昨日の続きです。
3.感謝の心を持てる人
何事にも感謝をする気持ちを持つことは大切で、その人に文句を言う前に、過去に恩恵に与(あず)かった、してもらったことを思い出し口をつぐみましょう。だからと言って、何でもかんでも我慢すると、心の奥底では和解していませんので、積もりつもって大爆発してしまいます。適度のガス抜きも必要なことです。
いま、highdy が10数年続けている無料パソコン教室は、人生の60年皆様にお世話になった感謝の気持ちを込めての行動です。つまり、無理をしないボランティアです。ボランティアは無理をすると絶対長続きはしませんので。
4.思いやりのある人
人によって思いやりの概念が全く違います。世間で一般的に誰もが認識するものは常識として持ち合わせるべきでしょう。でも、その常識レベルが問題で、男女の違いにより、思いやりの内容認識が異なると思います。
highdy の経験でも若い頃に紫陽花が大病(完治後、約35年健康)をし、手術をしたことがあります。いまでも時折話題になり、「あの時、優しくなかった!」と言われますが、自分としては亡くなったらどうしよう、いま何をすべきなのか、オロオロするだけで女性のための配慮が足りませんでした。
何事にも感謝をする気持ちを持つことは大切で、その人に文句を言う前に、過去に恩恵に与(あず)かった、してもらったことを思い出し口をつぐみましょう。だからと言って、何でもかんでも我慢すると、心の奥底では和解していませんので、積もりつもって大爆発してしまいます。適度のガス抜きも必要なことです。
いま、highdy が10数年続けている無料パソコン教室は、人生の60年皆様にお世話になった感謝の気持ちを込めての行動です。つまり、無理をしないボランティアです。ボランティアは無理をすると絶対長続きはしませんので。
4.思いやりのある人
人によって思いやりの概念が全く違います。世間で一般的に誰もが認識するものは常識として持ち合わせるべきでしょう。でも、その常識レベルが問題で、男女の違いにより、思いやりの内容認識が異なると思います。
highdy の経験でも若い頃に紫陽花が大病(完治後、約35年健康)をし、手術をしたことがあります。いまでも時折話題になり、「あの時、優しくなかった!」と言われますが、自分としては亡くなったらどうしよう、いま何をすべきなのか、オロオロするだけで女性のための配慮が足りませんでした。
だって、男性だもの、女性の立場で考えることは難しいこともあります。分かりません! つまり、経験不足だったのです。
5.大切な人の為に動ける人
どなたにも大切な人はあるものです。多くの場合、身内や身近な人です。
動くにも、時間的、距離的、身体的、経済的など様々な理由で、動けないことも多いです。場合によっては、自らの命に拘わることだってあります。
5.大切な人の為に動ける人
どなたにも大切な人はあるものです。多くの場合、身内や身近な人です。
動くにも、時間的、距離的、身体的、経済的など様々な理由で、動けないことも多いです。場合によっては、自らの命に拘わることだってあります。
大切な人のために自分は何をすべきか、イザというときは・・・について、日頃から非常に備えた心構えを持っておかないと、咄嗟(とっさ)の行動は判断を誤ります。正しい判断のためには知識・情報が重要です。
時間を見つけてそれらを会得しておく必要があります。
6.その人の立場を理解できる人
簡単に「相手の立場になって・・・」とよく言われますが、現実的には経験がない場合、例えば、管理者のトップの立場など、多くの部下や協力者をコントロールしたことのない方には、その立場での思考は理解ができないこともあります。
でも、少なくとも両者同じ地位で、自分の考えに対する相手の考えの比較は可能で、相手の意見が尊重すべきものか否かを冷静に判断することはできると思います。判断ができない場合、先ずは謙虚に行動すべきです。
7.小さな幸せを感じられる人
人の幸せは、小さな幸せの集まりです。貧しい国の人々でも素晴らしい笑顔を見せています。特に世間ずれしていない子供のそれはいいものです。
いま、質素であっても箸が持てご飯が食べられる、テレビは無くてもラジオが楽しめる、美味しい飲み物が無くても、泥水・川水をすくうことなく水が飲める、などなど、周りを見つめれば、沢山の幸せがあります。それが多いほど幸せ度が高くなるだけです。
