今日の最高気温は10度
さすがに寒くなってきました
近所のオーンズスキー場が
先日、11日にオープンしました
とは言っても人工降雪機で
ひとコースだけ整備したものです
いよいよウインタースポーツ開幕なのでしょうが
私はまだまだマリンスポーツを楽しみます
と言うわけで
今日も吹きました
たんたんと合流地点の銭函駅付近から
午前中だけでしたが
8時半から11時まで
ガッツリと石狩で乗りました
セイル6.2㎡
ボード110リッター
左サイド~クロスオン
波、セットであたま
結構大きく巻かれてセイルのトップバテン折れました
予備のバデンと金切ノコ積んでたので10分で修理完了
素手・素足の方もいましたが
私はドライスーツにブーツ・グローブで
フードベストは試着のみでした
セッティングしている時に海上に現れた虹です
解りづらいかも知れませんが、ダブルです
帰りに、たんたんと、ちゃんぽん食べに行きました
ちゃんぽん「一鶴」(いっかく)
札幌市中央区南8条西23丁目
ちゃんぽん 840円
私は本場長崎のちゃんぽんを食べたことがないので
本物を知りませんが、このチャンポンはお勧めです
12時には、並んでて入れません
ニンニク利いてて寒い時期良いですよ
明日はどこに風が吹くのかな~
いずれにしても早く寝て、早起きしよっと・・・・
まだ17時前だけど
おやすみなさ~い
小樽の坂、第二弾
地獄坂
勾配は10パーセント
小樽商科大学
小樽商業高校
旭展望台へと
続く坂道です
地獄と言うほどの勾配ではありませんが・・・・
以下は
小樽市のホームページからの転記です
地獄坂と小樽商科大学
小樽で地獄坂というと、前号で紹介した小樽警察署前の坂のほかに、
小樽商科大学に至る商大通りがあります。
明治45(1912)年2月23日の「小樽新聞」には、この通りが地獄坂という名で登場しています。
この地獄坂の名の由来は、小樽商大の草創期の歴史と切り離すことができません。
小樽商大の始まりである第五高等商業学校が開校したのは明治44年。
この地獄坂の名の由来は、小樽商大の草創期の歴史と切り離すことができません。
小樽商大の始まりである第五高等商業学校が開校したのは明治44年。
まちを挙げての学校誘致の成果でした。
12000坪の敷地は地主たちが寄付し、建設費37万円のうち20万円は小樽区債により賄われました。
小樽区の年間予算が30万円でしたから、この金額がいかに巨額だったかが分かります。
渡辺龍聖(わたなべりゅうせい)が初代校長として着任したのは同年2月。
渡辺龍聖(わたなべりゅうせい)が初代校長として着任したのは同年2月。
当時は緑第一大通りから上には家がなく、「荒涼たる無人境の観」があったと彼は記しています。
地獄坂の深い雪をこいで上り、たどりついた渡辺校長が見たのは、校舎に黒板、いすや机すらないありさま。
地獄坂の深い雪をこいで上り、たどりついた渡辺校長が見たのは、校舎に黒板、いすや机すらないありさま。
今後の苦難が思いやられました。
開校当初は教授、学生の住む家もなく、教授陣は直行寺(じきぎょうじ)で合宿し、
開校当初は教授、学生の住む家もなく、教授陣は直行寺(じきぎょうじ)で合宿し、
学生は雨天体操場を仮寄宿舎として生活し始めました。
全国から集まった一期生72人は、冬は深い雪の中を泳ぐように、
そして夏は暑さに汗をかきながら、坂を上って通学しました。
こうして学生を苦しめた坂は、開校当初から地獄坂と呼ばれるようになったといいます。
渡辺校長は、欧米への留学経験も生かして、全国から優秀な教授陣と諸外国から外国人教師を集めました。
渡辺校長は、欧米への留学経験も生かして、全国から優秀な教授陣と諸外国から外国人教師を集めました。
これらの教授による実践的な商業教育と優れた外国語教育が評判になり、
小樽商大の名は次第に全国に知られるようになりました。
時は流れ、新しい校舎が次々と建てられました。
時は流れ、新しい校舎が次々と建てられました。
昭和56年には旧校舎が解体され、創設以来の建物はすべてなくなりました。
唯一、ギリシャ神話にちなんで「ヘルメスの杖(つえ)」と呼ばれる、
旧校舎本館の屋根にあった避雷針が大学会館に展示され、開学当初をしのぶよすがとなっています。
取材協力:小樽商科大学 倉田稔教授
以前、函館の八幡坂を紹介しましたが
