ビタミンおっちゃんの歴史さくらブログ

STU48 音楽、歴史 などいろいろ

◎sin(サイン)の由来

2015-08-20 22:41:18 | 数学
sin(サイン)の由来

★3角法で基本となるのは正弦関数 sin である

○3角法の起源について、はっきりしたことはわかっていないが、天文学の計算の必要から生まれたとされる

・最古のものは、バビロニアの天文学上の目的で、3角法の前身のようなものが存在した可能性が考えられる

 バビロニア天文学は、紀元前5世紀頃には体系化されたと推定されている
 バビロニア数学では60進法の採用が見られ、天文計算は60進法で行われた
 バビロニア数学では、位取りによる数表記が発明されたが、「ゼロ」にあたる記号がなかったため完全な位取り記数法ではなく、数表記にあいまいさがあった

 「黄道12宮」という概念はバビロニアで生まれた
 バビロニアで円周が360度と定義された
 360度の天体図を30度ずつの「黄道12宮」に分けたものに基づいて1年を360日と決めていた

 現代で時間や角度の単位で60進法を使っているのは、バビロニア数学の名残りである

ヒッパルコス(紀元前150年頃)

 円の角とそれに対する弦の長さの問題の研究を始めたのは、アレクサンドリアのヒッパルコスであるとされている

・ギリシア(アレクサンドリア)のヒッパルコスは、鋭角に対する正弦表(円の中心角に対してその弦の長さを計算した表)を作った
 ヒッパルコスの実際の表は残っておらず、その一部がプトレマイオスの「アルマゲスト」(2世紀)に載っている(1/2度ごとの弦の長さが与えられている)

インドの3角法

 アレクサンドリアで、ヒッパルコス、メネラオス、プトレマイオスなどの天文学者によって3角法の基礎が築かれ、インドに伝えられた

 インドでの初期の3角法は、天文学に必要な1分野だった
 インド天文学は当時の最先端の天文学だった

・アールヤバタ(476年生まれ)の「アールヤバティーヤ」
 古い天文書「シッダーンタ」の結果を修正して体系化したもの
 数学を扱った第2章で、半弦表を用いた計算によって3角法を導入している
 アールヤバタは円周率の近似値として3.1416を用いた

・ヴァラーハミヒラ(505~587年頃)の「スールヤ・シッダーンタ」
 3角法についての解説がある
 3角法の3個の関数ジュヤ(半弦、またはインドの正弦)、コジュヤ(余弦)、ウトゥクラマジュヤ(正接)が与えられている

 正弦は半径1の円の中心角xに対する弦の長さであった

 その半分、半弦の長さが現代での正弦sin xに相当する

・ブラフマグプタ(598年生まれ)の「ブラフマースプタ・シッダーンタ」
 正弦表で与えられている角度の中間にあたる角度の正弦を得る方法を述べた

・マーダヴァ(1340~1425年頃)
 マーダヴァは3角関数の無限級数を、ニュートンより約300年前に発見したかもしれない
 正弦級数および余弦級数が初めてヨーロッパに現れたのは、1676年に王立協会総裁オルデンバーグにニュートンが出した手紙の中である

 マーダヴァの正弦級数および余弦級数は、天文計算用の精度の高い正弦・余弦表を作るために用いられたのであろう

○cos
 cos(余弦)は、補足の正弦(sinus complement)を短くしたco-sinusからきたようである
 余弦にcosを使ったのは、16世紀イギリスのグンデルである

アラビアの3角法

 インドの3角法はアラビアに伝えられ、アラビア経由でヨーロッパへ入る

 3角関数がアラビアに伝えられたのは、8世紀にアッバース朝(749~1258年)の第2代カリフ アル・マンスールの宮廷を訪れたインドの使節団がもたらした天文書によるとされている

○正接(tan)と余接(cot)の起源はアラビアである

 タンジェント(tan)をつけ加えたのは、9世紀のアラビアの天文学者アル・ハースィブである
 アラビアの天文学者は天文計算のために、インドの正弦表より精密な正弦表の必要性を感じるようになる
 アル・ハースィブは1度の間隔で、10進法で5位まで正確な正弦表と正接表を作った

