心を込めて

心の庵「偶垂ら庵」
ありのままを吐き出して 私の物語を紡ぎ直す

我慢一択だったんだ 移籍②

2022-04-16 18:57:31 | 不安な時の

これまでは「苦しみ」は「我慢」の一択だった。うまくいかなかったのは自分のせい、悩みが生まれるのも自分のせいだった。そう思ったほうが楽だったし、そう考えるのが癖になっていたように思う。そうして重荷が増えて、見えないようにしていた悲しみに押しつぶされて、モヤモヤして不安になって、人が怖くなって悲しみと不安の狭間で生きてきた。怒りは感じてはいけない、表明してはいけない、でも何かが溢れてきて、関係ない場面でとっさに暴言を言ってしまい、他者を傷つけたことを後悔しては、自分が悪かったから仕方がないと憂鬱に過ごしてきた。

自分を大切にしたい、もう自己嫌悪しながら生きていたくない、なので新しいやり方で自分の心に向き合っていきたいと思う。言語化し、しなやかな思考で、自分を大切にしながら、今回の哀しい出来事に取り組もうと思う。

今回のパート先の、他社への唐突な移籍勧奨には怒りを感じてもいいのではないだろうか。ビジネスだからこういう事も起こりえるものだが、今回の管理責任者のやり口は卑怯卑小なやり方だったと、心では憤慨してもいいのではないだろうか。中途半端に人員を残すことで、一緒に動くメンバー内で、既に疑心暗鬼と軋轢が生まれている。後2か月こんな気持ちを抱えながら、表面上は和やかに仕事をするのだ。途中で欠けるメンバーもいるだろう、移行期に残ることが決まったメンバーと移籍するメンバーとで明暗が分かれ、微妙な気持ちになることもあるだろう。もしかすると、あの人は残ってほしいと言われて残るのかもしれない、自分は不要な人材なのかと自己嫌悪が生まれむしゃくしゃするかもしれない。

「腹立たしく感じている、怒りがわいている、許せないと思っている」心の中ではそう感じてもいいのではないだろうか?そうなのだ「自分の本当の感情を感じてはいけない」とずっと「無意識」に抑圧してきた。だってこれまでの自分の中の結論は、「何であれ、震災であれ」「自分が悪いから」だったから。今はようやくそれが「思い込み」だと気付いているけれど。これまで自分が「悪い」と感じたくないから、自分の「本当の感情」を無意識に落とし込んで感じないようにしてきた。感情すら相手が望むように感じる演技を、自分の本心だと信じようとしてきた。しかし、隠しきれない本心が顔を覗かせる時があった、そんな時は自分に怒りを感じ、怒りを感じた自分を悪いと責めてきた。

もうそんなことしなくていい。人間社会は多重で多層で、人間なら感じて当たり前の「感情」を「自分が悪いから」と「処理しなくていい」。もう悪い感情を自分の中に感じても自分を責めたり、罰したり、無意識化に送り込んだりしなくていい。きっとこれが人間なのだ。自我の根源での躓きは人生に影を落とし、未だに苦しんでいいるけれど。今回の移籍の件は痛い出来事だったからといって、自分を責めなくてもいいのではないだろうか。「生きていて」も「本当の感情」を感じても「いい」のではないだろうか。そんなことがようやく分かりかけてきている、誰かに怒られそうで少し怖い、本当に根深い。

前向きに、自分がどうしたいか考えて、憤懣も怒りも感じながら、自分の今後の為に、納得して進んでいきたい。「どちらを選んでもあっちのほうが良かったかなと後悔するものよ」人生の先輩である他部署の女性に、人生の選択についてアドバイスをいただいた、よく聞く言葉だが今回は胸に沁みる言葉になった。

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心では考えたっていい 移籍①

2022-04-16 14:36:37 | 不安な時の

パート先の職場で業務縮小があった、私が在籍していた部署の人員は、基本的に他社に移籍するようお達しがあった。この年度初めに1年の雇用契約を更新したばかりで、まさか、同月に他社移籍を指示され契約先が変わるとは想像していなかった。移籍先の契約内容は今の会社と同じとのことだったが、来年度以降はどうなるかわからない、現在ネットで出ている募集を調べたら希望通りの働き方では募集していなかった、今後が不安だった。移籍先があるだけ感謝しなくてはならないのだろうけど。

