例によって原作は読んでないんで、あくまでも映画としての感想と断っておく。それから「アイドル映画」とかの特別枠とかは、もちろん考慮しないということも。
まずはストーリーが大甘すぎて、なんか乗れない。程久保高校野球部の当初のレベル設定が低すぎるとしか思えないんで、そこに前田さん演じる川島みなみがマネージャーとして入って、ドラッカーの「マネジメント」に準拠して意識改革、組織改革を図ったとして、それだけのことでなんで甲子園に届いてしまうのか。どうしても、なめんじゃねーぞな気分になってしまう。
物語の動機付け役にして広義の狂言廻しとも言える、川口春奈さん演じる宮田夕紀が、決勝戦の朝に亡くなるというのも、ストーリーとして安っぽ過ぎないか。川口春奈さんは好演だと思うし、病気役というアドヴァンテージもあってか華もあって、とても印象的なだけに、この「扱い」にはあざとさを感じざるを得ない。
一方の前田さんはと言うと、イマイチ「調子悪い」感じかな。華という点でも、はっきり言って川口春奈さんに負けてると思うし、演技の乗りもはかばかしくない感じ。前田さんがほとんど本能のように醸し出す、そこだけ空気感が違う感、硬い存在感が、どうもマイナス側に作用して邪魔してしまう。だからこそなんだろうけど、よけいに声の良さ、声の個性は印象的だったかな。
とま前置きはここまでで、物語全体を俯瞰すれば、これがAKBのカリカチュアというか、AKBを再構築したかのようなお話であることは明らかかと。高校野球の比喩は、秋元氏が何度も語ってることだし、原作者の岩崎夏海氏は元AKBのADだったわけだし。wikiによれば、「自身のはてなダイアリーで2008年7月11日に書いた同名の記事を読んだダイヤモンド社の編集者が岩崎に企画を持ちかけて制作された」とのこと。もう元記事は読めないのかな。
例によっててきとーな推測だけど、岩崎氏が目撃したであろう、初期AKBの内部で起こったこと。それをドラッカーの「マネジメント」で理論武装して読み解いてみて、その理解をもってフィクションとして表現してみた、そんな辺りなんじゃないか。ちなみにその「マネジメント」も、私、未読なんで、あんまり大きな事は書かない方が良いかも。
いずれにせよ、ならば主人公の名前が「みなみ」なのは、高橋さんにあやかったと思いたくなるけど、岩崎氏自身の説明によれば、「みなみ」は「みなみ」でも、峯岸さんの方とのこと。ホントかな。
岩崎氏は、内部からAKBの生成過程を見てきたことになるはずなんで、そんな岩崎氏に対して、「風吹新規」の分際で外部からもの申すというのもアレだけど、それでも書いてしまえ。ドラッカー氏自身はユダヤ人とのことだけど、その思想はプロテスタント的な価値観に近似してるように読めるんで、その行動原理は、目的合理性と世俗内禁欲という倫理規範に基づくはず。
実際、映画の中で引用される「マネジメント」の内容も、この枠組みに矛盾しない。とすれば、初期AKBに起こったに違いない自己組織化過程と、そこは微妙に相容れないことにならないか。具体的には、結果ではなく過程こそが重要なんだ、日常こそが一所懸命の修行の場という日本人的な行動規範との違い。それは最終的には、予定律と因果律という、世界観の対立へと行き着くことになる。
実際映画の中では、この正に「過程と結果」についての台詞廻しがあったんで、岩崎氏も気づいてるのかも知れない。そう思ったりもしたけど、そこら辺は、ストーリー上でうまく生かされてるようには見えなかった。とは言えそこは、ドラッカーの「マネジメント」によるAKB理解と、その微妙な齟齬というか限界に、岩崎氏が自覚的だったことの表明と捉えておこうか。
何にせよ、この作品を一種のAKB論として見る、そんな辺りで楽しむというのが、いろいろと案配がよろしいんじゃないかと。
まずはストーリーが大甘すぎて、なんか乗れない。程久保高校野球部の当初のレベル設定が低すぎるとしか思えないんで、そこに前田さん演じる川島みなみがマネージャーとして入って、ドラッカーの「マネジメント」に準拠して意識改革、組織改革を図ったとして、それだけのことでなんで甲子園に届いてしまうのか。どうしても、なめんじゃねーぞな気分になってしまう。
物語の動機付け役にして広義の狂言廻しとも言える、川口春奈さん演じる宮田夕紀が、決勝戦の朝に亡くなるというのも、ストーリーとして安っぽ過ぎないか。川口春奈さんは好演だと思うし、病気役というアドヴァンテージもあってか華もあって、とても印象的なだけに、この「扱い」にはあざとさを感じざるを得ない。
一方の前田さんはと言うと、イマイチ「調子悪い」感じかな。華という点でも、はっきり言って川口春奈さんに負けてると思うし、演技の乗りもはかばかしくない感じ。前田さんがほとんど本能のように醸し出す、そこだけ空気感が違う感、硬い存在感が、どうもマイナス側に作用して邪魔してしまう。だからこそなんだろうけど、よけいに声の良さ、声の個性は印象的だったかな。
とま前置きはここまでで、物語全体を俯瞰すれば、これがAKBのカリカチュアというか、AKBを再構築したかのようなお話であることは明らかかと。高校野球の比喩は、秋元氏が何度も語ってることだし、原作者の岩崎夏海氏は元AKBのADだったわけだし。wikiによれば、「自身のはてなダイアリーで2008年7月11日に書いた同名の記事を読んだダイヤモンド社の編集者が岩崎に企画を持ちかけて制作された」とのこと。もう元記事は読めないのかな。
例によっててきとーな推測だけど、岩崎氏が目撃したであろう、初期AKBの内部で起こったこと。それをドラッカーの「マネジメント」で理論武装して読み解いてみて、その理解をもってフィクションとして表現してみた、そんな辺りなんじゃないか。ちなみにその「マネジメント」も、私、未読なんで、あんまり大きな事は書かない方が良いかも。
いずれにせよ、ならば主人公の名前が「みなみ」なのは、高橋さんにあやかったと思いたくなるけど、岩崎氏自身の説明によれば、「みなみ」は「みなみ」でも、峯岸さんの方とのこと。ホントかな。
岩崎氏は、内部からAKBの生成過程を見てきたことになるはずなんで、そんな岩崎氏に対して、「風吹新規」の分際で外部からもの申すというのもアレだけど、それでも書いてしまえ。ドラッカー氏自身はユダヤ人とのことだけど、その思想はプロテスタント的な価値観に近似してるように読めるんで、その行動原理は、目的合理性と世俗内禁欲という倫理規範に基づくはず。
実際、映画の中で引用される「マネジメント」の内容も、この枠組みに矛盾しない。とすれば、初期AKBに起こったに違いない自己組織化過程と、そこは微妙に相容れないことにならないか。具体的には、結果ではなく過程こそが重要なんだ、日常こそが一所懸命の修行の場という日本人的な行動規範との違い。それは最終的には、予定律と因果律という、世界観の対立へと行き着くことになる。
実際映画の中では、この正に「過程と結果」についての台詞廻しがあったんで、岩崎氏も気づいてるのかも知れない。そう思ったりもしたけど、そこら辺は、ストーリー上でうまく生かされてるようには見えなかった。とは言えそこは、ドラッカーの「マネジメント」によるAKB理解と、その微妙な齟齬というか限界に、岩崎氏が自覚的だったことの表明と捉えておこうか。
何にせよ、この作品を一種のAKB論として見る、そんな辺りで楽しむというのが、いろいろと案配がよろしいんじゃないかと。