鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

長尾平六の乱に関する検討1

2021-08-22 18:53:44 | 長尾氏
永正期越後において「長尾平六」が反乱し、長尾為景らがその鎮圧にあたったことは史料上明らかである。

しかし、これについては詳細な検討が不足していると感じる。現在、平六の乱については、年次、場所、人物の全てにおいて不正確な情報が散在している。


結論からいえば、長尾平六は永正6年に上杉定実・長尾為景陣営から離反し抵抗を続け永正8年1月古志郡・山東郡周辺にて戦死した存在であり、従来比定される長尾長景とは別人と推測できる。

今回は、平六の乱の年次比定について検討する。

なお以前の記事では、平六の戦死を永正9年とする従来の年次比定に従っていた。訂正したい。前回までの記事も合せて修正している。

1>『越佐史料』による年次比定について
まず、前提として平六の乱は後掲[史料2]からに複数年に渡っており、年次比定として重視する点は平六の戦死を伝える文書群である。よって、平六の戦死がいつであったか、について注目して見ていくことになる。

それら文書には年号が付されておらず、これらの文書だけでは判断することができない。

内容からは、山内上杉可諄が戦死し上田長尾氏が長尾為景方に帰属後かつ、宇佐美房忠生前の間であるから、永正8年1月、同9年1月、同10年1月のいずれかであることは確実である。


長尾平六の乱を扱った岡村智紀氏の研究(*1)では、平六の戦死を『新潟県史』、『越佐史料』に従い永正9年1月に比定している。また、『新潟県史』は『越佐史料』の比定に従い、永正9年1月としている。

つまり、『越佐史料』の年次比定が諸研究において根拠とされている。

そして『越佐史料』を見ると、平六の戦死を永正9年とする典拠として[史料1]『関興庵由緒書』の記述を挙げている。

[史料1]『越佐史料』三巻、579頁
永正九壬申正月十六日、上田之庄六日町広居ガ橋ニテ、長尾越前守房長公、六人衆ト合戦、藎ク退治〆、庄内ヲ所務有ル也、此時関興庵諸堂兵火ニ焼失、(後略)


[史料1]は永正9年1月16日に六日町にて合戦があったことを伝えている。しかし、この日付と場所、そして内容は、長尾為景に反抗した八条左衛門尉や石川氏、飯沼氏を為景方の長尾房長、長尾房景、中条藤資らが破った永正11年1月16日六日町合戦のことを指しているとみて間違いない。

ちなみに、平六の乱における大規模な合戦は、上杉定実書状(*2)より1月23日である。

つまり『越佐史料』の年次比定は、異なる合戦を平六の乱と混同したものであった。よって、『越佐史料』を引用して永正9年と比定する諸研究は信頼性を欠くものであることがわかる。


2>上杉定実書状と『勝山記』から見た年次比定
続いて、当時代の史料から平六の乱の年次に関する情報を読み取りたい。


[史料2]『新潟県史』資料編3、560号
返々、平六被打取、去々年以来無念も可散候、又ハ下向年題かたがた物はじめに候間、満足とん満足に候、(中略)
去廿三日、於其地一戦勝利、諸口かため可然候、先度下向候時分者、中郡を打捨られ候やうに候間、侘事候へば、よき仕合に候、爰元万事に殊忠之様に候へとも、か様之処を聞候へは、天道も候かと可然候、目出候、
(中略)
一、同名伊玄、いまに駿河にわたられ候由候、早雲刷も前々に相かハり候由、藤沢より帰路時衆申候由、嚴阿物語候、返々、伊玄事、無御心元候、
   正月二十七日            定実
    桃渓斎

[史料2]は長尾平六が討取られた後に上杉定実から桃渓庵宗弘=長尾為景に出された文書である。

注目すべき点は「同名伊玄」とある長尾伊玄(景春)に関する記述である。伊玄は永正7年7~9月に長尾為景の援軍と共に山内上杉氏と交戦していることからわかるように、定実・為景の協力相手である。また、文中にある「早雲」は伊勢早雲庵宗瑞を指し、宗瑞もまた為景や伊玄の協力者であった。

[史料2]において、伊玄が駿河に退去したことがわかる。


[史料3]『勝山記』
永正八年辛未
(中略)、此年長尾ノ伊賢此郡ヲ武州へトヲリ威勢ヲ取ラルル也、(後略)


[史料3]は、写本によって『勝山記』、『妙法寺記』と呼ばれる甲斐国妙法寺の僧侶が記した当時の記録の抜粋である。妙法寺は現在の山梨県南都留郡旧小立村に位置していたという(*3)。

「長尾ノ伊賢」は長尾伊玄のことであり、永正8年時の伊玄の動向をあらわしている。詳しい月日は記されず、同年中、伊玄に関係する部分はこの短い一文のみである。この部分の前に同年1月の出来事、後に8月の出来事が記されていることから、伊玄の活動はその間つまり永正8年前半のことと推測できる。


