甥と姪の大学進学に喜ばしい気持ちがある中、何かモヤモヤしている私がいる。羨ましいような裏切られたような、傷ついた気持ちが蘇ってくる。多分これは怒りだろう。甥や姪にではないその怒りは、その親である兄と妹へ向けた怒りだ。過去にあった兄妹との確執、私の傷つけられたと感じた気持ち、その時の腹立たしさと後ろめたさ、反論できなかったあの時の抑圧した気持ちが、今息を吹き返している、私の生きづらさの病巣だ。
「大学に行く人間は頭がおかしい、人として駄目な人間が大学に行くんだ」進学した私に兄と妹が放った言葉だ、今となっては本人たちは言ったことすらも忘れているだろう。視野の狭い横暴な意見だと言い返したが、やり込められた。そんな兄と妹の子供達が大学進学のために家を離れる、自慢げに嬉しそうにしている兄妹の様子が私の胸を刺す。
私が生まれ育った地域は、転入して来たよそ者は差別対象となる閉鎖的な土地柄で、子孫は家や土地を守り地域に貢献するべし、結婚しても近居し親を助けるべしという同調圧力があった。家を出るものは親不孝と呼ばれた。兄や妹も抑圧された思いがあったのだろう、羨ましかったのだろう、だから地域の「こうであるべき」論を盾に私を攻撃したのだろう。しかし私だって易々とそうできた訳ではなかったのに。父母に殴られても、文句を言われても志を貫くのはダメージの大きいものだったし、推薦を得るために勉強も学校活動も努力した。すべては家を出るため逃げ出すため、私は早く自分の為に生きたかったのだ。
今、あの時の理解してもらえなかった哀しさ、見捨てられたような心細さ、親不孝者だという自己嫌悪と同時に未来への希望とで揺らいだことを思い出している。あの時の兄妹にまで責められて、悔しく哀しかった思いを噛みしめている。自分を守るために私を傷つけて恥じない兄妹を憎んだことを、そしてそんな自分に怒りを感じたことを思い出している。嫌悪するべき感情だけれど今度は間違えない。私はそう感じてもいい、もう誰も私の考えを縛らない。私は私を許し、私を生きると決めたのだから。だから自分で自分を責めることはもうしない、たとえどんな感情が湧いても。