僕は旅に出かけたくて長いこと荷袋に衣服を詰め込んでいた、それが何日くらいの旅なのか、どのくらいの距離の移動なのか、なんの青写真も描けずに―とりあえず大好きなものからずっと荷袋に詰め込んでいった
柱時計が指しているのはだいたい朝の六時過ぎ、でもこれは少し進んでいるから、本当のところは六時にかなり近い五時というところだろう、僕は旅に出かけたくて長いこと荷袋に衣服を詰め込んでいた
旅に出かけたくなる気持ちに理由なんかきっとなくて、ある一定の周期で―それはたとえば太陽とか月とかの動きともしかしたら関係があったりするのかもしれないけれど―ふと、そんな気分が湧き上がってくる、春を感知したつくしのようににょきにょきと
僕は旅に出かけたくて長いこと荷袋に衣服を詰め込んでいた、ちょっと詩的な感じを演出した常套句を使うなら…僕自身ともう少し向かい合いたくて
ホテルの部屋は変な場所、日常のようで日常でない
テーブル、冷蔵庫、バス、トイレ、すべて揃っているのに
そこは決して生活をする場所ではない―そしてそれは一時的に僕の持物になるだけ、僕は旅に出かけたくて長いこと荷袋に衣類を詰め込んでいた
初めて宿を取ったのはいつのことだったろう?あれは確か二十代の半ば―どこか小さな都会の、駅の側の
もらった鍵の扱いにすらドギマギしていた―誰にだって初めてのときというものはあるものだ―たった一人で歩く街にはそれまで嗅いだことのない匂いがあった
ひとりを美しいと思う人とひとりを寂しいと思う人がいて
ひとりを美しいと思うひとたちが旅に出たけたがる、ひとりを寂しいと思うひとは
指先が震えて旅券の手配すら、きっとままならないだろう
僕は旅に出かけたくて長いこと荷袋に衣服を詰め込んでいた、今まで自分が体験したいろいろな街のことを思い浮かべながら、誰に、や、どこに、ではない…おそらく僕はただ時々出かけたくなるだけなのだ
それは焦燥とか厭世とかそんなことじゃなく
ましてや余暇とかリフレッシュなんてそんなものでもあるはずがなく
ただ僕は知りたいのだろう、自分が大して知りもしない街の中で、CDショップの棚を覗き込んだり、古本屋の隅っこで掘り出し物を探して眼を凝らしている自分のことを―きわめて日常的な行為ではあるけれど、それもやはり日常ではない
昨日まで僕はそこにそんな店があることすら知らなかった人間なのだ―そして明後日にはもうこの店の扉をくぐる事などたぶんしばらく、もしかしたらもう二度とないかもしれない
僕の旅に思い出というものが存在するとしたらたぶん、そこで売ってたものや買ったもの、扉につけられたベル…愛想のない眼鏡の店主…こんばんは、今夜は客の真似をしに来ました
旅に出かけると珍しいものを見つける、それも
行く先々によって見つかるものは違うのだ
旅の気分に浸かりたければ古い店を覘くといい―そこで暮らしてきた人たちの古いこころがそこには陳列されている―してみると、僕が旅に出かけるのはそんなものを見たいせいなのだろうか?―違う
そこに居る自分を見たいだけなのだ、やっぱり
馴染むことのない部屋で眠る、知り合いもいない場所を歩く、覚えのない曲がり角を曲がる…建物の建ち方が違い、車の走り方が違い、若い子らの服装が違い、コンビニの品揃えが違い、道路の広さが違い、歩道の造り方が―すべて挙げるときりがないけれども
僕は旅に出かけたくて長いこと荷袋に衣服を詰め込んでいた、僕は僕を見たい、僕は僕のことが知りたい、何の苦労もせずに快適に過ごせるホテルの部屋は思いを巡らすには最適の場所、時々廊下が凄くうるさいこともあるけれど―僕はそんなことあまり気にしたりする事はない
そこは、みんなしてどことなく勝手に振舞う事が出来る場所なのだ
してみると僕は知らない場所で眠りたいだけかもしれない、でも
僕は環境が変わるとあまり眠れないたちなのだ―いったい僕は不眠を味わいに他所まで出向いているのだろうか?
薄く落としたライトの事や、足元に放り出した荷袋、知らないシャンプーの香りやガウンの着心地、僕は手を止めてぼんやりと考える、僕がひととき眠ってきた場所の事
もしか、ぐっすりと眠れる場所がそこにあったら―僕は、帰りの切符を買うだろうか?
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