前回までに、上田長尾氏の系譜について顕吉までを検討してきた。今回は、顕吉の次代房長以降について見てみたい。
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1>房長(新六/越前守)
『越後長尾殿之次第』(以下『長尾次第』)より、早逝した「憲長」の息子であるという。叔父である顕吉から家督を継承した。
初見は永正6年10月上杉憲房書状(*1)である。ここには、「長尾新六」=房長の注進により、発智六郎右衛門尉の活躍が山内上杉憲房から賞されている。叔父であり当主の顕吉と共に山内上杉氏に従っていたことがわかる。
長尾顕吉が当主として見える年不詳11月長尾長景書状(*2)を永正7年に比定し、房長に宛てられた永正8年1月上杉定実書状(*3)よりこの時点で房長が当主であるから、この間に家督を相続したと推測する。これは前回の検討の結果である。
永正11年1月長尾房長書状(*4)で房長は「新六房長」と署名している。
ちなみに、文書によっては「長尾六郎」として見える場合もあり仮名六郎を名乗る長尾為景との鑑別が必要となってくる。これについては、また別のページで紹介したい。
顕吉の三回忌を伝える享禄5年6月長尾房長書状(*5)に「越前守房長」と署名しており、越前守を名乗る初見である。
『長尾次第』は没年を天文21年8月15日とする。
法名は「月州暉清」であることから、永正11年1月に穴澤氏へ文書(*6)を発給している「月州」が房長に比定される場合がある。しかし、花押型は房長と異なり、初見から間もない房長が入道する理由も無く、実際入道した事実もないことから、別人である可能性が高いと考える。
房長の子供たちを検討していく。
まず、『長尾次第』に房長の息子として通天存達、長尾政景、大井田景国の三人が載る。
そして、『越後過去名簿』には天文10年2月に供養された「上田長尾真六トノ」なる人物がいる。仮名から房長の息子である可能性が考えられる。
系図類を含め史料に該当の人物の所見はないが、一族の中には後述する長尾時宗のように系図に見ない人物もいる。むしろ房長と共通の仮名からは嫡男にふさわしいとも思え、後考を要する。
房長の娘は諸史料から三人が検出される。
『長尾次第』に、房長には「安田殿内儀」となった娘がいたと記される。『大見安田系図』にも安田長秀の妻が長尾政景妹とあり、房長娘は大見安田長秀の妻であると見られる。
『藤原姓市川氏系図』、『平姓上田長尾系図』には「市川治部小輔信房」の妻が房長の娘、政景の妹、とある。市川氏は信濃北部の領主であり、当該の人物は永禄頃から活動が見られる。
『越後過去名簿』には天文12年8月に「上田越前トノ御ムスメ」が供養されている。
2>政景(六郎/越前守)
房景の嫡子であり、その跡を継いだ人物である。『長尾次第』には、兄に雲洞庵住職の通天存達、弟に大井田藤七郎景国がいたとされる。
その初見は天文後期の長尾景虎との抗争による文書群である。「六郎政景」として所見され(*7)、仮名六郎が明らかである。景虎と上田長尾氏の抗争の年次比定については以前検討している。
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弘治元年4月長尾政景安堵状(*8)において、政景が「越前守」の名乗りで初見される。以後、死去まで越前守政景を名乗る。
没年は永禄7年7月5日である。『長尾次第』、『龍言寺古過去帳』、『長福寺過去帳』などにそれが伝えられる。永禄4年7月と伝えるものもあるが、それ以降永禄5年11月長尾政景起請文(*9)や多数の政景宛上杉輝虎書状(*10)が残っていることから、明らかな誤伝である。
永禄7年7月には上杉輝虎の信濃への軍事行動が延期されており、政景の死去が原因の可能性がある。政景の死去については様々な所伝が残る。ここで詳しくは見ないが、上杉輝虎(謙信)による謀殺といった説は俗説に過ぎないと考えている。
『羽前米沢上杉家譜』の記載によると、享年39歳とされる。これに従えば、大永6年生まれとなる。
3>政景とその一族
政景の家族については、『長尾政景夫妻画像』や『長尾次第』から推測することができる。兄弟姉妹については房長の項目で言及した通りである。
妻は、長尾為景の娘「仙洞院知三道早早霊」である。母は為景の正室天甫喜清である。『長尾次第』では、原本作成時に生存していたため「老大方様」とある。『府中長尾系図』『平姓長尾系図』などによれば、大永4年生まれ86歳で慶長14年2月に死去したという。
