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◎イスラーム 19 正統カリフ時代 2

2015-08-14 21:17:08 | 宗教
イスラーム 19 正統カリフ時代 2

✭正統カリフ

・初代 アブー・バクル(573頃-634)
・2代 ウマル・イブン・ハッターブ(592-644)
・3代 ウスマーン・イブン・アッファーン(?-656)
・4代 アリー・イブン・アビー・ターリブ(?-661)


第2代正統カリフ ウマル・イブン・ハッターブ

 634年にアブー・バクルが没するが死の床で後継者に、ウマル・イブン・ハッターブが指名され、第2代正統カリフに就任した

635年、ハーリドはシリアの古都ダマスカスを占領した

636年、ヤルムーク河畔の戦いでムスリム軍は、ビザンツ帝国皇帝ヘラクレイオス率いるビザンツ軍に勝利し、ビザンツ帝国はシリア(現在のシリア、ヨルダン、レバノン、イスラエルを含む領域)の全領域を失った

ササン朝ペルシアの滅亡

 637年、将軍サードはイラクの都市ナジャフの南にあるカーディスィーヤに進出し、ここでササン朝ペルシアの軍に勝利した(カーディスィーヤの戦い)
 この後、ティグリス川を渡ったサードは、ササン朝の首都クテシフォンを陥落させた

 さらに642年には、イラン西部のニハーワンドの戦いで、ササン朝第26代王ヤズデギルド3世の軍に勝利し、ササン朝の滅亡を決定的にした
 ヤズデギルド3世は、651年メルヴ近くの水車小屋で部下によって殺され、ササン朝ペルシアは完全に滅亡した

○633年、アムル・ブン・アルアースはアブー・バクルの命令によってシリア遠征軍の司令官となる
 アムルは641年4月、ビザンツ帝国によるエジプト支配の要であったバビロン城を陥落させた

 アレクサンドリアにはビザンツ海軍の基地がおかれていた
 アレクサンドリアについては、アラブ軍による包囲攻撃ののち、両者のあいだで交渉がおこなわれ、641年11月、協定によってアラブ軍に明け渡された

○アラブ・ムスリム軍は、東方ではササン朝ペルシアを倒して、イラク・イランを支配下におさめた
 西方では、ビザンツ帝国にシリア・エジプトからの撤退をよぎなくさせた

ウマル

・はじめイスラームの迫害者だったが、改宗とともに熱心な信徒となった
・戦利品の分配を改めて、アラブ戦士には一定の俸給を支払うことを定めた
・ウマルは「神の使徒の後継者の後継者」と呼ばれたが、略してハリーファとだけ称した
 ウマルが好んで用いたのは、「信徒たちの長(アミール・アルムーミニーン)」の称号であった
 アミールは軍司令官を意味する

 これ以後、歴代のカリフたちも公式の場では、このアミール・アルムーミニーンの称号を好んで用いたとされている

ヒジュラ暦を定めた
・家族法、刑法などの法規定の整備も行った
・被支配下の人々から税を徴収する一方、被支配下の民は、生命財産の安全保障を得、信仰の保持を許された
 都市の中央には礼拝所が建設され、クルアーンが朗唱された

●ムスリムはムハンマドの教えを広めることを使命としていたが、征服地の住民を改宗させることが目的ではなかった
 キリスト教やユダヤ教などの1神教を信じている場合は改宗をせまることはなかった

◎イスラーム 18 正統カリフ時代 1

2015-08-14 21:10:16 | 宗教
◎イスラーム 18 正統カリフ時代 1

正統カリフ

 ムハンマドの死後に、ハリーファ(後継者または代理人)としてイスラーム共同体(ウンマ)の長となった4人で、ムスリムによって「正しい指導者」と認められた

・初代 アブー・バクル(573頃-634)
・2代 ウマル・イブン・ハッターブ(592-644)
・3代 ウスマーン・イブン・アッファーン(?-656)
・4代 アリー・イブン・アビー・ターリブ(?-661)


○ムハンマドは632年6月8日(ヒジュラ暦11年ラビーウ・アウワル(第3月)13日)に亡くなった
 ムハンマドは生前後継者を指名していなかった

 ムハンマドはマディーナの中心部に住居兼礼拝所を構えていた
 その周辺にマッカからの移住者が住んでいた

アリー
 ムハンマドには4人の娘がいたが、ムハンマドが亡くなった時点で、うち3人はすでに死去し、末娘のファーティマだけが生きていた
 ファーティマの夫はアリーという人物で、ムハンマドの従兄弟であり、ムハンマドに養子同様に育てられていた
 アリーがムハンマドのあとを継ぐ指導者であろうと考えた人もいたが、30代で指導者としてはまだ若かった

初代正統カリフ アブー・バクル

 ムハンマドが亡くなったその日のうちに、マディーナの人々が集まっていた家に、移住者の長老たちが押しかけ、長老のアブー・バクル(60歳をすぎていた)にたいする「忠誠の誓い(バイア)」を行った
 翌日、メディナのムスリム全員によるバイアが行われ、アブー・バクルが「アッラーの使徒の代理(ハリーファ・ラスール・アッラーフ)」に就任することが正式に決まった
 アブー・バクルがムスリムの指導者として初代正統カリフ(ハリーファ)に選ばれた

 その後、イスラーム共同体の指導者の地位を引き継いだ者を、カリフと呼ぶ

リッダ(背教)戦争

・ムハンマドの死とともに、かつてムハンマドに服従していた各地のアラブ諸部族が離反した

 盟約はムハンマド個人との間に結ばれたのだから、ムハンマドの死によって彼との盟約は解消されたと考え、ザカート(喜捨税)やウシュル(10分の1税)の支払いをやめた
 ナジュド高原南部のヤマーマ地方では、ハニーファ族のムサイリマが預言者と称し(ムスリム側は「偽預言者」と呼ぶ)、離反者たちを集めて反ムスリムの運動を展開した
 ムスリム側はこれを背教(リッダ)として討伐しようとした(リッダ戦争)
 カリフ アブー・バクルは、633年、将軍ハーリド・イブン・アルワリードを討伐軍の司令官に任命した
 ハーリドはムサイリマを殺害し、多数の離反者を討伐した

大征服のはじまり

 ハーリドは633年夏、イラクへと転戦した
 アラブ軍は、肥沃なイラク平野の、穀物やナツメヤシ、樹木の緑に目を見張り、この地方をサワード(黒い土地)と名づけた
 濃い緑色を「黒」とみなしていた

 ハーリドはヒーラおよびユーフラテス川下流域の諸都市を征服した
 634年、アブー・バクルの指示でシリア地方に転戦した
 後任の司令官にはサード・ブン・アビー・ワッカースが任命された