2017年9月2日(土)
長崎港で
世界遺産 三菱長崎造船所 ジャイアント・カンチレバークレーン
の写真撮影後向かったのは
やはり満席の様です
大人気のツアーです
この時点では空席がありますが
出港時は満席でした
天然の良港です
そして今も造船の街
長崎です
10時
出航
片道1時間ほどで
長崎県長崎市
端島(はしま)
通称、軍艦島に到着
まさに軍艦に見えますね
なぜか絵になります
廃墟となった街並みを撮影できました
以下、ウィキペディアより
端島(はしま)は
長崎県長崎市(旧高島町)にある島である
明治時代から昭和時代にかけては海底炭鉱によって栄え
東京以上の人口密度を有していたが
1974年(昭和49年)の閉山にともなって
島民が島を離れてからは無人島である
軍艦島(ぐんかんじま)の通称で知られている
長崎県長崎市(旧高島町)にある島である
明治時代から昭和時代にかけては海底炭鉱によって栄え
東京以上の人口密度を有していたが
1974年(昭和49年)の閉山にともなって
島民が島を離れてからは無人島である
軍艦島(ぐんかんじま)の通称で知られている
2015年、軍艦島を構成遺産に含む
「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」が
世界文化遺産に登録された
「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」が
世界文化遺産に登録された
長崎港から南西の海上約17.5キロメートルの位置にある
端島は本来は
南北約320メートル
東西約120メートルの小さな瀬であった
その小さな瀬と周囲の岩礁・砂州を
1897年(明治30年)から
1931年(昭和6年)にわたる6回の埋め立て工事によって
約3倍の面積に拡張した
その大きさは南北に約480メートル
東西に約160メートルで南北に細長く
海岸線は直線的で島全体が護岸堤防で覆われている
面積は約6.3ヘクタール
海岸線の全長は約1200メートル
島の中央部には埋め立て前の岩山が南北に走っており
その西側と北側および山頂には住宅などの生活に関する施設が
東側と南側には炭鉱関連の施設がある
海岸線の全長は約1200メートル
島の中央部には埋め立て前の岩山が南北に走っており
その西側と北側および山頂には住宅などの生活に関する施設が
東側と南側には炭鉱関連の施設がある
この島には植物がとても少なく
住民は本土から土砂を運んで屋上庭園を作り
家庭でもサボテンをはじめ観葉植物をおくところが多かった
また、主婦には生け花が人気であったという
住民は本土から土砂を運んで屋上庭園を作り
家庭でもサボテンをはじめ観葉植物をおくところが多かった
また、主婦には生け花が人気であったという
端島に残る集合住宅の中には
保存運動で話題になった
同潤会アパートより古いものがいくつか含まれている
7階建の30号棟は1916年(大正5年)の建設で
日本初の鉄筋コンクリート造の高層アパートである
保存運動で話題になった
同潤会アパートより古いものがいくつか含まれている
7階建の30号棟は1916年(大正5年)の建設で
日本初の鉄筋コンクリート造の高層アパートである
(ただし1916年の竣工時は4階建て)
30号棟を皮切りに
長屋を高層化したような日給社宅(16号棟から20号棟、1918年)など
次々に高層アパートが建設された
第二次世界大戦前頃
国内では物資が不足し統制が行われ
鉄筋コンクリート造の建物は建設されなくなったが
この島では例外的に建設が続けられ
1945年竣工の65号棟は端島で最大の集合住宅である
長屋を高層化したような日給社宅(16号棟から20号棟、1918年)など
次々に高層アパートが建設された
第二次世界大戦前頃
国内では物資が不足し統制が行われ
鉄筋コンクリート造の建物は建設されなくなったが
この島では例外的に建設が続けられ
1945年竣工の65号棟は端島で最大の集合住宅である
なお、端島で鉄筋コンクリート造の住宅が建設されたのは
狭い島内に多くの住人を住まわせるため
建物を高層化する必要に迫られていたためであり
鉱長や幹部職員などのための高級住宅は木造であった
狭い島内に多くの住人を住まわせるため
建物を高層化する必要に迫られていたためであり
鉱長や幹部職員などのための高級住宅は木造であった
高層アパートの中には売店や保育園
警察派出所、郵便局、パチンコ屋などが
地下や屋上に設けられたものがいくつかあった
また、各棟をつなぐ複雑な廊下は通路としても使われ
「雨でも傘を差さずに島内を歩ける」と言われたという
警察派出所、郵便局、パチンコ屋などが
地下や屋上に設けられたものがいくつかあった
また、各棟をつなぐ複雑な廊下は通路としても使われ
「雨でも傘を差さずに島内を歩ける」と言われたという
岩山の南端貯水槽の隣に灯台があるが
これは閉山によって夜間の島の明かりが無くなったため
その翌年(1975年)に建てられたもので
正式名称は『肥前端島灯台』
灯台は、1998年に強化プラスチック製の「2代目」に建て替えられた
これは閉山によって夜間の島の明かりが無くなったため
その翌年(1975年)に建てられたもので
正式名称は『肥前端島灯台』
灯台は、1998年に強化プラスチック製の「2代目」に建て替えられた
木造や鉄骨造で建設された建物は
元から荒波に晒され続けた(酷い時には島全体を波が覆う事すらあった)上に
風雨のほか防水技術の問題や
無人化によって維持管理がなされなくなったことから急速に劣化しており
1号棟(端島神社)の拝殿をはじめ完全に崩壊したものが多い
なお潮害対策として建物外部に鉄製の部品が用いられることはほとんどなかった
元から荒波に晒され続けた(酷い時には島全体を波が覆う事すらあった)上に
風雨のほか防水技術の問題や
無人化によって維持管理がなされなくなったことから急速に劣化しており
1号棟(端島神社)の拝殿をはじめ完全に崩壊したものが多い
なお潮害対策として建物外部に鉄製の部品が用いられることはほとんどなかった
鉄筋コンクリート造の場合も
その技術が未熟な時期のものも多く
配筋計画の問題のほか
建材の入手難から海砂を混ぜていたこともあり劣化が進んでいる
56・57号棟に設けられたキャンチレバー(張り出しベランダ)は
その設計に不備があったため亀裂が入り
鉄パイプの支柱で補強されていたが
閉山後その支柱も消失し
キャンチレバーが崩落するのは『時間の問題』とみられる
その技術が未熟な時期のものも多く
配筋計画の問題のほか
建材の入手難から海砂を混ぜていたこともあり劣化が進んでいる
56・57号棟に設けられたキャンチレバー(張り出しベランダ)は
その設計に不備があったため亀裂が入り
鉄パイプの支柱で補強されていたが
閉山後その支柱も消失し
キャンチレバーが崩落するのは『時間の問題』とみられる
70号棟(小中学校校舎)は波で土台の土が浚われ基礎杭が剥き出しになっている
30号棟を筆頭に古い鉄筋コンクリート建造物が
取り壊される事無く手付かずのまま放棄されているため
建築工学の観点からも経年劣化などの貴重な資料として注目されている
30号棟を筆頭に古い鉄筋コンクリート建造物が
取り壊される事無く手付かずのまま放棄されているため
建築工学の観点からも経年劣化などの貴重な資料として注目されている
建築士の立場としては
建造物の塩害による劣化や
崩壊に至る経年劣化の様子を見ることのできる
とても貴重な場所だと実感しました
ツアー会社による
高齢の・・・・
じゃない
もとい
恒例の上陸記念写真撮影
笑
長崎港に戻ります
船内では
乗客全員に