あともう少しだけ

日々の出来事綴ります。やらずに後悔よりやって後悔。

「浮かぶ」をテーマにエッセイ

2017-10-23 21:34:55 | コラム

「浮かぶ」と聞いて、ふと池に漂う魚釣りの「浮き」を思い出した。

 子どもの頃、実家の田んぼの上方につつみがあった。つつみとは、要は田んぼに水を与える為の貯水池だ。近年土地改良が進んで大きな田んぼが増えて、つつみのある田んぼは少なくなったが、今でも川の水が届かない山の奥の田んぼには大抵ある。私はそこでよくフナ釣りをしていた。背丈ほどもある雑草の奥に踏み入り、そこら辺から切った枝の先に糸を括り付け、浮きとおもりと針をつける。餌は小麦粉を水で練った粗末なものだ。水面にビー玉大の浮きを浮かべて数分。もしくは数十分。クンっと浮きが沈んだ瞬間、おもいっきり竿を上げる。糸の先には、10cmもない小さなフナ。何匹かを釣って持ち帰り、庭の池に放した。ほどなく死んだか、もしくは鳥に喰われた。悪い事をした。水不足の年はつつみ全体が干上がってしまったが、水が入るとどういうことかフナがまた釣れるようになる。どうやって生き延びたのかはいまだにわからない。

しばらくして、田んぼだった場所には道路ができた。つつみはすれすれで道路の建設予定ルートを避け、現在まで残っている。山奥にあったつつみも、今では道路から丸見えだ。そもそも山奥だと思っていた割に案外近いところにあった。子どもの頃は少しの距離でも大冒険に感じるものだ。大人になった私は釣りをしなくなったので、そこでまた釣りをしようとは思わない。したとしても、今流行りのようにルアーフィッシングはやらないだろう。多分、昔のように餌釣りをする。汚れた水の中は見えない。魚が全くいなかろうと、餌をとろうとする直前だろうとわからない。ぷかぷか浮かんでいた浮きが沈んだときに初めて、魚の存在に気付く。その瞬間が楽しかった。浮かんでいるものが沈んだ瞬間は、ちょっとしたカタルシスが生まれる。

浮かんでいるものとは、水面の浮きみたいにわかりやすいものばかりではない。沈んだ時に初めてそれが浮かんでいたとわかるものもある。その視点で考えると、浮きとは異変を視覚化したものと言える。この考え方は私生活においても使える。普段は察知できない異変を確認できるように、浮きという観測装置を紐つけた。当時の私がそんな事を考えて釣りをしていた訳はないけど。一度あそこでまた、浮きを浮かべたくなった。フナは釣れなくてもいいや。


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