得体の知れないコーヒーハウスの汚れた壁の時計はいつでも八時半、さっき仕込んだのだろうストロベリージャムの香りがほのかに漂ってる、まるでそいつでなにか、出来の悪いものの匂いを隠そうとしてるみたいに(平安時代の香水みたいなもんか)
流しているのはいつでも「地下室」、でもその店は二階建て―地下室があるなんて話は聞いた事もない、ま、そんなこと別にどうだっていいことだけど(ストーンズじゃなくたってジャンピン・ジャック・フラッシュは歌える)
トースト・セットが出来るのを待つ間俺は新聞を広げる、ここで汚れていない新聞にお目にかかったことがない(マスターが最初に仕事の合間に目を通すのではないかと俺は睨んでいる)―ついでに言えばこのマスターのきちんとした接客を俺は見たことがない、ドアを潜ったときに少し頭を下げる程度で(来るときも帰るときも)
こだわりのサイフォンでずいぶんと待たせる、だから忙しい人間はここには来ない…こんな調子でやっていけるのかというほどに客が居ない(もっともマスターは忙しいのを喜びそうにない)
新聞を読み終えるとラックに返して、「ヤズー・ストリート・スキャンダル」に耳を傾けながらマイケル・J・リューインを読む、この店に似合いの―「内なる敵」(静かな敵の存在を極太の黒い梁が連想させる)
この梁の上、客から完全に死角になる辺りに鎌を下げたすばやい小男が居て、マスターの合図でおイタが過ぎる客の首を一閃で落とすのだ(例えばブルーマウンテンにシュガーをたらふく入れたとかそんな理由で)―天井裏には特別使うあてもないままに、今まで落とした悪い子チャンたちの生首が冷凍保存されている(夏になったらカキ氷でも始めるつもりなんじゃないだろうか?)
得体の知れないコーヒーハウスの汚れた壁の時計はいつでも八時半…およそ八時半にはありえないような窓の外の日差しと喧騒の中でも(ヘイ、きっとあれは時計の形をした違う何かだぜ)たとえば時計の針を十二時丁度に合わせると…俺は妄想に行き詰って水を飲む、サイフォンのかすかな泡の音は金魚の歌声を連想させる(変か?)
マスターは頭と鼻以外はでかいところがない男で、時々威嚇する犬みたいに花を持ち上げる…きっと鼻の中を上手く息が抜けないのだ(俺も鼻が小さいほうじゃないからそのいらだちはようく判る)そうだ、十二時に合わせると先が二股に分かれた鼻用の加湿器がかれの(まさに)目と鼻の先に現れる仕掛けになっているのだ、そういうことにしとこう―ポアロよろしく謎を解いた俺は首をひとつ回して小説に戻る(マスターはトーストの準備をして焼くべきタイミングを計るためにサイフォンを睨んでいる―彼にとっては命よりも大事なこだわりがそこにはあるらしい)
サムスンが何度目かに依頼人のアンティーク・ショップを訪ねるころサイフォンの音が派手になる、マスターは滑稽なほど機敏な動作でオーブンに分厚い食パンを放り込む(幼いころ一度だけ行った小さな動物園にまったく動かないワニがいた、そいつが、飼育係がニワトリの頭を投げ込んだ瞬間信じられない速度で喰らいついたのだ―パンを焼くマスターを見るたびにそのときのことを思い出す)
そうしてマスターはカップを温め始める―そういうことは本を読んでいてもなんとなく判るのだ(リューインだって初めて読むわけじゃないしね)豆の香りがゆっくりと、戦を待つ戦士のように店の中を凌駕する、俺はこめかみに突きつけられる鋭い剣を感じる(優れたコーヒーの香りとは得てしてそういうものだ、まあもちろん異議もたぶんにあるだろうけど)、オーブンがアコースティック・ギターの五弦開放のような音で鳴り―信じられないほどの蒸気が高い天井に立ち上る―そら、もうすぐだ―俺は本を伏せて水をもう一度飲む(珈琲の味をきちんと感じるためにさ)ジッ、ジッ…と、カズーのような音を立てながら焼けたパンにジャムが塗られる
カウンター越しに短い手を伸ばしてマスターがトースト・セットを差し出す、「どうぞ」と言うように右の眉をヒクつかせながら
俺は黙ってそれを受け取る、パンを一口齧ろうとしたそのとき、マスターがまだ正面にいるのに気づいた―どうやら俺がカウンターに置いた文庫の題字を読んでいるようだ「…リューインは」牧師の祈りのような調子で唐突に口を開く「季節の終わり、の方が面白い…」
俺の返事を待つこともなくカウンターの奥の自分の指定席に戻る(お役御免になった預言者のような顔をしている)
俺はちょっと面食らいながらパンを齧り、珈琲を啜る(後頭部を吹き飛ばす、ショット・ガンのような風味)
食事が終るとカウンターに代金を置き―丁度持ってるならそのほうがいいらしい―ごちそうさまと言って店を出る、マスターは9ミリ頭を下げる―季節の終わり、の方が面白い
その意見には、全面的に賛成だ
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