前回は、黒川竹福丸が元服後に黒川政実と名乗ったと推定した。今回は竹福丸の史料を紹介すると共に、その動向をみていきたい。文中では竹福丸、元服後は四郎次郎(竹福丸)と表現する。
[史料1]『上越市史』別編1、211号
在陣留守中掟書
一、残置留守中、各且自専、且軍役方儀与云、分限相当之外、一廉有過上人数已下、爾与可被為在府事、
一、春日山要害普請等、不可有油断事、
一、諸郷内人脚等之義、検見之者一人宛被差添、郷司・小使堅可被相触事、但、五十公郷除之事、
一、於万一不慮之儀出来者、頸城郡地下人、春日山へ可被入置事、
一、就諸篇現無道狼藉族、不嫌甲乙人、於立所可被可成敗、若以偏頗被抱置者、帰陣之上其主人へ一段可及横振事、
一、今度留守衆之内、有見除無沙汰方有之者、無私曲陣所へ速可有注進事、
一、於何事も、各以談合、執善而棄悪、可被及其噯、若以抜々覚悟無同心、吾侭之擬方不致隠密、検見之者共以其交名陣中へ可注進旨、申付之事、
一、信州之義、爰元之衆、以輪番不打絶号物見動高梨源太方へ可被合力事、
一、城山竹木不可被為剪採事、
右可被守此条々、為検見、荻原掃部助・直江与兵衛尉・吉江織部助残置之上、分別簡要候也、仍件如、
永禄参
八月廿五日 景虎
桃井右馬助殿
長尾小四郎殿
黒河竹福殿
柿崎和泉守殿
長尾源五殿
これは黒川竹福丸の初見文書となる。永禄3年から4年にかけての大規模な関東出陣に際して、長尾景虎が春日山城の留守居を務める武将たちに残した掟書である。「為検見、荻原掃部助・直江与兵衛尉・吉江織部助残置之上、分別簡要候也」より目付として旗本が残されたとわかり、領主層の武将たちに出された書状である。従って、竹福丸も一領主としての立場で軍役等を務めていることがわかる。
ここで、宛名中の他の武将に目を向けると竹福丸以外は景虎にとって一門、準一門と呼べる存在であることが注目される。具体的には桃井右馬助は『越後平定以下祝儀太刀次第写』において「直太刀之衆」に分類され、長尾小四郎は府内長尾一族であり(*1)、柿崎和泉守景家も景虎と姻戚にある(*2)。長尾源五も後の山浦国清にあたるという指摘もあり(*3)、竹福丸の他四名が景虎と姻戚関係にあると考えられる。想像を逞しくすれば、竹福丸についても景虎の近親者との婚姻が予定されていたと考えることもできようか。前回推定した「政実」という実名も、そうだとすれば頷ける。以上はあくまで想像に過ぎないが、錚錚たる武将たちと並ぶ竹福丸に対して景虎の期待があったことは考えられよう。
[史料2]『越佐史料』四巻、335頁
地かたの義、申まかせられ、鼓岡之内千苅出之候、於向後いよいよほうこう簡要候、仍如件、
永禄四年
六月廿三日 竹福丸 実
今井半内助とのへ
[史料3]『新潟県史』史料編5、4419号
再興別当真城院円海権別当敬遍
永禄五年壬戌九月九日
大檀那平朝臣黒河竹福丸 代官西(欠)実(欠)
[史料2][史料3]は竹福丸の当主としての活動を示している。[史料2]は家臣への知行宛行状、[史料3]は旧黒川村蔵王にある金峰神社の棟札銘である。
[史料4] 『新潟県史』資料編4、1347号(反町家・三浦和田黒川氏文書)
黒川四郎次郎
平政
永禄十年
拾二月三日
[史料4]は前回詳しく検討した竹福丸への名字書出である。これにより、竹福丸の元服が永禄10年であったことがわかる。
[史料5]『上越市史』別編1、606号
本庄弥次郎依逆意、彼為静謐柿崎和泉守・直江大和守其外各立遣候、内々黒河四郎次郎雖可差下候、若輩ニ候間、膝下ニ差置候、忠信今度ニ候条、傍輩共談合候而、一送之稼簡要候、謹言、
五月四日 輝虎
黒川三河守殿
同 但馬守殿
石塚玄蕃亮とのへ
沢田右京亮とのへ
松浦隠岐守とのへ
[史料5]は永禄11年の本庄繁長の乱勃発に際して、上杉輝虎が黒川家中に軍の派遣を伝え奮戦を求めた書状である。この頃の黒川家中の構造が伺い知れる。四郎次郎(竹福丸)はこの時、在府していたことがわかり、「内々黒河四郎次郎雖可差下候、若輩ニ候間、膝下ニ差置候」より、乱勃発後も輝虎の元にいたことがわかる。ちなみに、同日付の上杉輝虎書状(*4)において同じく在府していた鮎川盛長は「相下候」と伝えられており、最前線の鮎川氏との相違がみられる。また、石塚玄蕃亮(允)は11月までに本庄繁長に同調し、「石塚余堅固ニ申払候条、身(中条越前守)之以工夫速問落、不紛様躰無申事候」(*5)と記される事態となる。
[史料6]『上越市史』別編1、674号
急度申遣候、去月初時分者、各陣衆、去年已来之労兵故歟、要害攻候砌も一向ニ不被入心、輝虎計差任申付義、一切輝虎申義ニも為無之、令恐怖候つる条、自然此上ニ横合凶事出来候ヘハ、何を申候而も、旱虎滅亡之上者、千言万句不入儀候条、色部弥三郎家中者、地下人迄証人取、其外黒川何茂安田召仕神子田迄召寄、爾与差置気遣申候つる間、世間之雑意迄旧冬如誓詞、其方前不承候、(中略)、加様之切所余多越立、令張陣候条、若此上悪事出来候而、一頭二頭於取除者、則当陣之破眼前ニ候歟、(後略)
三月朔日 旱虎
新発田尾張守殿