6.その人の立場を理解できる人
簡単に「相手の立場になって・・・」とよく言われますが、現実的には経験がない場合、例えば、管理者のトップの立場など、多くの部下や協力者をコントロールしたことのない方には、その立場での思考は理解ができないこともあります。
でも、少なくとも両者同じ地位で、自分の考えに対する相手の考えの比較は可能で、相手の意見が尊重すべきものか否かを冷静に判断することはできると思います。判断ができない場合、先ずは謙虚に行動すべきです。
7.小さな幸せを感じられる人
人の幸せは、小さな幸せの集まりです。貧しい国の人々でも素晴らしい笑顔を見せています。特に世間ずれしていない子供のそれはいいものです。
いま、質素であっても箸が持てご飯が食べられる、テレビは無くてもラジオが楽しめる、美味しい飲み物が無くても、泥水・川水をすくうことなく水が飲める、などなど、周りを見つめれば、沢山の幸せがあります。それが多いほど幸せ度が高くなるだけです。
多くの人がそんな小さな幸せは忘れて、上ばかり見ていますが、自分より恵まれな人々がも多いことも考えるべきだと思います。小さな幸せを感じることのできない方は、永久に幸せになる(自分が感じる)ことはありません!
8.心が温かい人
心が温かいとは、愛(情)というバブルで、他人を包み込むことです。
愛が無ければ、これまで書いてきた項目はすべて成り立ちません。
8.心が温かい人
心が温かいとは、愛(情)というバブルで、他人を包み込むことです。
愛が無ければ、これまで書いてきた項目はすべて成り立ちません。
「愛」とはひと言で表現できないほど偉大なもので、多くの場合、自分と他人の間に存在する優しい思いやりのある目に見えない抽象的な表現です。
同時に、自分自身の体を労(いた)わることも含まれます。それらを他人に対して表現できる人のことを「心が温かい人」と言ってよいと考えます。
同時に、自分自身の体を労(いた)わることも含まれます。それらを他人に対して表現できる人のことを「心が温かい人」と言ってよいと考えます。
最後の「愛」に関し
highdy は哲学者でも、宗教家でもありませんが、「愛」というものは、「与えよ、さらば与えられん」であって、与えることが先であり、「愛していないのに愛して欲しい」と願うのは理屈が合わない気がします。また、「愛は無償の奉仕」であって、「愛して欲しいから愛したくなくても愛す」というのも考えられませんよね。
宇宙の真理は一つであっても、説く人により変わり、放送局から出る電波は同じでも、受ける受信機で音色が変わるのと同じです。新約聖書も英訳でその意味が全く変わります。
宇宙の真理は一つであっても、説く人により変わり、放送局から出る電波は同じでも、受ける受信機で音色が変わるのと同じです。新約聖書も英訳でその意味が全く変わります。
新約聖書「マタイの福音書」第7章を
Ask, and it will be given to you; seek, and you will find; knock, and it will be opened to you. For everyone who asks receives, and he who seeks finds, and to him who knocks it will be opened.
と、訳せば、求めよ、さらば与えられん
Ask, and it will be given to you; seek, and you will find; knock, and it will be opened to you. For everyone who asks receives, and he who seeks finds, and to him who knocks it will be opened.
と、訳せば、求めよ、さらば与えられん
新約聖書「ルカの福音書」第6章を
If you give to people unconditionally and do so it, a blessing of God will be given you.
と、訳せば、与えよ、さらばあたえられん
If you give to people unconditionally and do so it, a blessing of God will be given you.