サインsin の語源

 インドの数学者たちは、3角関数の研究に半弦(現代での正弦)をよく用いていた

 インドの3角法の半弦を表すサンスクリットはjyardha(ジャヤールダー)またはardhajiva(アルダージーヴァ)であるが、短縮されてjya(ジュヤ)またはjiva(ジーバ)となった

 jivaがアラビアに入ったとき、jiba(ジーバ)となるのだが、アラビア語の母音省略のルールによってjibと書かれていた
 アラビア文献の翻訳者だったチェスターのロバートが、それをjaib(ジャイブ)だと思い込んでしまった

 アラビア語のジャイブには、女性の衣服での胸もとの折り返しの意味がある

 ジャイブは12世紀にラテン語のsinus(シーナス)に訳された

 「シーナス」はローマ人の衣服のトーガを「たたむ」「胸」「入江」「曲線」などいろいろな意味を持っていた

 それが現在のsin(サイン)となったわけである

○以上、おもに「非ヨーロッパ起源の数学」ジョージ・G・ジョーゼフ、講談社ブルーバックス
「なっとくする数学記号」黒木哲徳、講談社
「天文学の誕生」三村太郎、岩波書店
によります

◎イスラーム 21 シーア派とスンナ派

2015-08-16 16:06:50 | 宗教
イスラーム 21 シーア派とスンナ派

ウマイヤ朝(661年~750年)

 ムアーウィアは、アリーがまだ存命中の660年に、エルサレムで自らカリフたることを宣言した

 661年、アリーが暗殺されると、ムアーウィアはダマスカスでムスリムから忠誠の誓いをうけ、第5代カリフとして認められた

 661年7月、ムアーウィアはカリフ職の世襲制を宣言し、シリアのダマスカスを首都とするウマイヤ朝(661~750年)を打ち立てた
 ウマイヤ家の出身者が世襲的にカリフ位を独占したため、ウマイヤ朝と呼ばれる

・ムアーウィアはムスリムの指導者としてではなく、イスラーム史上最初の君主としてふるまった
 ムアーウィアはイスラーム史上はじめて見張り、警察、門番をおいた

○征服戦争を再開
・669年 シチリア遠征
・674年 クレタ島征服
・679年 コンスタンティノープル攻撃

カルバラーの悲劇

 680年、ムアーウィアが没し、息子のヤズィードがウマイヤ朝第2代カリフとなった

 アリーの一党はアリーの遺児フサイン(ムハンマドの孫)を擁して兵をあげようとした

 イラクの都市クーファはアリーの一党の本拠地だった
 クーファの不穏な動きを察知したカリフ ヤズィードは軍を派遣し、ウマイヤ朝軍はクーファ西北部のカルバラーに布陣して、フサインの到着を待ちかまえた
 680年10月10日(ヒジュラ暦61年ムハッラム月(第1月)10日)、70余名のフサイン軍と4000名のウマイヤ朝軍が戦った
 フサインとその従者は、女・子供を残して全員殺された

 フサインの遺体は首実検がすんでからカルバラーにもどされ葬られた
 やがて、そこにはモスクが建ち、シーア派の聖なる墓所として伝えられている

アーシュラーの行事

 アーシュラーはヒジュラ暦ムハッラム月10日のことをさす
 ヒジュラ暦61年のこの日、フサインが殺害されたことから、シーア派の信徒はフサインの殉教を哀悼する行事を行う
 フサインの痛みや苦しみを追体験するために、自らの身を棒で叩いたり鎖やナイフで傷つけたりする



シーア派とスンナ派

シーア派

 アリーへの忠誠を守りぬいた人びとをシーア・アリー(アリーの党派)という
「シーア」は「党派」を意味する

 アリーとムアーウィアが戦っている頃は、それぞれ「アリーの党派」「ムアーウィアの党派」であった

 しかし、アリーの死後、ウマイヤ朝の成立によってムアーウィア派は体制派となった
 体制派となったムアーウィア派はもはや派ではなく、反体制派として残ったアリー派がたんにシーア派と呼ばれるようになった

 ムハンマドの家系を重視し、イスラーム共同体の指導者(イマーム)の地位はムハンマドの男性の子孫(アリーの子孫)に引継がれるべきだと主張する人びとがシーア派を形成した