[史料6]は本庄繁長の乱の終盤永禄12年3月に上杉輝虎が新発田長敦に人質の提出を求めた書状である。この中で四郎次郎(竹福丸)も人質を提出したことがみえる。また、この書状より[史料6]の時点で在府していた四郎次郎(竹福丸)が、永禄11年10月輝虎の出陣の際は本庄氏攻めに出陣していたと考えられる。
ちなみに、『本荘氏記録』には永禄10年5月24日「敵将軍嶺ヲ取立、鮎川・黒川二頭ニテ持固ム」、9月15日「東ニ陣取衆ハ上条弥五郎、斉藤下野守、北条弥五郎後丹後守、黒川左馬頭、上田修理亮、古志衆、下田衆、大面衆ナリ」とある。それぞれ永禄11年の出来事で、黒川左馬頭は黒川四郎次郎の誤りである。上杉方の前線である将軍嶺すなわち笹平城に対する支援に黒川氏も関わっていたはずで、[史料5]で見られた黒川家中が活動していたことであろう。北条弥五郎は永禄11年8月22日上杉輝虎書状(*6)に村上へ派遣したことが記されているから、四郎次郎(竹福丸)も同じ頃派遣されたのかもしれない。
この後、永禄12年頃に中条氏と所領を巡り相論となるが、これについては別の機会に検討することとして割愛する。
[史料7]『上越市史』1246号
(表紙)「御軍役帳」
(前略)
黒川四郎次郎
九拾八丁 鑓
拾五人 甲・打物・籠手・腰指 手明
拾丁 笠・腰指 鉄炮
拾本 大小旗
拾五騎 甲・打物・籠手・腰指 馬上
以上、
同心 土沢
弐拾七丁 鑓
壱丁 笠・腰指 鉄炮
壱本 大小旗
弐騎 甲・打物・籠手・腰指 馬上
以上、
自分同心共ニ
合 百弐拾五丁 鑓
拾壱丁 鉄炮
拾壱本 大小旗
拾七騎 馬上
以上、(後略)
(張紙)「天正三年 弐月十」
[史料7]は上杉謙信が定めた軍役帳から、黒川氏の部分を抜粋したものである。同心に土沢氏の存在が確認できる。黒川氏の合計が148人、土沢氏の31人を加えると179人となる。中条氏が計140人、大見安田氏が148人、加地氏が158人、五十公野氏が124人であるから平均的な揚北衆の軍役といえるだろう。
[史料8]『越佐史料』五巻、324号
今度わひ事におよひ候あいた、本地ちさうたう(地蔵堂)屋しき出之候、きやうこう、ほうこうかんよふに候、
天正三年
霜月廿三日 政実
今井弥七郎とのへ
[史料8]は前回検討したように、黒川四郎次郎(竹福丸)発給と推定した文書である。これ以後、四郎次郎(竹福丸)は史料上確認できない。
そして御館の乱に関連して黒川源次郎が伊達輝宗より書状が送られている(*7)。「其方進退之儀、今度越国江茂申越候」とあり、御館の乱頃には黒川家当主として源次郎が活動していたと理解できる。よって、四郎次郎(竹福丸)は天正4年から6年頃に死去したと考えられる。
父と思われる先代実氏の初見が天文11年(1542)であり、竹福丸の初見が永禄3年(1560)である。そして、元服が永禄10年(1567)と推測できる。以上より、元服を15歳と仮定するとその初見時には8歳、生年は天文21年(1552)と逆算できる。死去は天正4~6年(1576~1578)であるから、享年は25歳前後であろう。
ちなみに、『上越市史』で天正5年に比定される上杉謙信書状(*8)中に「人数重而可越由候間、村善ニ黒川衆差越候」とある。この「黒川衆」とは、直前に「村善」とあることから村山善右衛門尉慶綱に関係の深い黒瀧衆を表現したものと考えられよう。
以上が、中条氏との所領相論文書を除くと全ての黒川竹福丸関連文書となる。短命であり、史料も少ないことからその評価は難しいが、[史料1]で春日山城の留守居を任され、[史料6]において色部氏、安田氏と並んで人質を提出しているように、上杉氏への従属は強化されていたと言えよう。特に、上杉謙信は[史料4]で「政」字を与えたり、[史料5]にあるように若年の四郎次郎(竹福丸)を「膝下」に置いていたり、主従の人的関係による取り込みを図っていたように感じる。ただ、[史料5]に見える石塚氏が本庄氏に与して離反するなど四郎次郎(竹福丸)の代においても自領の支配は固まっていたわけではなく、小領主を抱える大領主という立場が一貫して変わらなかったのも事実である。
ここまで黒川竹福丸について史料の検討をしてきた。また機会があれば、さらに考察を進めていきたいと考えている。
*1) 片桐昭彦氏「謙信の家族・一族と養子たち」(『上杉謙信』高志書院)において、「林泉寺文書」の検討により長尾小四郎の母は「謙信の姉妹かごく近親者であろう」とする。
*2)同上論稿で、柿崎景家の妻は「謙信の近縁者、血縁者」とする。
*3)同上論稿より。史料上長尾源五と入れ替わるように山浦源五が現れること、「村上系図」に上杉謙信の養子になったと記されていること、を理由として挙げている。
*4)『上越市史』別遍1、607号
*5)同上、625号
*6)同上、614号
*7)『上越市史』別遍2、1843号
*8)『上越市史』別遍1、1330号
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