と、訳せば、与えよ、さらばあたえられん
前者は、ビジネスの世界でよく使われる表現で、highdy は大元の原文を知らないのですが、精神的な教えとして後者の支持派です。英文の得意な方は、調べてみてはいかがでしょうか。
本日もご来訪いただきありがとうございました。
今日の記事も「ごもっとも」と思うことばかり書かれていますが、しかし人間のできていない私には至難の業です。
姑の問題も姑には私の娘を可愛がってもらったという恩はありますが、しかし嫁いできて数年間、里帰りしたくてたまらなかった私を、姑の私への妬みから絶対に帰らせなかったことは、今でも恨みに思っています。忘れようとしても忘れられない私が悪いのかもしれませんが、これは人間の業のようなもので、だから嫁と姑の問題は深いのだと思います。
だからハイディさんのこの記事は理解しますが、しかし、綺麗事を書いているという感想も持ちます。
までその全てがまさに、それぞれよくわかりますが
残念ながら、その殆どが私に欠けているものばかり
ただ、中途半端な私も、毎日いろんな皆さんの
指導や諫言を頂いてできるだけ謙虚に生きている
でも、この歳になりますと一から八までは無理
出来たら今年は一つくらい自分のものにして
己を高める努力はしてみたいと思います
「ワイコマです」さんの昨日、今日の謙虚なコメントに見習いたいくらいです。
highdyさんが仰るとおり、「人生で一番長い付き合いの夫婦間」では特に自己主張や、強引、傲慢さが出るケースが多いと思いますし、それが他の場所でも無意識に出る場合もあると思うと、やはりこんな機会に振り返ってみるのも大切なんでしょうね。
3~8の一つでも無意識のうちに出来ているように日頃から自分の行動を振り返り努力したいと思います。
コメントをありがとうございます。感謝します。
リアクションボタンは以前にも書いた通り、私なりの考えがあってのことですが、お蔭で びこ さんのように真剣に読んでくださっている方が徐々に増えています。
「綺麗事を書いているという感想」も確かでしょう、人によりおかれた環境と経験からその評価は分かれると思います。私でも、はた(端)から見れば「何、あいつ、偉そうなことを書いて、自分はどうなんだ!」と評価される点は多々あり、自分では気づいていないこともあると思います。
しかし、何も意識しないより常日頃心がけていた方が、結果として良い行動ができると考えています。
姑さんの件も、将来のお孫さんのことを考えあなたに厳しくされたもので、あなたが可愛いためにお孫さんを可愛がってもらえたものです。「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」の逆の行動です。ですから「いま生きている」存在の有難さは、を「恨み」を「感謝」に変えるべきもので、多くの方々のサポートのお蔭で生かされています。
戦後の教育は、精神的な教育について昔に比べ不適切な部分があり、多くの方はその教育を受けたので止むを得ない面があります。「業」(仏教用語: 前世の善悪の行為により、この現世で受ける報い)という表現もありますが、あなたを磨くために「神が与えた試練」という見方もあります。
ワイコマ さん いつもコメントをありがとうございます。
上のコメント返しにも書きましたが、人は自分の評価は自分では難しいもので、かく言う私も完全な人間ではなく、皆様と同じ成長段階にあります。誰でも自分で気づかない能力(または長所)や欠点を持つもので、死ぬまでにどれだけ人徳を積んだ素晴らしい人間として成長できたか、人生の卒業式の様子で総合評価されます。
目標のない計画はあって無いものです。ただ、計画実行のためには最善を尽くすべきで、お互い身内や他人に迷惑をかけず喜ばれる存在でありたいものですね。
何かの機会をつくって、過去を振り返り反省することはとても大切なことでだと思います。
無意識に出る行動が問題で、日頃から心がけていないと「人の習慣は恐ろしい」もので、ついうっかりがあります。
私もそうですが、朝起きて「今日も生きていた」なんて感謝する方は宗教家くらい(宗教家でも怪しい!)で、多くの方が意識していません。感謝を忘れています。
しかし、人の行動の殆どは無意識に出るもので、日頃から習慣づいていない行動は間違った良くないものもあります。
お互いに刺激を与え、コメントで交流を深め、 Shimaさんからも学ばせていただきたいと思います
組織上、担当しているのだからやるのが当然という態度で仕事を回す人がいますがそういう人は嫌われることが多いのを見て来ました。
