどしっくりとハマってしまったのでしょうね。
仰る通りです。対話ができない方の殆どが自己中心的で、安易に誹謗中傷と過敏に反応してされてしまうようです。相手に耳を貸すができれば争いにもならずに済むのですが、それができないのでしょうね。
それと、自分の持てる知識・情報の中で、自分の居る環境(ご近所・組織・ブログなどのSNS)での許容行動が判断できず、家族と同じ雰囲気のつもりで行動してしまうがケース多いようです。
やはり「公共の場」ということを認識した上での行動をしないと、個人情報の漏洩などが悪用されて思わぬ事件に繋がることも多いものです。
お互いに、気をつけたいものです。
コメントをありがとうございます。
私も「自己責任」という言葉の起源・歴史は存じませんが、私の想像は江戸時代辺りの飢饉などが基になっているのではないかと考えます。
あの頃の天災・大火の折(災害)に、自助・共助・公助が必要になり、自分を助けるのは自分だという「自助が自己責任に繋がった」のではないかと思います。
それが、1900~2000年代にかけて、時代にマッチした言葉として認識され、多用化したものと思われます。
一般に我が国の自助:共助:公助=7:2:1と言われていますが、内閣府の調査結果では、(阪神大震災のケースだったと思いますが・・・)7割弱が家族を含む「自助」で、3割程度が隣人等の「共助」により救出され、「公助」と言える公の救助隊による救出は数%に過ぎなかったそうです。
その意味から、公助は殆どアテならないことを知り、「自分を守るのは自己責任」でしかないと言うことを肝に銘じておくことが大切だと思います。
役所は、まず前例を踏襲から始まります。
役所内の裏金作りも・・過去数十年と続いてきて
私に回ってきましたので、一年で公務員は退官した
この世界、まじめに暮らすのは政治家と公務員と
一部のお金持ちと特殊団体以外の国民だけ・・
自己責任・・と無責任官僚は〇にあらずです
そうですね、前例を踏襲が原則ですね。判例のない判断は裁判所ですらも、容易に覆せません。
何処でも内閣の官房機密費の類は持っています。皆知っていて知らないフリをしているだけで、管理職が輪番制で休日に適度なカラ出張をするなどの手口で、一般職員に気づかれないように裏金作りに精を出しています。
メディアもそこまでは追跡しづらいので、公にもなりません。
私は役所関連で働くのは嫌だったので就職しませんでしたが、きっと、私もワイコマ さんのように辞めていると思います。
責任を負わされる羽目になる人がほとんどでしょう。
全く仰る通りです。誰でも責任は取りたくないものです。
世渡りの上手い方ほど、その傾向があるようです。要領の悪い人ほど、責任転嫁をされて泣いています。
しかし、組織内では「俺が責任をとるから安心してやれ!」という上司は部下から好かれ、昇進も早いのが世の常でしょう。