2017年8月30日(水)
山口県萩市(はぎ)
松下村塾(しょうかそんじゅく)
を後にして
次に向かったのは
明治維新には必須だったのでしょう
以下ウィキペディアより
萩反射炉(はぎはんしゃろ)は
山口県萩市にある反射炉跡である
煙突部の遺構が現存しており
国の史跡に指定されている
世界遺産「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の
構成資産のひとつである
萩反射炉は、萩市椿東(ちんとう)に現存している反射炉の遺跡
日本に現存する近世の反射炉は
この萩反射炉と韮山反射炉(静岡県伊豆の国市)
のみであるため貴重な遺構とされる
1924年(大正13年)に国の史跡に指定された
さらに2009年には、韮山反射炉などと共に
九州・山口の近代化産業遺産群として
世界遺産(文化遺産)暫定リストへ掲載され
2015年に「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」
として正式登録された
アヘン戦争や黒船来航によって海防強化の必要性を感じた長州藩(萩藩)は
西洋式の鉄製大砲を鋳造するためにな金属溶解炉として反射炉の導入を計画した
1855年(安政2年)7月
反射炉の操業で先行していた佐賀藩に藩士山田宇右衛門らを派遣した
山田らは鉄製大砲の鋳造法習得を目指していたが
佐賀藩は製砲掛の不在などを理由に拒否した
そこで翌8月、今度は小沢忠右衛門(おざわちゅうえもん)が
改めて佐賀藩に派遣され
長州藩で発明された砲架である
「砲架旋風台(ほうかせんぷうだい)」の模型を持参で交渉
反射炉の見学を許可されたため
そのスケッチを作成して持ち帰ることに成功した
同年11月には村岡伊右衛門(むらおかいえもん)が御用掛に命じられた
1856年(安政3年)に鉄製大砲の鋳造に取り組み始めており
反射炉の「雛形(=試験炉)」が操業されていた記録がある
従来は、萩反射炉は1858年(安政5年)の築造と言われていたが
本格的な操業(鉄製大砲の鋳造)の記録が無いことから
萩反射炉は1856年に建築・使用された試験炉であり
本式の反射炉(実用炉)は築造されなかったとの説が有力視されている
国防とは言え
戦争の道具を作ることが目的だったのは残念なことですが
科学分野の先端技術は
現代の世も
軍事目的なのが実態
原子爆弾の開発が
その後
原子力発電技術に発展したのが良い例ですね
平和な世界を切に願います
だいぶ陽も傾いてきました
つづく