Windsurfing Hokkaido

北海道でのウインドサーフィン活動や旅行記などの日記

世界遺産 萩反射炉

2017-09-07 08:47:37 | 旅行記
2017年8月30日(水)

山口県萩市(はぎ)
松下村塾(しょうかそんじゅく)
を後にして
次に向かったのは



世界遺産  萩反射炉(はぎ はんしゃろ)



製鉄の大量生産が
明治維新には必須だったのでしょう

以下ウィキペディアより

萩反射炉(はぎはんしゃろ)は
山口県萩市にある反射炉跡である
煙突部の遺構が現存しており
国の史跡に指定されている
世界遺産「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の
構成資産のひとつである

萩反射炉は、萩市椿東(ちんとう)に現存している反射炉の遺跡
日本に現存する近世の反射炉は
この萩反射炉と韮山反射炉(静岡県伊豆の国市)
のみであるため貴重な遺構とされる
1924年(大正13年)に国の史跡に指定された
さらに2009年には、韮山反射炉などと共に
九州・山口の近代化産業遺産群として
世界遺産(文化遺産)暫定リストへ掲載され
2015年に「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」
として正式登録された

アヘン戦争や黒船来航によって海防強化の必要性を感じた長州藩(萩藩)は
西洋式の鉄製大砲を鋳造するためにな金属溶解炉として反射炉の導入を計画した
1855年(安政2年)7月
反射炉の操業で先行していた佐賀藩に藩士山田宇右衛門らを派遣した
山田らは鉄製大砲の鋳造法習得を目指していたが
佐賀藩は製砲掛の不在などを理由に拒否した
そこで翌8月、今度は小沢忠右衛門(おざわちゅうえもん)が
改めて佐賀藩に派遣され
長州藩で発明された砲架である
「砲架旋風台(ほうかせんぷうだい)」の模型を持参で交渉
反射炉の見学を許可されたため
そのスケッチを作成して持ち帰ることに成功した
同年11月には村岡伊右衛門(むらおかいえもん)が御用掛に命じられた
1856年(安政3年)に鉄製大砲の鋳造に取り組み始めており
反射炉の「雛形(=試験炉)」が操業されていた記録がある
従来は、萩反射炉は1858年(安政5年)の築造と言われていたが
本格的な操業(鉄製大砲の鋳造)の記録が無いことから
萩反射炉は1856年に建築・使用された試験炉であり
本式の反射炉(実用炉)は築造されなかったとの説が有力視されている


国防とは言え
戦争の道具を作ることが目的だったのは残念なことですが
科学分野の先端技術は
現代の世も
軍事目的なのが実態

原子爆弾の開発が
その後
原子力発電技術に発展したのが良い例ですね

平和な世界を切に願います

だいぶ陽も傾いてきました

つづく




コメント (4)
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松下村塾

2017-09-07 08:21:28 | 旅行記
2017年8月30日(水)

山口県長門市油谷津黄(ながとしゆやつおう)
元乃隅稲成神社(もとのすみいなりじんじゃ)
を後にして
日本海の海岸線を東に進みました

山口県萩市(はぎ)に入りました


松陰神社(しょういん)

幕末の長州藩士
吉田松陰先生を祭神としている神社です

その境内には



松下村塾(しょうかそんじゅく)の建物があります



明治維新はここから始まったと言っても過言ではありませんね



吉田松陰先生が居なければ
明治維新もあり得なかったかもしれません

明治維新が無ければ
日本は外国列強の植民地となっていたことでしょう

この世の日本を創り上げた吉田松陰先生に感謝!

以下ウィキペディアより

松下村塾(しょうかそんじゅく)は江戸時代末期(幕末)に
長州萩城下の松本村(現在の山口県萩市)に存在した私塾である
吉田松陰が同塾で指導した短い時期の塾生の中から
幕末より明治期の日本を主導した人材を多く輩出したことで知られる
29歳で刑死した松陰はじめ、本塾の塾生の多くが幕末の動乱期に若くして死んだ
また維新後にも多くの門下生が萩の乱に参加して刑死し
創設者の玉木文之進も責任を取る形で切腹死している
しかし生き残った多くの卒業生が師や先輩の遺志を継ぎ
幕末の動乱を経て成立した明治新政府の首脳となり
近代日本国家の基礎を築いた

著名な門下生には
全国の倒幕の志士の総元締の役割を果たした久坂玄瑞
吉田稔麿、入江九一、寺島忠三郎等
また藩論を倒幕にまとめ幕府軍を打ち破った高杉晋作がいた
高杉晋作、久坂玄瑞は、「識の高杉、才の久坂」と称され
「松下村塾の双璧」と呼ばれた
また、この2人に吉田稔麿を入れて松陰門下の三秀と言い
さらに入江九一を合わせて「松下村塾の四天王」と称された
幕末を生き延びた伊藤博文、山縣有朋、品川弥二郎、山田顕義
野村靖、松本鼎、岡部富太郎、正木退蔵らは明治新政府で活躍した
その他の出身者には
前原一誠や飯田俊徳、渡辺蒿蔵(天野清三郎)、松浦松洞、増野徳民
有吉熊次郎、時山直八、駒井政五郎、中村精男、玉木彦助、飯田正伯
杉山松助、久保清太郎、生田良佐、境二郎、宍戸璣(山県半蔵)らがいる
桂小五郎(後の木戸孝允)は塾生ではないものの
明倫館時代の松陰に兵学の教えを受けている
井上馨はよく松下村塾の塾生と間違えられることが多いが
高杉・久坂らと関わりは深いものの松陰の教えを直接うけたことは無い
また乃木希典は玉木家の親戚にあたり
塾生ではないが一時玉木家に住み込んで文乃進から指導を受けた
講師には松陰のほかに富永有隣がいる


松下村塾の存在意義が
如何に大きいか計り知れない

つづく



コメント (6)
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元乃隅稲成神社

2017-09-07 04:42:57 | 旅行記
2017年8月30日(水)

山口県下関市角島(つのしま)を後にして
日本海側を東に進みました

山口県長門市(ながと)
に入りました



長門市一番の観光名所にやってきました



山口県長門市油谷津黄(ゆやつおう)



123基の朱色の鳥居が
龍宮から100メートル以上に渡り並んでいます



元乃隅稲成神社(もとのすみいなり)

鳥居の朱色と
樹々の緑と
海と空の青との
コントラストがとても綺麗

突端の断崖の下には
海蝕洞に荒波が打ち付ける度に
海水が空気と一緒に吹き上げる現象が見られる
「龍宮の潮吹」があります

1955年(昭和30年)に
地元の網元の枕元に
白狐が現れ「吾をこの地に鎮祭せよ。」
というお告げがあったことを元に
太皷谷稲成神社(たいこだにいなりじんじゃ )
(島根県鹿足郡津和野町 (かのあしぐん つわのちょう))
から分霊されて建立されたそうです

全国の稲荷神を祀る神社が
「稲荷神社」と記すのに対し
「稲成神社」の字を充てているのはこのためです

商売繁盛、大漁、海上安全は元より
良縁、子宝、開運厄除、福徳円満
交通安全、学業成就、願望成就の大神として
地域の人々の信仰を集めています
(ウィキペディアより)

意外と歴史が浅く
びっくりポンです(笑)

長門市を後にして
さらに海岸線を東に進みます

つづく





コメント (4)
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