 現在、シーア派が多いのはイランであり、国民の90%近くがシーア派であるという

○シーア派の礼拝
 1日5回の礼拝のうち、2回目と3回目、4回目と5回目をくっつけて行うので、見た目には1日3回しか礼拝しないように見える

シーア派はイスラームの異端ではない
 スンナ派はシーア派がムスリムであることは認めている

シーア派は過激派ではない


スンナ派

 「スンナ」とはムハンマドの言行、あるいは規範のことである

 スンナ派は多数派を構成しているが、ムハンマドによって示された規範に忠実に生きようとする人びとのことであり、もともと「正統派」とか「多数派」の意味は含まれていない

 シーア・アリーが結成されたとき、彼らと一線を画したグループがスンナ派である

 スンナ派は、指導者の地位は、世襲ではなく、もっとも適格な人物が受け継ぐべきだと考えた

 ウマイヤ朝、アッバース朝のカリフたちをイマームとして認めるのがスンナ派である

 現在、スンナ派がとくに多いのはサウジアラビアで、国民の90%がスンナ派であるという

●ウマイヤ朝第5代カリフ アブド・アルマリク(646~705年)

アラブ式貨幣の発行

・アブド・アルマリクは695年、アラブ式貨幣を鋳造、発行した
 このとき、アラビア文字だけの刻銘をもつ、イスラーム独自の金貨(ディーナール)と銀貨(ディルハム)に統一した

 表にはクルアーンの「告げよ、「これぞ、アッラー、唯一なる神、」(第112章1節)を刻み、裏にはアブド・アルマリク自身の名を刻んだ
 これによって、現代と同じように官僚や軍隊への俸給が現金で支払われるようになった

行政用語のアラビア語化

 中央と地方の行政を円滑に行うために、地方ごとに、部署ごとに異なる行政用語、文書用語をアラビア語に統一した
 697年にイラクの租税文書がペルシア語からアラビア語へ書き改められた
 700年にはシリアの行政用語がギリシア語からアラビア語に改められた
 705年にはエジプトの行政用語がコプト語からアラビア語に改められた
 742年にはイランの行政用語がペルシア語からアラビア語に改められた

 改革後、官庁で働く書記もアラブ人の官吏が重用されるようになった

●ジュンディーシャープール

ササン朝ペルシアのシャープール1世がイラン南西部に建設した都市
 ホスロー1世アヌーシーラワーンはここにアレクサンドリアの研究所ムーセイオンに似せた研究所をつくり、付属病院や天文台を設置して、医学、天文学、数学などの研究が行われた

 ギリシアの学術書(ガレノスの医学書、アリストテレスの論理学など)がネストリウス派キリスト教徒たちなどによって、シリア語に翻訳された

ウマイヤ朝時代には、シリア語訳書をアラビア語に翻訳する作業が開始された

◎イスラーム 20 正統カリフ時代 3

2015-08-15 21:17:09 | 宗教
イスラーム 20 正統カリフ時代 3

★正統カリフ

・初代 アブー・バクル(573頃-634)
・2代 ウマル・イブン・ハッターブ(592-644)
・3代 ウスマーン・イブン・アッファーン(?-656)
・4代 アリー・イブン・アビー・ターリブ(?-661)


第3代正統カリフ ウスマーン・イブン・アッファーン

○ウマルは644年、キリスト教徒によって暗殺された

 息を引き取る前に、6名の実力者の名をあげ、後継者の選出をゆだねた
 後継者候補の互選の結果、クライシュ族のウマイヤ家のウスマーン・イブン・アッファーンが第3代カリフに選ばれた

クルアーンの正典化

 クルアーンの断片は、口頭で暗唱したり、ヤシの葉や石板に記録されたりしていた
 ムハンマド没後、暗唱者の死亡が相次ぎ、各地でクルアーンの伝承に異同が生じはじめた

 ウスマーンは、クルアーンを書物の形で統一することとし、ザイド・イブン・サービトたちを責任者としてクルアーン全体を1冊にまとめさせた
 ウスマーンはこれを正本とし、そのコピーを主要都市に送り、他のすべてを焼かせた


第4代正統カリフ アリー・イブン・アビー・ターリブ

○ウスマーンの統治には、公正さが見られないとか、人事で親類縁者をひいきしたとか、不満が生じた
○暴動に発展し、ついにウスマーンは、656年にメディナにやってきた反乱兵士たちに暗殺された

 この兵士たちに、後任カリフとして選ばれたのが、アリーである

○アリーはムハンマドの従弟で、ムハンマドの娘ファーティマと結婚し、ムハンマドの娘婿であって、ムハンマドと同じハーシム家の一員だった
 ところがアリーには、クライシュ族の一部から暗殺の責任者との非難があびせられた

