センター属性については、既述のごとくにある程度その「仕様」を追い込めると思われるんだけど、実際にセンターを担ってる個々人の個性は、それぞれ見事に異質。
「世界はどこまで青空なのか」の荻野由佳さんを見てると、強い個性を隠し立てすることもなく、真っ正直にすべてを曝け出す、そんな徹底した外向性、開放性というプロデュース方針が窺えるように思う。曲調はもちろんのこと、そもそも歌詞は当て書き。振り付けも衣装も、荻野さんにジャストフィットされてる。
対照的なのが、かつての前田さんということになるのかな。前田さんはダークマターの如き未知の巨大な「質量」を、その奥底に隠し持ちながら、その正体は誰にも、それこそ前田さん自身にも分からない。そこを秋元氏がこじ開けるようにして、その一部分を半ば強制的に暴いて見せてくれた。そして何より、そんな「質量」こそが、AKBムーブメントのモメンタムとも言うべきものとなってくれた。
そのまたさらに対照的なのが、平手さんだろう。平手さんは、たぶん容量の分からない空っぽの器のような存在様式なんだろう。そこにどれだけのものを注ぎ込めるのか、誰にも、それこそこちらもまた本人にも分からない。ギリギリのせめぎ合いの、その「不協和音」の軋む音が、言わば強制的に刺さってくる。正にプロデューサー冥利に尽きるんじゃないだろうか。
さらに一周するように、そんな平手さんと対照的に思えるのが、島崎さんということになりそう。決して譲らない、揺るぎない「頑固」から、梃子でも動かない。プロデューサーの手腕が問われる難素材。だからこそ秋元氏の、言わば琴線に触れた。
「世界はどこまで青空なのか」の荻野由佳さんを見てると、強い個性を隠し立てすることもなく、真っ正直にすべてを曝け出す、そんな徹底した外向性、開放性というプロデュース方針が窺えるように思う。曲調はもちろんのこと、そもそも歌詞は当て書き。振り付けも衣装も、荻野さんにジャストフィットされてる。
対照的なのが、かつての前田さんということになるのかな。前田さんはダークマターの如き未知の巨大な「質量」を、その奥底に隠し持ちながら、その正体は誰にも、それこそ前田さん自身にも分からない。そこを秋元氏がこじ開けるようにして、その一部分を半ば強制的に暴いて見せてくれた。そして何より、そんな「質量」こそが、AKBムーブメントのモメンタムとも言うべきものとなってくれた。
そのまたさらに対照的なのが、平手さんだろう。平手さんは、たぶん容量の分からない空っぽの器のような存在様式なんだろう。そこにどれだけのものを注ぎ込めるのか、誰にも、それこそこちらもまた本人にも分からない。ギリギリのせめぎ合いの、その「不協和音」の軋む音が、言わば強制的に刺さってくる。正にプロデューサー冥利に尽きるんじゃないだろうか。
さらに一周するように、そんな平手さんと対照的に思えるのが、島崎さんということになりそう。決して譲らない、揺るぎない「頑固」から、梃子でも動かない。プロデューサーの手腕が問われる難素材。だからこそ秋元氏の、言わば琴線に触れた。