あともう少しだけ

日々の出来事綴ります。やらずに後悔よりやって後悔。

認識する世界

2013-11-23 00:25:32 | コラム
右目と左目で感じる色彩が微妙に異なる。右目で見る視界は若干青色、左目で見るとやや赤色がかっている。これは子供の頃からの話で、日常を送るのに全く影響はない。多分目の色を感じる細胞の数が違うとかそんな理由だろう。病気と言ったら眼病持ちの人に失礼な位の些細な誤差に過ぎない。
ところで、知り合いが飼っている犬は生まれつき目が見えない。専ら座敷犬として生活しており、今年で9歳になるらしい。その子には他の生物に視力があるという事を理解できない。それはそうだ。その子にとって目が見えない世界こそが日常であり、見える世界があるという事は認識しようがないのだから。認識できないという事は、比較する事もできないという事。だから、自分の目が見えない事を嘆かない。認識は比較を生む。比較は嫉妬や優越等の感情を生む。自分にとって都合のいい部分だけを認識していれば、それは楽なものだ。飼い主から愛情を持って大事に育ててもらえれば、その子は一生幸せに暮らせるだろう。人間の場合にはそうはいかない。いい部分だけを見ようとしても、視界の端に何かあるのが見えてしまう。聞こえてしまう。肌で感じてしまう。そしてそれが都合の悪いものであれば、それ以上の認識を止める。もっと先を見据えるには、自分を度外視する事が必要不可欠だ。この「度外視」ができるかどうかで、人は大きく二分される。自分の欲望の最終地点がどこにあるのかが、そのまま視野の届く範囲となる。私は身の程知らずにも、どこまでも先を見たい。自分自身なんぞ糞くらえ。生来のものなのかは知らないけど、ここまでで良いという大多数の意見に真っ向から蹴りを入れてやりたくなる。つまりは、皆が止まるからあえて突っ走りたいという、天邪鬼なのだ。このまま行くところまで行けば併走する人は多分いなくなるだろう。自分独自の世界が見えてくるだろう。そこで私に正確な意味で反対できる人はいなくなる。反論は、同じ経験を過ごした人同士でこそ有効なのだから。しかし、それはそれで無批判の殻に籠る事になる。そんなの絶対に嫌だ。自分の中の安住を求めるのが私の目標ではないのだ。歩き続けて、いつか世界をわかった気になってしまったら、戒めなければならない。この色彩の異なる両目で感じ取らなければならない。自分自身の認識できる世界でさえ異なるのに、他人の世界を完全に理解できるはずがないのだと。

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