○アリーに反対する勢力は
 ウスマーンの親戚にあたるムアーウィヤが率いるウマイヤ家と
 ムハンマドの未亡人でアブー・バクルの娘のアーイシャとズバイル・イブン・アウワーム、タルハ・イブン・ウバイドゥッラー

○ラクダの戦い

 656年12月、アーイシャ、ズバイル、タルハはイラク南部のバスラ近郊で、アリーの支持者(シーア・アリー「アリーの党派」、たんにシーア派と呼ばれる)と戦ったが、アリーが勝利した

 アーイシャの輿を乗せたラクダの周りで激戦が行われたために、この名で知られる
 ズバイル、タルハは戦死し、アーイシャはマディーナに護送された

○スィッフィーンの戦い(アリーとシリア総督ムアーウィアとの戦い)

 ウマイヤ家のウスマーンが殺害された後、家長の地位を継承したのはシリア総督のムアーウィアである

 拠点をマディーナからイラクのクーファに移したアリーは戦力をたくわえると、657年、ユーフラテス川中流、シリアとイラクの国境近くのスィッフィーンの地で、ムアーウィアの軍と対峙した
 当初、アリーの軍が優勢だったが、ムアーウィア軍の将軍アムル・イブン・アースが槍先にクルアーンの紙片を結びつけて停戦を呼びかける策に出たことで戦闘は中止された

ハワーリジュ派

 アリーの軍からこの妥協を不服とする数千人の離脱者が出た
 彼らはアリーを反逆者(ムアーウィア)との調停を受け入れた者として非難、「判断は神のみが有す」と主張した
 彼らはハワーリジュ(離脱者たち)と呼ばれた

 アリーはやむをえず、ナフラワーンの戦いでハワーリジュ派の多くを殺害した

・661年1月、アリーはクーファのモスク近くでハワーリジュ派の刺客によって暗殺された

●アリーの死によって、「正統カリフ時代」は終わりをつげる

◎イスラーム 19 正統カリフ時代 2

2015-08-14 21:17:08 | 宗教
イスラーム 19 正統カリフ時代 2

✭正統カリフ

・初代 アブー・バクル(573頃-634)
・2代 ウマル・イブン・ハッターブ(592-644)
・3代 ウスマーン・イブン・アッファーン(?-656)
・4代 アリー・イブン・アビー・ターリブ(?-661)


第2代正統カリフ ウマル・イブン・ハッターブ

 634年にアブー・バクルが没するが死の床で後継者に、ウマル・イブン・ハッターブが指名され、第2代正統カリフに就任した

635年、ハーリドはシリアの古都ダマスカスを占領した

636年、ヤルムーク河畔の戦いでムスリム軍は、ビザンツ帝国皇帝ヘラクレイオス率いるビザンツ軍に勝利し、ビザンツ帝国はシリア(現在のシリア、ヨルダン、レバノン、イスラエルを含む領域)の全領域を失った

ササン朝ペルシアの滅亡

 637年、将軍サードはイラクの都市ナジャフの南にあるカーディスィーヤに進出し、ここでササン朝ペルシアの軍に勝利した(カーディスィーヤの戦い)
 この後、ティグリス川を渡ったサードは、ササン朝の首都クテシフォンを陥落させた

 さらに642年には、イラン西部のニハーワンドの戦いで、ササン朝第26代王ヤズデギルド3世の軍に勝利し、ササン朝の滅亡を決定的にした
 ヤズデギルド3世は、651年メルヴ近くの水車小屋で部下によって殺され、ササン朝ペルシアは完全に滅亡した

○633年、アムル・ブン・アルアースはアブー・バクルの命令によってシリア遠征軍の司令官となる
 アムルは641年4月、ビザンツ帝国によるエジプト支配の要であったバビロン城を陥落させた

 アレクサンドリアにはビザンツ海軍の基地がおかれていた
 アレクサンドリアについては、アラブ軍による包囲攻撃ののち、両者のあいだで交渉がおこなわれ、641年11月、協定によってアラブ軍に明け渡された