黒田基樹氏(*4)は、永正8年における伊玄の活動がみえることから、駿河へ逃れた時期は『勝山記』の記述以降と捉え、[史料2]を永正9年1月としている。伊勢宗瑞を頼り、その同盟国今川氏の元へ逃れたと捉えている。

つまり、黒田氏の研究に従うならば、伊玄の動向について次のような時系列が想定される。

永正7年7~9月:上野国沼田庄で為景援軍と共に軍事活動
永正8年前半:甲斐国及び武蔵国での軍事活動
永正9年1月まで:駿河に退去

伊玄の駿河退去が永正8年中ならば、[史料2]上杉定実書状は永正9年1月であり、平六の戦死も永正9年1月である、という理論である。


しかし、私は上記とは別の動向を推定する。その理由は『勝山記』の記載の解釈である。

[史料3]をよく読むと、伊玄は「此郡ヲ武州へトヲリ」、都留郡を通って武蔵へ進軍した、というのである。つまり、妙法寺のある都留郡は通過しただけなのである。

通過するには入口と出口が必要である。出口は武蔵国であるから、入口が問題である。甲斐国内の他郡とは考えにくい。甲斐武田氏は永正期以前から山内上杉氏と親しく、伊玄を支援する今川氏・伊勢氏と対立関係にあるからである。

すると、都留郡の南側が駿河国駿東郡に面し、籠坂峠によって接続されていた点が重視される。つまり、伊玄は駿河国を入口として甲斐国都留郡を通過し、武蔵国へ進んだと推測できる。

永正8年時点で伊玄は既に駿河へ退去しており、駿河今川氏・相模伊勢氏の協力を得た上で都留郡を通過し武蔵へ侵攻した、というのが真相ではなかったか。

伊玄が進路として都留郡を選んだ理由としては、上野原加藤氏が伊玄に対して協調的な関係にあったことが挙げられるだろう(*5)。

以上より、私は伊玄の動向を以下のように推定する。

永正7年7~9月:上野国沼田庄で為景援軍と共に軍事活動
その間:駿河へ退去、今川・伊勢氏の協力を得る
永正8年前半:都留郡を通過し武蔵国での軍事活動


長尾伊玄の動向を整理したことによりその駿河退去が永正8年前半以前であったことが推測される。恐らく、沼田庄での活動が失敗した後、まもなく駿河へと退いたのであろう。

そして、それを記す[史料2]上杉定実書状が永正8年1月に比定され、平六の戦死が永正8年1月のことであった可能性が高いと考えるのである。


3>『実隆公記』との関連について
平六の戦死が永正8年1月であることを示唆する点について、さらに言及していく。

[史料2]において、定実は「平六被打取、去々年以来無念も可散候」と述べている。つまり平六が離反したのは「去々年」であるということだ。では、「去々年」とはいつなのか。

[史料2]が永正9年1月であれば、永正7年のこととなる。しかし、永正7年は定実・為景が山内上杉氏との抗争に反撃し山内上杉可諄を討取った年である。大勢が定実・為景に傾きつつある中で平六が離反したのだろうか。

一方、[史料2]が永正8年1月であれば、永正6年のことになる。山内上杉可諄が越後へ進軍し、定実・為景は越中へと逃れることになる年である。平六が離反し、山内上杉氏陣営についたと考えると自然ではないか。

これを踏まえると、長尾平六は山内上杉氏勢力の残党であった、と捉えることができる。


[史料4]『実隆公記』
永正八年五月(中略)、
廿七日丙子、天晴、吉田有使者、越後国、去十九日堀内図書等生害、一国平均太平云々、珍重々々、

[史料4]は当時の記録である『実隆公記』の抜粋である。永正8年5月京の三条西実隆に、山内上杉氏との抗争以来の混乱が収まり定実・為景の元に越後が統一されたという知らせが届いたという。

平六の戦死が永正9年であれば、「去々年」より永正8年中も抵抗を続けているわけで、永正8年時に「一国平均」とはならない。


そこで、平六の戦死が永正8年1月であれば時系列として矛盾がない。5月19日に討伐された「堀内図書」という人物は他に所見がないが、上杉定実書状(*6)には平六の討死後も「凶徒」が活動を続けていることが見え、その中の一人と考えると辻褄が合う。



以上、長尾平六の乱の年次比定について検討した結果、平六が永正6年に離反し永正8年1月に戦死したことが推測される。

平六の乱、という名前からは個人の反乱というイメージが強いが、実際には山内上杉氏の抗争の残党勢力との抗争であり、その中の有力武将が平六であったといえる。

次回は平六の乱に関して、その場所と人物について検討していきたい。



*1)岡村智紀氏「永正期越後国における戦乱と長尾長景」(『新潟史学』48)
*2)『新潟県史』資料編3、103号
*3) 『妙法寺記』富士吉田市史編纂室
*4) 黒田基樹氏「長尾景春論」(『長尾景春』戒光祥出版)
*5) 黒田基樹氏の研究(*4)に拠れば、上野原加藤氏は長尾景春の乱において伊玄(景春)に味方しており、武蔵侵攻には両氏の関係による部分があると想定している。
*6)『新潟県史』資料編3、102号


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