夜は欠けた茶碗に満ちた、俺は糞虫の死骸を拾って食い、その茶碗に茶を注いで飲み干した、雨が小賢しく降り、風が騒々しいこの日はまるで、二匹の蛇がいつ果てるともしれないまぐわいをしているみたいで…汚れた夜を飲み込んだ俺の胃袋は一寸の間きょとんとしてそれから、羽化のようにアタフタし始め、上と下の管が絡まらない上手な宙返りをした、杏仁豆腐が詰まったみたいなぶるんとした閉塞感が上の穴から下の穴までの間を支配し始め、体温は株価のように急激に下がった、唇が震え…目一杯声を張り上げるときのアレサ・フランクリンみたいにさ…それから目眩がして俺は畳の上に仰向けに寝っ転がった、心臓はタンギングの練習をしているみたいなリズムでノックして、欠けた茶碗は倒れた時の俺の腕に弾き飛ばされて壁の隅まで転がっていった、雨が激しくなり、機銃掃射のように激しくなり、テレビからは生埋めのニュースが流れ、そのボリュームは果てしなく大きくなり、迷い込んだ哀れ蚊は力尽きて落ちた、そのまま糸を手繰るようにしばらく肢を動かしていたが、それは花弁の一生を撮ったフィルムの早回しを見るように開いて動かなくなった、俺は鼻で呼吸をすることが出来なくなり、確かに呼吸するんだという意志を持って唇を突き出し、ふううふううと懸命に息を吐いた、呼吸が難しい時は息を吸うより吐けと昔何かで読んだことを覚えていたのだ、そのうち身体が激しくのたうち始め、目は明りを見ることが出来なくなった、眩しすぎると感じて仕方がなくなったのだ、俺は右の肩を畳にすりつける感じで横になり、両手で顔を隠して光を感じないようにした、まるでそういう手段しか持っていない女が泣いているみたいな格好になった、しかし、当然ながら、そんなことに気を配る余裕などあるわけもなく…俺は応急処置的な暗闇の中で、懐かしい亡霊に遭遇した、あれはまだ幼稚園にすら行ってない頃のことだと思う、今はおそらく開放していない地元の城の通路の中で、平安貴族のような格好をした男と女の姿を見たことがあったのだ、二人は城の廊下で酒を酌み交わしていた、懐かしい…その懐かしい二人はあの時とまるで変わらない格好をして、そしてまたあの時と同じように紫色の光にすっぽりと包まれていた、おそらく発光しているのだと思うが…それはなにかセロファンで出来ているみたいに俺には見えたんだ、どうしてこんなところにいるんだ、と俺は彼らに話しかけた、彼らは一瞬こちらに注意を払ったが、まったく何を言っているのか理解出来ない様子で、学者のように首を横に振っただけだった、それから彼らはずっと俺のことを見ていた、黙って…なにをしているんだと俺はもう一度聞いてみた、今度も彼らは黙ったまま首を横に振った、ああ、と俺は思った、この二人はいったい何なんだ、この閉塞感は…欠けた茶碗に満ちた夜はいったい…?路面電車はすがりつく雨を振り解くように容赦無く走り抜け、それが終わるといつも表通りはやれやれという感じで少しだけ静かになった、どこかでタクトに従っているかのように雨と風は交互に主張をし、俺は耐えがたい吐気を感じて起き上がろうとしたがなにも間に合わなかった、俺は畳の上にすべてをぶちまけた、投身自殺者が路面に撒き散らす脳漿みたいに畳の上に広がった吐瀉物の中から複数の泡が生まれ、それは増殖してあっというまに吐瀉物の表面を満たした、あああ、と俺は叫んだ、俺が戯れに飲み込んだ糞虫、あいつは…!その小さな泡共が次々に破裂してプラチナ色の糞虫が次々と生まれ、数度よろめいたあと羽を広げてふうと中空に浮かんで、辺りを見回す様な仕草を見せたかと思うと、出口を探して家のどこかへ飛び去っていった、無駄だよ、と俺は答えた、窓はすべて施錠してある、アリの這い出る隙間ひとつない…あんた本当にそう思うのか?と平安貴族の男が俺に問うた、狂言の役者みたいによく通る声をしていた、覚えておきなさい、虫はどこからでも出ていき、また入ってくることが出来るよ、と、彼は続けた、隣の女はにこりともせずに、ただ二度ほど頷いただけだった…俺はそのまま少しの間眠り、目を覚ました時には苦しんだことなどすっかり忘れてしまっていた。
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