基本他社移籍だが、今の会社に残す人員も欲しいとのことだった。ただし、残った場合はセクションの移動、労働時間の変更に応る事、応じることができない場合は退職勧奨すると一方的に文書に書かれていた。そもそも、この通告すら唐突で、先に帰るメンバーには口止めし、最後の終礼で他セクションのメンバーと整列して聞くことになった、文書は帰宅して読むよう指示され、あと2か月はこの会社で現状維持、体調に気を付けてどうぞ宜しく、今後の活躍を願うと締めくくられていて、時々現れる管理責任者には、直に事の詳細を聞くことができないようになっていた。

裏切られた気持ちになった、「大事な話があります」とセクションメンバーのみを集めて、まず話を通してほしかった。基本移籍に応じろではなく、「業務縮小は唐突なことで驚かれたと思います、まずは移籍するか残るか希望を伺いたいと思います」と言ってほしかった。実は前々からこの話はありました、というのならある程度は内々に伝えてほしかった。全員移籍ではなく数名残すと言うのも厄介だった、人員不足が甚だしい現場なのに、緩和の為に同会社で全員を振り分けないのも不思議だった。にやにやと笑いながら明るく通告してくるのも、遅番の終礼の人員には「あなた方には何の影響もありません、ご安心ください」と言ったというのも、後で聞いて不快な気持ちになって嫌だった。

夫に話したら「実質クビだね」と言われ傷ついた、事実だとは思うが、もう少し労わって欲しかった。ただ、居なくなる人員にはどう思われてもよいのだろう、残したいメンバーの人選には既に腹積もりがあるだろう、という意見には同意だった。

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東日本大震災から6年②

2022-04-16 12:18:18 | 東日本大震災

予想に反して拷問のような時を過ごした保護者会、思えば他の母親たちと同じく小学校卒業という節目で、子育ての努力が報われるような達成感を噛みしめて、人生の礎にしたい気持ちがあったのかもしれない。比較するものでもなかったとは思うけれど、他の現実と私の世界は隔絶していて衝撃を受けた。

小学校卒業の保護者会自体がこれまでの小学校生活を振り返っていたので、私も話を聞きながらこれまでを考えていた。子供が新一年生になる年の3月に震災は起こった、卒園式もなく避難し、小学校再開も目処は立っていなかった。縁を頼った避難先で2年を過ごした頃、避難が順次解除になると噂が立った、夫とは離れ離れで、手狭な借り上げ賃貸での生活に疲弊し限界が来ていた。いつまでも縁や他者の気遣いを受けて生活することは、自立から遠ざかるようで嫌だった。何より避難が延長になるのか解除になるのか6ケ月前に見当がつかないのだ、他力本願で受け身のまま人生を送りたくなかった。関東圏に転勤を願い出受理された。住民票を移す事で避難者ではなくなるということだったのだが、転勤自体が避難者と云う括りで受理された為、厳密には転勤扱いにはならず夫の会社から住宅費援助は無しということだった。自腹での関東圏での生活は住宅費が高く痛かったが、自立した生活が送れることには代えがたかった。

これまでの積み重ねを捨てる覚悟を数日で行った、逃げまどった数年間、未来も予定もすべて白紙になったように感じた、震災と原発事故は突発的で予測していなかった、震災後選んで望んで関東圏に来たのは自分だった、しかし不可抗力だった、他にどんな手立てがあったというのか、被害的な気持ち、後悔と失望。空しかった、なんでこんな思いをしなくてはいけないんだろう。真面目に一生懸命生きてきたはずだったのに。津波ではなく原子力発電所の爆発事故で転居し、失ったものは大きくないように見えるのに、無形の様々な過去や人間関係を失い、我慢も忍耐も実を結ばなかった。有るのに無かった、言葉にし難い喪失感で息が止まりそうだった。

今は東日本大震災から11年が経過し子供も高校3年生となっており、数年前から自分の心に取り組み始めこのブログを綴っている。子供の小学校卒業の年のパニック的な症状は分岐点だったように思う。あの時、東日本大震災で精神的にどれだけ犠牲を払ったか思い知ったのかもしれない、これまで本当の気持ちを無視してきたショックが自分を襲ったのかもしれないと感じている。しっくりくる言葉は見つからないけれど、この状況も数年後に振り返ったら、気づきがあるのかもしれないと感じている。

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