◎宝塚歌劇 3 歴史 1
★小林一三(いちぞう) 宝塚歌劇団の創始者
「小林一三」北康利、PHP研究所
「宝塚百年の夢」植田紳爾、文春新書
「鬼才縦横」小島直記、日経ビジネス文庫
などによります
・1873年(明治6年)1月3日 山梨県北巨摩郡河原部村に生まれた
1月3日に生まれたので「一三」という名前がつけられた
・1885年(明治18年)12歳 小学高等科を卒業
・1886年(明治19年)13歳 私塾 成器舎に入り、寄宿舎生となり、英数国漢などの教育を受ける
・1887年(明治20年)14歳 腸チフスにかかり成器舎を退学
・1888年(明治21年)15歳 2月13日に慶應義塾に入学するために上京
2月14日に試験を受けて即日入学、「予科四番の一」というクラスに編入された
9月17日、童子寮と呼ばれる寄宿舎に移り、寮誌「寮窓の灯」の主筆となる
・1890年(明治23年)17歳 外塾と呼ばれる寄宿舎に移る
4月4日、東洋英和女学校校長の夫ラージという外国人教師殺害事件が起こる
この事件を題材として一三は、「山梨日日新聞」に「練絲痕」という推理小説の連載を始める
3、4回連載が続いたころ、慶應義塾から呼び出しを受け、警官から取り調べるから麻布警察に同行するように言われた
拘引されずにすんだものの、9回連載で中止する
・1892年(明治25年)19歳 慶應義塾を卒業
・1893年(明治26年)20歳 1月に三井銀行に就職する予定だったが、4月4日、ようやく三井銀行に出勤した
東京本店の秘書課に配属された
月給13円(小学校の教師の初任給が7円ほどの時代だった)という高給だった
9月、大阪支店に転勤、金庫係を命じられた
・1907年(明治40年)34歳 1月23日に三井銀行を退職
4月、阪鶴鉄道監査役となる
6月30日、箕面有馬電気軌道株式会社創立の追加発起人となる
8月1日、阪鶴鉄道は国有となり、監査役を辞任
10月19日、大阪商工会議所において箕面有馬電気軌道株式会社の設立総会が開催され、社長空席のまま、一三は専務取締役に就任し、経営の全権がゆだねられた
・1908年(明治41年)35歳 10月22日、大阪―池田間、箕面支線、池田―宝塚間の軌道敷設工事の認可を得た
・1910年(明治43年)2月、池田―宝塚間と箕面―石橋間の第1期線が竣工した
3月10日、箕面有馬電気軌道は現在の宝塚線(梅田―宝塚間)と箕面支線(梅田―箕面間)に相当する区間で営業が開始される
最初に走った車両は木造のボギー電車(1形)で1両編成だった
梅田―宝塚間を50分で結んだ
・6月、池田室町住宅地89100平米の分譲を開始
100坪を1区画とし、2階建てで部屋は5つか6つ、建売住宅200戸
頭金50円、残金を10年払いという、全国初の割賦販売の試みであった
住宅ローンの先駆けであった
街づくりとして、道路を舗装し、街路樹を植え、道には街灯を設置し、下水を完備し、公園を作り、食料品店やクリーニング店を誘致するなどした
★小林一三(いちぞう) 宝塚歌劇団の創始者
「小林一三」北康利、PHP研究所
「宝塚百年の夢」植田紳爾、文春新書
「鬼才縦横」小島直記、日経ビジネス文庫
などによります
・1873年(明治6年)1月3日 山梨県北巨摩郡河原部村に生まれた
1月3日に生まれたので「一三」という名前がつけられた
・1885年(明治18年)12歳 小学高等科を卒業
・1886年(明治19年)13歳 私塾 成器舎に入り、寄宿舎生となり、英数国漢などの教育を受ける
・1887年(明治20年)14歳 腸チフスにかかり成器舎を退学
・1888年(明治21年)15歳 2月13日に慶應義塾に入学するために上京
2月14日に試験を受けて即日入学、「予科四番の一」というクラスに編入された
9月17日、童子寮と呼ばれる寄宿舎に移り、寮誌「寮窓の灯」の主筆となる
・1890年(明治23年)17歳 外塾と呼ばれる寄宿舎に移る
4月4日、東洋英和女学校校長の夫ラージという外国人教師殺害事件が起こる
この事件を題材として一三は、「山梨日日新聞」に「練絲痕」という推理小説の連載を始める
3、4回連載が続いたころ、慶應義塾から呼び出しを受け、警官から取り調べるから麻布警察に同行するように言われた
拘引されずにすんだものの、9回連載で中止する
・1892年(明治25年)19歳 慶應義塾を卒業
・1893年(明治26年)20歳 1月に三井銀行に就職する予定だったが、4月4日、ようやく三井銀行に出勤した
東京本店の秘書課に配属された
月給13円(小学校の教師の初任給が7円ほどの時代だった)という高給だった
9月、大阪支店に転勤、金庫係を命じられた
・1907年(明治40年)34歳 1月23日に三井銀行を退職
4月、阪鶴鉄道監査役となる
6月30日、箕面有馬電気軌道株式会社創立の追加発起人となる
8月1日、阪鶴鉄道は国有となり、監査役を辞任
10月19日、大阪商工会議所において箕面有馬電気軌道株式会社の設立総会が開催され、社長空席のまま、一三は専務取締役に就任し、経営の全権がゆだねられた
・1908年(明治41年)35歳 10月22日、大阪―池田間、箕面支線、池田―宝塚間の軌道敷設工事の認可を得た
・1910年(明治43年)2月、池田―宝塚間と箕面―石橋間の第1期線が竣工した
3月10日、箕面有馬電気軌道は現在の宝塚線(梅田―宝塚間)と箕面支線(梅田―箕面間)に相当する区間で営業が開始される
最初に走った車両は木造のボギー電車(1形)で1両編成だった
梅田―宝塚間を50分で結んだ
・6月、池田室町住宅地89100平米の分譲を開始
100坪を1区画とし、2階建てで部屋は5つか6つ、建売住宅200戸
頭金50円、残金を10年払いという、全国初の割賦販売の試みであった
住宅ローンの先駆けであった
街づくりとして、道路を舗装し、街路樹を植え、道には街灯を設置し、下水を完備し、公園を作り、食料品店やクリーニング店を誘致するなどした