長女は、北条氏からの養子上杉三郎景虎の妻「華渓昌春大禅定尼」である。天正7年3月18日に御館において自害したという。『上杉家譜』によると享年24といい、弘治2年生まれとなる。
遠山氏の系図にも、景虎の近臣遠山康光は景虎の鮫ヶ尾城への退却に従わず御館において景虎の妻子と共に自害したと伝わっている。鮫ヶ尾城で死亡した上杉景虎に対し、妻子はそれ以前に御館で自害していたことがわかる。
景虎との間には「道満童子」、「源桃童子」、「還郷道女」の三人の子供がいたと推定される。前者二人は御館の乱により死去、後者は政景妻仙洞院の手元にあり天正9年に死去という。
二女は、畠山氏出身の上条弥五郎義春の妻「仙洞院殿離三心契大姉」である。『長尾次第』では、原本作成時に生存していたため「上条大方様」とある。
長女と二女は混同されがちだが、以前検討したように長女が景虎妻、二女が義春妻である。また、どちらも仙洞院の所生と推測される。
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4>時宗
また、政景の血縁者と推定される人物として長尾時宗がいる。永禄7年2月上杉輝虎感状(*11)にて「長尾時宗」がその働きを賞賛されている。この文書において時宗の指揮下にある武将たちが記載されているが、ほぼ上田衆によって構成されている。
また、宛名が「長尾時宗殿」であるから時宗は実名ではなく幼名と推測される。
上述の感状を初見として、永禄13年2月下平右近亮宛長尾時宗感状(*12)が終見である。所見の全てが感状である。ちなみに、終見の感状と同日に同じ下平右近亮宛に長尾顕景(上杉景勝)からも感状(*13)が発給されている。
時宗に関しては片桐昭彦氏の研究(*14)に詳しい。片桐氏は「長尾時宗が率いた軍勢は長尾政景の一族・家中で構成されていたことになる」とし、政景存命時にその立場を任されていることから上田長尾氏の人物と見ている。
その上で、片桐氏は消去法的に『外因譜略』といった系図類に見られる長尾政景の長男「義景」にあたる人物の可能性を指摘する。つまり、時宗が政景の正統な後継者であり、政景死後その家督を継いだのではないかと推測している。
そして同氏は、永禄13年に長尾顕景(上杉景勝)と同時に感状を発給して以降所見がないことから、その後は上杉輝虎が自身の養子である喜平次顕景の上田長尾氏に介入させていったと推測している。上杉輝虎(謙信)による上田長尾氏の名跡と上田衆の軍事指揮権の奪取と見ているのである。
時宗に関しては系図類にその名がなく史料も少ないことから、現在は片桐氏の考察の他に有力な説はないようである。正統な後継者として時宗が存在してのならば、上杉謙信と上田長尾氏の関係についてより慎重に検討していくべきであろう。
或いは、時宗の進退に謙信の意向が強く働いたことが、後世に長尾政景の死に謙信が関わったとの誤伝を生んだのかもしれない。
以上が上田長尾氏の系譜に関する検討である。
同氏出身の上杉景勝が米沢藩主として存続したものの、史料的に恵まれているとはいえない。むしろ少量の史料が上杉謙信や景勝を美化するために改変された可能性を考えると、その読解は慎重を期す。
関越国境という交通の要地に位置することもあって戦国期を通じ上田長尾氏の動向は政治的・軍事的に影響力を持ち、それを把握することは重要課題の一つと言えるだろう。
※追記
上杉定実書状(*3)の年次比定については、長尾平六の乱に関する検討より永正8年1月とした。当初は永正9年と推定していたが、訂正する。
平六の乱については次の記事の通りである。
*1) 『越佐史料』三巻、530頁
*2)同上、612頁
*3) 『新潟県史』資料編3、103号
*4)『越佐史料』三巻、607頁
*5) 『新潟県史』資料編5、3578号
*6)同上、3616号
*7) 同上、資料編4、1645号
*8) 『歴代古案』2-531
*9) 『越佐史料』四巻、396頁
*10) 『新潟県史』資料編3、396号など
*11) 同上、資料編5、2478号
*12)『上越市史』別編1、877号
*13)『新潟県史』資料編5、3468号など
*14)片桐昭彦氏 「長尾景虎(上杉輝虎)の感状とその展開」(『戦国期発給文書の研究』高志書院)
※21/8/22 追記あり
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