ご存じ、フランス語のことわざである。直訳すると「高貴さは(義務を)強制する」の意味。一般的に財産、権力、社会的地位の保持には責任が伴うことを指す。
私には財産やなんやらは何もないけれど、この言葉の意味を自分に照らしてみるとどうか、という試考を近頃よくする。この言葉、時々私の中に現れて、少しの間「居る」気まぐれな言葉なのだ。だから、ここらで少し真剣に深く掘り下げてやろうじゃあないかと腕をまくってみたい。
なぜだか、人よりずいぶん早くに自己の確立に目覚めて久しい。現状の自分に愕然とした日のことを今でも覚えている。それは全身を襲う恐怖とともに初めての徹底的な自己否定だった。そして、1日も早くここから抜け出し、こうありたいと思う自分になるのだという信念を抱き続けてきた。幸い、人と自分を改革できる機会に恵まれ、そんな自分に近しきものが今の自分かもしれないとぼんやり思い至ることが増えた。
これで「今の自分を守り、もしくは維持すれば覚えた恐怖は癒され、安寧な日が送れる」と思ってみる。そこにいらっしゃるのがこの言葉。私に何を投げかけたいと言うのか。
そこで、太字をこう置き換えてみる。「成熟した自己の内面・自らの振る舞い、言動、行動などの外面の保持には責任が伴う」。そして、「責任」の意味を考えてみる。軽々しい発言はしないとか、人の心に土足で入らないとか、相手の立場を理解した行動をとるとか、そういったことは、もちろん含まれると思う。でも、noblesse obligeが問うてくる責任とはそんな当たり前のルールではなくて「おまえはおまえを今後どう保持してゆくのだ」ということのような気がする。う~んと唸って浮かんだのは「今の自分の否定」であった。逆説的ではあるけれど、自分のあるべき(ありたい)姿を曲がりなりにも手に入れた今、それを保持するにはいったんそんな自分と距離を置き、否定してみることで新しい境地に立て、さらに切り拓いてゆくことで今手の中にあるものが、もっともっとこなれてゆくように思う。
手に入れる⇒守る⇒保持⇒停滞⇒破滅 の図式がふいに頭に浮かんでぞっとした。守りに入った人間は、そこに何かが侵入してくることを恐れてさらにガードが固くなり、周りを否定することで自分を守ろうともする。
手に入れる⇒守る⇒手放す⇒破壊してみる⇒再構築 という図式はどうだろう。粘土細工のように、何度つぶして作り直しても粘土そのものはなくならない。
これまでずんずんと進んでこれたのは、年代的にも様々なことが起こる時期であり多くを吸収する時期でもあった。人にも機会にも多く出会える「追い風」が吹いていた。これからは、そのどちらも減ってゆく。そんな中で自己を否定し、自分の力のみで切り拓いてゆくのは向い風の中を進むようなものかもしれない。それでも、進みゆくのがきっと「責任」ということだろう。