不定形な文字が空を這う路地裏

路地で立ち止まっていたナミ














濡れた草のにおいがする薄暗い路地で
過ぎる時を噛み砕くように佇んでいる女
背骨の終わるところまで伸びた黒髪に表情は隠れて
これまでに一度だって見たことはなかったが
捩れた棒状の飴みたいな身体を包んだ水色のワンピースからだらりと伸びる
鉤状に折れた槍のような指はいつでも
欲しいもの、あるいは憎しみをぶつけるべきものを
決して逃すまいとするかのような気概に満ちていた
時折、低く擦れた声で呪文のような独り言を呟いていたり
奇妙な旋律と言語で構成された歌を小さく口ずさんでいた
白く、足首を隠す程度しかない靴下を履いていて
靴屋の店頭のワゴンに放り込んであるような白いスニーカーを履いていた
どういった理由があるのかは見当もつかないがそのすべては
火で長く炙られたかのように煤けていた
なにかを待っているのか、それともすべてを見失ったのか
日が暮れるころにそいつはどこかから現れて
明方近くになるとどこかへ帰って行った
一度、仕事の都合で夜が明けてからそこを通ったとき
その場所に踏みしだかれた糞尿の跡があり
生きているのだと驚いたことがあった
俺は窓辺に巣を張る蜘蛛を眺めるように
時々その路地を歩いては女とすれ違った
女は時々俺が近付くとそれまでしていたことを止めて
俺が通り過ぎるまでじっとしているのだ、一時停止をかけられたみたいに
だから俺はあまり彼女には近づかないようにした
そんなふうに彼女とすれ違いながら二年近くが過ぎた頃だった
ある夜遅く、気まぐれに立ち寄った路地で女が猫をあやしているのを見た
時間のことを除けばあまりにも普通の光景に見えて
俺はつい彼女に話しかけてしまった
「その猫、どうしたの?」
女は創作舞踏のような動きでゆっくりと顔をあげて俺のことを見た
「ア」 と「エ」の中間のような声を何度か出して
おそらくは会話の仕方を思い出したあと
「迷子ちゃん、みたい…」と真新しい首輪を指差した
俺は猫に近付いてその首輪を見た、なにかが書いてあるようだったので
携帯の灯りで読んでみるとそれは飼主が書いたらしい住所だった
「この近くの家だ」と俺は言った、振り返ると女の顔がすぐ近くにあった
目が異様に丸く、大きく、高く尖った鼻の下に小さな口がついていた
まともではないのだと一目でわかる表情をしていた
「帰り道だから届けて帰るよ」
あの、あの、と女は言い淀んでからようやく
「ありがとうございます」と言い、ぺこりと頭を下げた
俺は笑って頷いてから猫を連れて路地を離れた
それから女は俺を警戒しなくなった、会えば駆け寄って来て
「こんにちは」と笑って挨拶した…ほとんど夜だったけど
俺もなるべく路地を通って帰るようにした
俺たちは路地の中ほどにある取り壊された住宅の基礎に座っていろいろな話をした
女の話をまとめるのは容易なことではなかったが
あれこれと聞いたことから察するに女は望まれぬ生まれで
路地から少し離れた家で犬のように飼われているらしかった―いや
名前があるだけ犬の方がマシだった
「夜いつもここに居るのは何故だ?」
「家、で、といれ、を、すると…ね、お、かあさんが、怒る、から」
俺はそれを聞くと何とも言えない感情が心に芽生えるのを感じた
あのね、と俺は女に言った
「俺の家を貸してやる、今日からは俺の家でといれをするといい」
本当?と女は喜んだが、すぐに気まずそうな表情になった
「でも、わたし、きたない、の、上手じゃ、ないの」
「練習、すればいい、わかるか?練習」
女は頷いた
その日から俺は仕事の終わりに路地に寄り、女を拾って帰るようになった
確かに女のトイレマナーはまるでなっちゃいなかったが根気強く教えてやると上手く出来るようになった―二ヶ月かかったが
それから俺は女にいろいろなことを教えてやった
入浴の仕方、服の着方、食事の仕方―とにかく日常生活に必要なありとあらゆること
それぞれに大変な時間がかかったが女はきちんと出来るようになった
何かを覚えるたびに彼女の目の光は強くなっていった
彼女はあまり自分の家に帰らなくなった
俺は彼女にナミ、という名前を付けた―「並」にかけただけだ、人並のナミ
ある日、俺は仕事の帰りに彼女の家に寄り、母親に面会した
枯木に鬼の顔を描いたような、奇妙なにおいのする老婆だった
「お宅の娘さん、私の家に居るんです、家事やらなにやら、生活に必要なことは全部教えました、彼女は教えればちゃんと出来る子です、あなたは母親とは言えない、彼女は今後家で面倒見ます、いいですね?」
ふん、と老婆は鼻で笑って
「のし付けてあげるよ、願ったり叶ったりだよ」
俺は家に帰って、食事のあとナミにその話をした
よかった、とナミは笑った

普通の女のような顔をして

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