鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

黒川為実と御館の乱1

2020-08-12 11:05:55 | 和田黒川氏
御館の乱における黒川為実の動向を検討したい。

御館の乱は天正6年5月に上杉景虎が御館へ入ってから本格的に抗争が開始され、天正7年3月に景虎切腹し上杉景勝が家督継承、天正8年中頃までに三条神余氏や栃尾本庄氏の抵抗を制圧し、終結する。

まず、天正6年7月の上杉景勝書状(*1)に「黒川之地一途不及届候」とあり、この時点で為実に景勝方に与する意思がなかったことを示す。


[史料1]『上越市史』別編2、1649号
其地へ下着、種々相稼候故、鳥坂之地押詰、城中令折角之由、簡要候、雖無申迄候、弥々入計策候得共、城内引破、与次遂本意候様ニ被相稼専一候、扨亦、爰元備堅固候間、可心安候、猶巨細与次可申越候、謹言
九月二日           景勝
  築地修理亮殿

[史料2]『中条町史』資料編1、1-606号
態令啓之候、仍御簾中御仕合ニ付而、先日以使者申入候ける、御取合之時分令校量、以書中不申候、然者、其元可為御蒙昧候、さ様ニ候而者、隣端之覚も如何ニ候、縁辺之事者時之御取合ニ候、貴所御進退、従当方相挊被申候事、都鄙無其隠候間、於末代ニ相捨被申間敷候、明日ニも御手詰之事候者、当国人数払而指越可被申候、尤上郡山之事も、一点如在不可有之候、少も不可有御疑心候、此等之儀、御家中衆へも慥に可被仰聞候、努々不可有偽候、万吉期後音候、恐々謹言、
(朱書)「天正七年」
三月二十五日        遠山
                基信
  黒川殿 御宿所

[史料3]『上越市史』別編2、1809号
急度申遣候、仍去月廿四日館落居、三郎切腹、其外始南方衆、楯籠者共一人も不洩討果候、去年以来之散鬱憤、大慶不過之候、扨又、有其許涯分走廻、越前守身上可令馳走事、肝用候、猶越前守可申越候、穴賢、
尚々、此度越前守雖可指下候、其元未落居之由候間、如何共とつさかの地於計策仕者、其上必可指下候、無油断可令才覚候、以上、
 卯月八日          景勝
  築地修理亮とのへ

次いで、[史料1]から天正6年8月末までに黒川為実が中条氏の鳥坂城を落としたことがわかる。中条景泰、築地修理亮共に府中に在陣している隙を狙ったものだろう。9月2日付で「其地へ下着、種々相稼候故、鳥坂之地押詰」と景勝が記述しているから、8月中に既に鳥坂城を巡る攻防が活発化していた。

鳥坂城落城が天正6年であるのは[史料3]に天正7年の上杉景虎切腹の記述と共に鳥坂城攻めが併記されていることからわかる。また黒川氏によるものという理由は、鳥坂城周辺に黒川氏の他に敵対勢力が見られないこと、[史料2]の「明日ニも御手詰之事」という記述と[史料3]にある鳥坂城攻めの様子が一致していることが挙げられる。

そして、築地修理亮宛の4月21日付上杉景勝書状(*2)に「其方以稼鳥坂之地則事、誠以忠信比類無候」とあり、この時点までに築地修理亮が鳥坂城を奪還したことがわかる。ちなみに、中条景泰は結局府中に在陣を続け鳥坂城攻めには参加しなかった。[史料3]に見えるように上杉景虎の切腹と時を同じくして鳥坂城が落城することから、中央における抗争の帰趨が関係したことは十分に考えられるだろう。

さて、もう少し黒川為実の鳥坂城攻防について考察したい。[史料2]に注目する。前後の状況とも合致するため天正7年の比定でよいと考える。これは伊達氏重臣の遠藤山城守基信が鳥坂城を防衛中の為実に宛てた書状である。この中に「当国人数払而指越可被申候、尤上郡山之事も、一点如在不可有之候」とあり、伊達氏の軍事的支援があったことが読み取れる。その背景として、文中に「御簾中」や「縁辺」というように婚姻関係を表す語句が見られることが関係しているだろう。遠藤基信が「貴所御進退、従当方相挊被申候事、都鄙無其隠候間、於末代ニ相捨被申間敷候」と述べている所を見ると、伊達氏関係者との姻戚関係が想定されよう。黒川氏の在地的な繋がり見えてくるのではないか。

伊達氏の軍事的支援の中心は地理的近接性により黒川氏と関係の深い上郡山氏であった。天正7年3月の村山慶綱書状(*3)において「今度三郡山(上郡山)方・黒川方乱入」と表現されていることから、それは明らかである。

[史料2]において基信は「其元可為御蒙昧候、さ様ニ候而者、隣端之覚も如何ニ候」、すなわち物事の判断に暗く、近隣の覚えも悪くなる、と手厳しい。また、基信は「此等之儀、御家中衆へも慥に可被仰聞候」とあり黒川家中の人々へ気遣いを見せており、黒川家臣団の影響力の大きさを示していると考えられる。このように「縁辺」、「隣端」や「御家中衆」などの存在が感じられる所に、やはり為実が地縁的枠組みの中に制約されているような印象を受ける。


以上より御館の乱における為実の鳥坂城を巡る攻防についてまとめると、次の通りである。天正6年8月頃に為実が上郡山氏の軍勢を始めとする伊達氏の援助を受け、鳥坂城を落とす。9月までには中条氏家臣築地修理亮が鳥坂城攻めを開始。翌3月になっても鳥坂城は落ちなかったが、上杉景虎の切腹が伝わったころ鳥坂城も落城した。

次回は鳥坂城落城後の為実の動向を確認していきたい。


*1)『上越市史』別編2、1577号(「甲州和与之義も入眼候」より天正6年に比定される)
*2)同上、1811号
*3)同上、1801号


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