何事も頼んで自分の為にやってもらった事であれば感謝の気持ちを表す「ありがとう」の一言を言うようにしています。
これまで、同僚や部下(もういませんが)にも「人間はロボットではないから気持ちよく仕事をしてもらえるように頼んだ方が良い」と言って来ました。
でも、夫婦間となると話が変わってしまい、いつも当たり前になっていることには「ありがとう」と言っていません。
「ありがとう」の一言をいっていれば喧嘩が減るとおもうのですが、普段、言っていないのに言い過ぎると変に疑われそうな気もして難しいです。
世の中、完璧な人はいないのでできるだけ良いところを見るようにすれば腹が立つことが減りそうな気がします。
(家族間も含めて)
いつもご訪問ありがとうございます。
comet3 さんが仰るように、本当にその通りです。小さな「感謝の気持ち」が凄く大切です。
「人間はロボットではない」ではないので、ほんの小さなひと言でいいのです、相手に表すことで、次回も仕事が頼みやすくなります。
我が家でも、小さなしてもらったことに対して、互いにひと言「ありがとうね」と声がけします。結婚当初はそうでもなかったのですが、私がすることを紫陽花が真似てするようになりました。
ボランティアもそうです。ほんの小さな寄付(少額ならぬ笑額)もそうですが、性格が良くない(当時少々病気気味で、我が家の大切な草花を抜き取ったり、いろいろと・・・)老女が近所におられましたが、紫陽花が買い物を運んであげたり、病院に連れてってあげているうちに、すっかり変わられ、御礼の品物を持って来られたり、ペコペコとご挨拶をされたり、すっかり変わりました。別の聾唖(ろうあ)者の手話通訳なども、私は一度も「ボラティアをしなさい」とは言ったことがありません。つまり、「他人を変えようと思ったら、自分を変えること」、お手本を示すことです。子供の教育と同じで、子供は親や先生の背を見て育ちます。
仰るように「何事にも完璧な人」はいません。良い所を見て学ばせてもらえばいいと思います。
私が評論している方々も、本当は何か良い面もお持ちの筈なんですがネ・・・。
2. 謙虚さがあること 虚栄を張らない人。
これは謙虚さとは少し違うかもしれませんが メジャーで投打に大活躍の大谷翔平選手の試合を見ていた時 彼が前の打者の 塁上に置かれていたバットを片づけたり グラウンドに落ちているゴミを拾い 自分のポケットに入れる姿を 望遠レンズが拾っていました。あれだけの選手になっても 高校野球の時と同じく そんなことが自然にできる姿に感動し 彼の育ちの良さと謙虚な心に 清々しさを感じました。
3. 感謝の心を持てる人
これは私は 大いに反省せねばなりません。お四国巡礼中は なにごとにも感謝する心を習いましたのに 結願過ぎて何年かを経ると すっかり感謝の気持ちが薄らいでおり ありがたい感謝するの気持ちを今一度 頭に植え付けねばなりません。
昨日も私はコメントに書きましたが 今日もワイコマさまの 謙虚な心に触れました。
そして highdyさまの丁寧な返コメの一つ一つを読むと そうだよねぇと思うことばかりです。
日ごろのhighdyさまの記事は 私には難しすぎて分らないことが多いですが 時々はこのような記事の掲載をお願いいたします。
コメントをありがとうございます。
大谷選手のように技術にも優れ、精神的にも立派な人は今後スポーツ界には、そう沢山は現れないだろうと思っています。稀に見る人間的に素晴らしい野球人です。恐らく恵まれた環境で心優しい両親に育てられたのではないか推測します。
四国巡礼での結願、お疲れ様でした。人は忘れる動物ですから、学んだことも時が経てば忘れることもあります。適当な機会を見つけて、自分自身にリマインドすることも大切なことです。その中でもあらゆることに感謝の気持ちを忘れないことが、自然に自分や他人を大切にしながら生きるべきものであると気づきます。私も皆様のブログ記事で、多くのことを学ばせていただいています。
highdy のことばシリーズは、私が中小企業から大企業に転職して何年か経過した時(多分30歳前半)に、在職していた会社の上司から講演を依頼されたとき配布した資料からの抜粋です。残念ながら当時の原稿は残っておらず、若い頃中小企業で非常に苦労したこと、および大企業に転職してから学んだすべての経験を元に思い出しながら書いているものです。
同シリーズに書いてあることは、「老人介護のエピソード」(https://highdy-pc.jimdo.com/ ご参照)に流れる精神的な思想と同じものです。