集合写真を撮影するのは難しい。特に子ども相手の場合、何が失敗のポイントになるか予測できない。大人相手の撮影は、瞬きとか顔が全部入っているかを気をつけて、軽く呼びかければ形になる。しかし子どもの場合。まず呼びかけに素直に応じることはない。予測不能の動きをする。じっとしていられない。別に文句を言いたいわけじゃないけれど、実際問題難しい。
最近子どもの集合写真を撮影した。連続シャッターを用いて、2セット撮ってみたのだが、両方ともにあまり写真として残るのに好ましくない瞬間が写ってしまった。詳細は書けないけれど、見方によってはいじめを受けているかに見える写真だった。問題点をその場で発見できなかった自分の力量不足は重々承知している。だが正直こうくるか、といった中身だった。被写体をよく観察していれば何とかなったのだろうか。単純に3回に分ければもう少しマシになっただろうか。いや、この原因は小手先のテクニックよりも私の撮影態度にある。
相手のいい笑顔を撮る為に重要なのは撮影者のキャラクターである」と言うのが持論だ。だがこの時、私はカメラを向けた相手よりも自分の方に意識が偏っていたのではないかと思う。レンズを通して被写体を見ているようで、実はしっかりと見ていなかった。カメラマンという役割を果たすのに必死で、足りないものがあったのだ。いい写真を撮ろうとする気持ちが空回りして、自分の撮る写真はいいものだと思いたくなって、結果を注視する努力を怠った。妥協した。
そもそも子どもらを前に自分の思い通りの写真を撮ろうと考えること自体がおこがましい。自分にとって不利となる状況を想定しない甘さが心の根底にあるのだ。自らを省みると心当たりがあり過ぎる。私はテストの自己採点が怖くて嫌いだった。何か良い事をした時には、誰かが誉めてくれるものだと思っていた。遅くまで残業したら、誰かがお疲れ様と労ってくれると思っていた。馬鹿馬鹿しい。結果はわかりやすい優劣の尺度なんだ。結果を出してなんぼじゃないか。私がすべきはいいカメラマン面ではなく、いい写真を撮ることだろうが。
次だ。こういった写真を何度も撮れるチャンスはそう訪れないだろうけど、次に活かす為の反省はできる。写真をその場で冷静に確認できればそれでよかったんだ。こちらのペースを守る。チャンスはその時しかない。後で悔やんだってどうしようもないのだ。だったら少し図太く立ち回って写真を確認することが、相手にとってもいいことなんだろう。落ち着いてチェックをかける。基本をしっかり行おう。
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