分解されたものを見るのが好きだ。これだけ書くと漫画に出てくる快楽バラバラ殺人者の心情吐露みたいで嫌だ。具体的には機械の部品や、生物の部位、本に書き起こされた人の考えなど、それひとつをとって元々どんな機能を持っているのか考えるのが楽しい。要は分析するのが好きなのだ。自分で何かを作るのも勿論楽しいけれど、すでにあるものを見て観察して実際に触って想像を巡らす方が、自分の性格にしっくり来る。自然と集中できる。私が心底受け身の性分なのが起因しているのだろう。しかし最近になってその傾向に変化が見られてきた。自分から対象にぶつかって、その反応を分析する癖が付加された。良く言えば能動的になった。
そもそも分析する対象に刺激を与えてどんな反応を示すかを観測する、という流れは実験の王道だろう。今よりさらに経験値の少ない数年前の自分は、見るだけでは物足りなくなっていた。取りあえず何が有用な経験になるのかわからないのでその時にやれる事をギリギリまでやる様になり、自分から刺激を与える事でどうなるのか試してみたくなった。その方が実になるし、単純に面白いからだ。
その後、どうやらその積み重ねが何よりの力になると知った。特に顕著なのは人間関係の保ち方だ。良好な人間関係を築くには、相手の身になって考えるとか、喜んでもらえる事をするとか、言いたい事を相手が不快にならない様に伝えるとか本当に色々あるけど、通り一辺倒のやり方ではどうにもうまくいかない。人それぞれに違った反応がある。当たり前の事なのだけど(しかし世の中には自分の知らない「当たり前」がどれだけあるのだろうか)。基本のやり方はあれども、実生活ではそれが通用しない「わからない、知らない」が山ほどある。その「わからない、知らない」に何度も接してその場その場で対応し続ける事で鍛えらる部分は確かにある。この「わからない、知らない」を塗りつぶして行けば加速度的に白地の部分が埋まっていく。全ての色が染まればさらにキャンパスを広げていく。これが上達の形のひとつなのだと思う。人間関係の上手な構築方法について考えると、その練習機会、パターンの量、そして重要度は膨大である。だから上達の方法を学ぶにはこれを起点にするのも一考ではなかろうか。「こうすれば、この場合、こうなった」という知識。ここからを「だからこうだ」と確定させるのは危険だ。これの後に「何故か?」を付けて自問自答。この一連を繰り返して何とか「知恵」に還元することができる。
我ながら当たり前の事をとうとうと述べているだけの様な気がする。しかし当たり前の事でも意識しなければできない事なんていくらでもある。そして世の中何が当たり前かわからない。少なくとも自分の考えを形にして残しておく事は自分にとって有益であると確信している。
ここまで書いてこの考え方もある意味分解と言えるのだと振り返る。自分で問題提起して答えらしきものを仮定してさらに分解。自己満足では終わらせない。この思考の癖を社会を渡り歩く上での武器にするつもりだ。
実際問題、この思考の癖は日常生活を普通に送る上では弊害になる場合が多い。「難しく考えすぎ」と言われるのだ。自分で言うのも変な話なのは十分理解している。しかしだ、「不都合だから止めろ」と言われても止められない場合、しかもその理由が変えようのない性分によるものだとすればどうすればいいのか。唯々諾々と不適合者の烙印を押し頂けばよろしいのか。ふざけるな、だ。その尖ったものを無くしたら、私が私で無くなる。この形が私なのだ。社会の要請でやすやす変えられるものではない。これはこういうものなのだから。変えられるものなら変えている。変えようとして必死でもがいて、それでも結局変えられなかった。その部分が自分の特性なのだと諦めるしかなかった。だから私が生き残るには、この形をさらに磨くしかなかった。ありのままでは認められないから、積み重ねて大きくするしかなかった。このひっ迫感は、恐らくずっと続く。でもそうと決めた時点で覚悟ができた。これが私にとっての不幸とは、どうしても思えないのだ。
そもそも分析する対象に刺激を与えてどんな反応を示すかを観測する、という流れは実験の王道だろう。今よりさらに経験値の少ない数年前の自分は、見るだけでは物足りなくなっていた。取りあえず何が有用な経験になるのかわからないのでその時にやれる事をギリギリまでやる様になり、自分から刺激を与える事でどうなるのか試してみたくなった。その方が実になるし、単純に面白いからだ。
その後、どうやらその積み重ねが何よりの力になると知った。特に顕著なのは人間関係の保ち方だ。良好な人間関係を築くには、相手の身になって考えるとか、喜んでもらえる事をするとか、言いたい事を相手が不快にならない様に伝えるとか本当に色々あるけど、通り一辺倒のやり方ではどうにもうまくいかない。人それぞれに違った反応がある。当たり前の事なのだけど(しかし世の中には自分の知らない「当たり前」がどれだけあるのだろうか)。基本のやり方はあれども、実生活ではそれが通用しない「わからない、知らない」が山ほどある。その「わからない、知らない」に何度も接してその場その場で対応し続ける事で鍛えらる部分は確かにある。この「わからない、知らない」を塗りつぶして行けば加速度的に白地の部分が埋まっていく。全ての色が染まればさらにキャンパスを広げていく。これが上達の形のひとつなのだと思う。人間関係の上手な構築方法について考えると、その練習機会、パターンの量、そして重要度は膨大である。だから上達の方法を学ぶにはこれを起点にするのも一考ではなかろうか。「こうすれば、この場合、こうなった」という知識。ここからを「だからこうだ」と確定させるのは危険だ。これの後に「何故か?」を付けて自問自答。この一連を繰り返して何とか「知恵」に還元することができる。
我ながら当たり前の事をとうとうと述べているだけの様な気がする。しかし当たり前の事でも意識しなければできない事なんていくらでもある。そして世の中何が当たり前かわからない。少なくとも自分の考えを形にして残しておく事は自分にとって有益であると確信している。
ここまで書いてこの考え方もある意味分解と言えるのだと振り返る。自分で問題提起して答えらしきものを仮定してさらに分解。自己満足では終わらせない。この思考の癖を社会を渡り歩く上での武器にするつもりだ。
実際問題、この思考の癖は日常生活を普通に送る上では弊害になる場合が多い。「難しく考えすぎ」と言われるのだ。自分で言うのも変な話なのは十分理解している。しかしだ、「不都合だから止めろ」と言われても止められない場合、しかもその理由が変えようのない性分によるものだとすればどうすればいいのか。唯々諾々と不適合者の烙印を押し頂けばよろしいのか。ふざけるな、だ。その尖ったものを無くしたら、私が私で無くなる。この形が私なのだ。社会の要請でやすやす変えられるものではない。これはこういうものなのだから。変えられるものなら変えている。変えようとして必死でもがいて、それでも結局変えられなかった。その部分が自分の特性なのだと諦めるしかなかった。だから私が生き残るには、この形をさらに磨くしかなかった。ありのままでは認められないから、積み重ねて大きくするしかなかった。このひっ迫感は、恐らくずっと続く。でもそうと決めた時点で覚悟ができた。これが私にとっての不幸とは、どうしても思えないのだ。
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