○アラブ・ムスリム軍は、東方ではササン朝ペルシアを倒して、イラク・イランを支配下におさめた
 西方では、ビザンツ帝国にシリア・エジプトからの撤退をよぎなくさせた

ウマル

・はじめイスラームの迫害者だったが、改宗とともに熱心な信徒となった
・戦利品の分配を改めて、アラブ戦士には一定の俸給を支払うことを定めた
・ウマルは「神の使徒の後継者の後継者」と呼ばれたが、略してハリーファとだけ称した
 ウマルが好んで用いたのは、「信徒たちの長(アミール・アルムーミニーン)」の称号であった
 アミールは軍司令官を意味する

 これ以後、歴代のカリフたちも公式の場では、このアミール・アルムーミニーンの称号を好んで用いたとされている

ヒジュラ暦を定めた
・家族法、刑法などの法規定の整備も行った
・被支配下の人々から税を徴収する一方、被支配下の民は、生命財産の安全保障を得、信仰の保持を許された
 都市の中央には礼拝所が建設され、クルアーンが朗唱された

●ムスリムはムハンマドの教えを広めることを使命としていたが、征服地の住民を改宗させることが目的ではなかった
 キリスト教やユダヤ教などの1神教を信じている場合は改宗をせまることはなかった

◎イスラーム 18 正統カリフ時代 1

2015-08-14 21:10:16 | 宗教
◎イスラーム 18 正統カリフ時代 1

正統カリフ

 ムハンマドの死後に、ハリーファ(後継者または代理人)としてイスラーム共同体(ウンマ)の長となった4人で、ムスリムによって「正しい指導者」と認められた

・初代 アブー・バクル(573頃-634)
・2代 ウマル・イブン・ハッターブ(592-644)
・3代 ウスマーン・イブン・アッファーン(?-656)
・4代 アリー・イブン・アビー・ターリブ(?-661)


○ムハンマドは632年6月8日(ヒジュラ暦11年ラビーウ・アウワル(第3月)13日)に亡くなった
 ムハンマドは生前後継者を指名していなかった

 ムハンマドはマディーナの中心部に住居兼礼拝所を構えていた
 その周辺にマッカからの移住者が住んでいた

アリー
 ムハンマドには4人の娘がいたが、ムハンマドが亡くなった時点で、うち3人はすでに死去し、末娘のファーティマだけが生きていた
 ファーティマの夫はアリーという人物で、ムハンマドの従兄弟であり、ムハンマドに養子同様に育てられていた
 アリーがムハンマドのあとを継ぐ指導者であろうと考えた人もいたが、30代で指導者としてはまだ若かった

初代正統カリフ アブー・バクル

 ムハンマドが亡くなったその日のうちに、マディーナの人々が集まっていた家に、移住者の長老たちが押しかけ、長老のアブー・バクル(60歳をすぎていた)にたいする「忠誠の誓い(バイア)」を行った
 翌日、メディナのムスリム全員によるバイアが行われ、アブー・バクルが「アッラーの使徒の代理(ハリーファ・ラスール・アッラーフ)」に就任することが正式に決まった
 アブー・バクルがムスリムの指導者として初代正統カリフ(ハリーファ)に選ばれた

 その後、イスラーム共同体の指導者の地位を引き継いだ者を、カリフと呼ぶ

リッダ(背教)戦争

・ムハンマドの死とともに、かつてムハンマドに服従していた各地のアラブ諸部族が離反した

 盟約はムハンマド個人との間に結ばれたのだから、ムハンマドの死によって彼との盟約は解消されたと考え、ザカート(喜捨税)やウシュル(10分の1税)の支払いをやめた
 ナジュド高原南部のヤマーマ地方では、ハニーファ族のムサイリマが預言者と称し(ムスリム側は「偽預言者」と呼ぶ)、離反者たちを集めて反ムスリムの運動を展開した
 ムスリム側はこれを背教(リッダ)として討伐しようとした(リッダ戦争)
 カリフ アブー・バクルは、633年、将軍ハーリド・イブン・アルワリードを討伐軍の司令官に任命した
 ハーリドはムサイリマを殺害し、多数の離反者を討伐した

大征服のはじまり

 ハーリドは633年夏、イラクへと転戦した
 アラブ軍は、肥沃なイラク平野の、穀物やナツメヤシ、樹木の緑に目を見張り、この地方をサワード(黒い土地)と名づけた
 濃い緑色を「黒」とみなしていた

 ハーリドはヒーラおよびユーフラテス川下流域の諸都市を征服した
 634年、アブー・バクルの指示でシリア地方に転戦した
 後任の司令官にはサード・ブン・アビー・ワッカースが任命された