輪郭だけを残した巨大な廃屋の片隅の暗がりで、静かに、感触を確かめるような律動が忘れては思い出されるかのように気紛れに行われている朝のように見える暮れ方のこと、一口だけ齧られた林檎ははやにえのように崩れた壁から剥き出しの赤茶けた鉄筋に陳列され、その歯の軌跡の上では一匹の蟻がその価値を見定めるように爪先をゆっくりとくっつけながら歩いていた、風は微かに吹いている、誰も起こさぬよう注意しているかのように、塵ひとつ巻き上げることもなく…ただ、そいつが連れてくる温度は、冷たい、途方もなく
その横の路地では、先日までの雨に洗われるだけ洗われた小さな四足の白骨が、肉料理に添えられる野菜のように壁に沿って横たわっている…少しも息づいてはいない、だけど、おそらくはそこに永遠に存在している、呼吸のことなんか信頼しちゃいけない、生きることと存在することには大きな違いがある―生命の有無など関係がないのだ、認めないというのなら世界を構築している素材の数を逐一数えてみるといい、そのすべての意味を理解することが出来れば―光と闇は存分に効力を発揮するだろう
とうに失われた名を呼ぶ、それは虚空に反響する、虚空に反響する?それはひとつの存在の証明になるのだろうか?時間軸で切り取ればそう思えなくもない、だけど、それを飲み込むには決定的に重さが足りない、だからこそ呼んでいるのだろう、言葉にしなければならないのは不確かだからだ、口にすることで確かめるのだ、筋肉の動きや、呼吸の感触や、体内や外界での、送り出した音声の反響によって…ただそれは一瞬に過ぎない、どれほどの力を持っていてもほんの一瞬のことに過ぎない、結局のところすぐに死んでしまい、二度と再生されることはない
えぐるような静寂がずっと続いている、名前のない時間帯に這いつくばって…嗚咽に似た鳴声の鳥がどこかで鳴き続けている、空を飛ぶという悲哀に満ちているみたいに聞こえる、ズーム・インとズーム・アウトばかりできっとやつらの脳味噌は崩壊していくのだ、普遍性というやつだ、それはとても厄介なものだ、そこに寄り添う技術がないのなら、あらゆる脳味噌は狂っていく、その技術はある名前で呼ぶことが出来る―愚鈍、という名前だ、その技術があれば少なくとも狂うことはない、というより、狂うレベルまで行くことがない…狂うことが怖ろしいならそうしていることだ、それは脳味噌を守ってくれる、だがそれ以外のどんな利点もない
連続する思考は夜を呼ぶ、夜は連続する思考によって訪れる、優れた舞台に幕を引くみたいに…朝は違う、朝は勝手にやってくる、時間ともに適当にやってくるのだ、だが夜は違う、そうと意識しなければ、それは訪れない、隠しておけと歌うロックのことを知っているか?夜は目隠しをする、見ることと見ない事についての示唆を暗闇に提示する、その示唆を感じ取ることが、意識的であるかどうかの基準だ、それは不可欠なものだが決して形式ばった範疇のものではない、どちらかといえばそれは本能のようなもの、原始的な鼓動の自覚であり、理性とは程遠い感覚の火種だ…そこに法則を見出してはいけない、かくあるべし、と定められた物事は必ず、輪郭を残して滅びてゆく、輪郭の内側でいつの間にか腐敗して、崩れて消えていく、気付いたときには思考の腹腔はがらんどうで、壁に張られたスローガンが剥がれそうになってはためいているだけだ―地理すら巻き上げることのない穏やかな風に
一本の細糸を千切ることなく、絡み合った物置から少しずつ引き摺り出していかなければならない、その繋がりを見失うことがあってはならない、人生に、世界に、周囲に息づくものの大半は余計なもので、音楽に例えればそれは終始雑音に満ちた場所で演奏されているようなものだ、選ばなければならない、認識して、選択しなければならない、それは無自覚では決して出来ないことだが、出来る限り無意識に行われなければならない、無意識でなければ連続することはまず不可能だからだ―試しに呼吸のリズムを自問してみればいい、必ずそこには息苦しさが付きまとう筈だ、途切れたものは捨てるしかない―いくつ捨てた?これまでにいくつ捨てた?まだ手繰るべき糸はあるか?その疑問符に前例のあるものはひとつとしてない、それは限りない未来であり、限りない絶望でもある、ゴールを知らされない長距離走のようなものだ、無自覚ではいけない、無意識に行われなければならない、それは必ず長い戦争になる
朝を迎えるとき、周囲には無数の新しい死体があり、それと同じ数だけの赤子がある、なにをどれだけ拾い上げるのか、それにどんな名前をつけるのか…夜が来るまでにある程度の見当だけはつけておく必要があるだろう。
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