小樽の坂の紹介をしたいと思います
船見坂
勾配15パーセント
名前の通り、船が見えます
国道5号線、小樽駅前の西側の一つ目の信号を
山側に登った坂が船見坂です
三角市場と中央市場が、はす向かいの交差点です
勾配15パーセントって
水平に100行って
垂直に15下る(登る)
勾配のことです
現地で実感してみてください
以下は
小樽市のホームページからの転記です
港を見つめる船見坂 前編
こう配15%を超える船見坂は、小樽でも屈指の急な坂です。市民は腰をかがめながら坂を登ります。
明治37年、函館本線が全線開通しました。また、この年、稲穂町で大火が発生しました。
明治37年、函館本線が全線開通しました。また、この年、稲穂町で大火が発生しました。
この大火により2000戸以上の家屋が焼失し、火は坂のすぐ近くまで迫りました。
この火事がきっかけとなって駅前中央通りと龍宮通りとの中間に防火帯として、
もう一本の道路を開削することになり、その結果誕生したのが船見坂でした。
この坂ができたことにより、三角山斜面一帯の開発が進み、高級住宅地富岡が出現しました。
この坂ができたことにより、三角山斜面一帯の開発が進み、高級住宅地富岡が出現しました。
財をなした小樽の人たちは、あこがれのこの高台に居を構え、
青い海と増毛連山を眺めながら生活したといわれています。
坂の中ほどには函館本線をまたぐ船見橋があり、
さらに坂を登りつめると右手に15%とこう配を示した表示板が立っています。
振り返ればその名のとおり小樽港に停泊する船を眼下に見ることができます。
ここからの眺めは、小樽を舞台としたテレビや映画などに必ずといって良いほど取り上げられています。
坂の登り口には、国道五号との交差点を中心として対角線上に三角市場と中央市場があります。
坂の登り口には、国道五号との交差点を中心として対角線上に三角市場と中央市場があります。
この二つの市場は小樽駅に近接しているという地の利を生かし、
戦後の商品流通の拠点として活躍しました。
当時、ブリキの容器に鮮魚類をあふれるほど詰め込んだ「ガンガン部隊」も、
この市場で商品を仕入れ各地へ出発しました。
当時の流通の担い手「ガンガン部隊」。今はもう、遠い幻の世界のこととなってしまったのでしょうか。
港を見つめる船見坂 後編
船見坂を登り、山頂の旭展望台に続く道からは小樽の街を一望することができます。
旭山がまだ三角山と呼ばれていたころ、子どもたちにとってここは最高の遊び場でした。
明治時代中期、ニシン漁は最盛期を迎えます。ニシンは単に食料としてだけでなく、
明治時代中期、ニシン漁は最盛期を迎えます。ニシンは単に食料としてだけでなく、
ニシン粕(かす)と呼ばれる魚肥としての価値もありました。
このニシン粕を生産するための燃料として、市内の雑木が大量に伐採されましたが、
ここ三角山の海側斜面も同様でした。
この伐採により障害物がなくなり、民家の絶えたあたりには、
石垣を積んで作られた平坦な区画が階段状にいくつもあって、
まさに子どもたちにとって自然の運動場ができあがりました。
夏になると、棒きれ一本で兵隊ごっこ、トンボやバッタなどの虫捕り、
夏になると、棒きれ一本で兵隊ごっこ、トンボやバッタなどの虫捕り、
時には青大将と遭遇して大騒ぎしていました。
そして冬には、身近なゲレンデに早変わりします。
「正ちゃん帽」に「ぼっこ手袋」、長靴にスキーを着けて、
そのまま三角山から船見坂を滑り降りてきます。
ソリはさらにスリル満点。
意味も分らないのに「去れよ!去れよ!」「去らねば山からモコ(蒙古=もうこ)くるぞ!」と叫びながら、
ものすごいスピードで一直線に降りる気分は、実にそう快でした。
当時の交通手段はリヤカーと大八車、せいぜい荷馬車が走っている程度でしたから、
当時の交通手段はリヤカーと大八車、せいぜい荷馬車が走っている程度でしたから、
大人たちは山坂で縦横無尽に遊びまわる子どもたちを黙って見守ってくれたものです。
現在は、美しい緑が育ち、住宅も建ち並んで、子どもたちが走り回る姿はありませんが、
現在は、美しい緑が育ち、住宅も建ち並んで、子どもたちが走り回る姿はありませんが、
港を見おろし、そっと耳を澄ませば、今にも子どもたちの笑い声が聞こえてくるようです。
協力:小樽史談会