カメラのシャッターを押す度に、罪悪感を感じていた。または羞恥心とか、自分への軽蔑とか、そんなものを。
私は写真を撮ることが好きだ。「瞬間」を切り取って作品として残せる狩猟的な感覚が好きだ。ただこの「狩猟的な」というのが厄介で、撮影者の身勝手さを加速させる危険性をはらんでいる。撮影者の自己満足に付き合ってもらう形になってはいけないのに、良い写真を撮ろうとすればするほど被写体を自分の都合のいいように動いてもらう「モノ」扱いしがちになる。そして良い写真が撮れたとしても、「これが私の作品だ!」と悦に入ってしまえば、被写体に対する畏敬が失せてしまう。これはまずい。自分も撮影に没頭していくと、この傾向に走っていくのを感じる。「撮らせていただいている」という規律を根っこに持たなければどこまでも自分勝手になっていく。相手がいなければ、どんなにいい腕を持っていても、高機能のカメラを持っていようとも意味が無い。「どれだけいい写真が撮れようと、それは被写体がいいからでしょう?それを自分の手柄にして、いい気になるなんて馬鹿じゃない?」私の中で突っ込みが入り続けた。私は本当に写真を撮るのが好きなのか?相手を自分の都合のいいように加工する、ある種の全能感が好きなだけではないのか?だとすればなんと下品なことか。
この突っ込みを振り払うために、考えていた。調子に乗るのを防ぐには、それ相応に苦しむ必要がある。自身の内に、免罪符を作るのだ。この場合の免罪符は、相手(人にしろモノにしろ)を知り、観察し、最大限の魅力を写し取ろうと苦心することだ。カメラは二の次で、まず自分の目で相手をよく見ることを第一とする。ファインダー越しに相手を見ると、働く感性が少なくなる気がする。こちらが一個の人間としてまずぶつかり対象の魅力を発見することが、最低限の礼儀であると同時にいい写真を撮ることにつながるのではないかと思うようになった。
綺麗な写真は高機能のカメラを使えば誰でも撮れる。この「誰でも撮れる」というのが問題なんだ。だったらそれを趣味とする私はカメラの性能におんぶにだっこしていくのか。その「高機能カメラを使えば誰でも撮れる綺麗な写真」を集めれば私は満足なのか。そんな訳ない。ではどうするか。有り体に言えば、自分にしか撮れない写真とは何なのか。
この問いに対して出した結論はふたつ。一度カメラを脇において、自分の目で被写体の魅力を感じ、引出すこと。
もうひとつが、単純に撮影しづらいものを発見して撮ること。どうやって撮ったんだこんなの?と不思議がられれば最高だ。足を動かして、自分にしか見つけられないものを探してさまようのだ。
いずれにしろ、カメラは単なる記録装置となる。まず自分が動くのが先なんだ。自分が動いた結果、見つけた、もしくは浮き出た一瞬を記憶するために写真を撮りたいんだ。そうすれば胸を張って、自分が撮った写真と言うことができる。ここまで考えるに至って、やっと罪悪感が消えた。この間、5年。長かった。
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